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 静かなピアノの旋律が流れている。この1ヶ月余り、施設内では、利用者さんの寛ぎの時間(リラックスタイム)に同じCDが繰り返しかけられている。 「また……この曲か」  介助ベッドに横たわる男性が、ぼんやりと呟いた。清拭をしていた介護スタッフの和田は、酷く驚いたものの、笑顔で語りかけた。 「あら、椋田さん。今日は、お目覚めなんですね」  高校教師だったという老人には、身寄りがない。随分前に結婚歴があるとか、子どもが居るらしいとか、不確かな情報はあるが、如何せん本人の認知症が進行していて、よく分からない。この施設に入所したのも、市の福祉課の手配によるもので、入所前は長年単身生活をしていたらしい。勤めていた高校を定年退職したあとは、細々と安アパートで暮らしていたが、雪道で転倒して骨折したのを切っ掛けに介護支援が必要になった。介護スタッフにあれこれ指図する気難しい性格で、入所後暫くはスタッフ達も手を焼いていた。ところが認知症を発症すると、ここ2年くらいはめっきり意識レベルが下がってしまった。利用者同士が交流するデイケアの時間も、昼寝などに充てられる寛ぎの時間も、食事の時以外は、ほとんど傾眠を繰り返していた。 「下手な、音だ……」  老人が低く笑ったので、思わず和田の手が止まる。会話だけじゃない。感情を表すなんて……一体、なにが刺激になったのだろう。 「まぁ。弾いているのは、プロのジャズシンガーの方なんですよ」 「はは。これで、プロか」 「ええ、アリエルさんって、とてもお綺麗な女性で、アメリカで活躍されているんですよ」  曲が変わる。再び柔かなタオルを手にし、老人の清拭を続けながら、和田はうっとりと微笑んだ。 「この曲、あたし好きなんです。タイトルが」 「『フォー・ユー』、だろ」 「ええっ? どうして、それを……」  アリエルが慰問に来た時、彼はやはり眠っていた。2ヶ月前に出たCDに収録された曲を、そしてそのタイトルまでを、どうして知り得たのだろうか。 「『for 有得(ゆう)』……これは……私達の歌、なんだ……」  椋田は穏やかに目を閉じた。奇妙な感動に包まれたまま、和田は旋律の合間に流れる彼の静かな寝息を聞いていた。 【了】
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