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ボランティア
私の我が儘を、快諾してくれたことが本当に有難い。アポは数時間前の電話1本だけで、失礼と受け取られかねない突撃訪問なのに。
「まさかあのアリエルさんがいらっしゃるなんて……今日出勤のスタッフはラッキーですわ」
マゼンタ色のボタンのないシャツに、黒のストレッチパンツという制服姿の事務長さんは、建物内部を案内しながら、利用者さん達が集う談話室へと先導してくれる。50代半ばと覚しき彼女は、私の一歩前を行く。身長差で見えてしまう頭頂部には、染め残しの白いものがパラパラと覗く。気苦労の多い仕事だ。心の中で頭を下げる。
「もしよろしければ、先月出したCDを差し上げますよ」
「まぁ、それはありがとうございます! ここは、認知症が進んだり、運動機能が低下した利用者さんが殆どなんです。談話室に来られない方も少なくないので、後日館内放送で流させていただきますね」
「それは嬉しいです」
「さ、ここです。――皆さーん、ジャズシンガーのアリエルさんがいらっしゃいましたよ!」
扉のない談話室は、廊下に面する間仕切りもない。広い窓と左右、三方だけ壁に囲まれた明るく開放的な空間だ。左の壁際まで椅子とテーブルを片し、右の壁の前にアップライトピアノが鎮座する。
急ごしらえで整えられたステージは、床が一段高くなっている筈もなく、もちろんスポットライトもマイクもない。
移動式のベッドや、車椅子に乗った人生の先輩達が、私の長い金髪を見て「外人かね」「言葉は分かるんじゃろか」と囁き合っている。
「皆さん、こんにちは。私は、アリエルと申します。こんな髪ですけど、日本人です。そして、私はこの朝川市で18歳まで育ちました。今日は、少しの時間ですけど、一緒に音を楽しめればと思います。知ってる曲は、どうぞ歌ってくださいね」
ピアノの横で挨拶して一礼すると、拍手が応えてくれた。音を発するのは、利用者さんに付き添う介護スタッフの方々。利用者さんの中にも数人、震える手を懸命に合わせようとしてくれていた。
私は椅子に腰かけて、高さを合わせる。それから、年季の入ったアップライトピアノの蓋を開ける。少し黄ばんだ白鍵は、手入れの不行き届きと同時に、長年この施設で必要とされてきたことを示している。普段はデイケアで、童謡や唱歌、かつて流行った歌謡曲を奏でているのだろう。調律の甘い音色さえ、むしろ誇らし気に響いた。
ジャズアレンジした「アメイジング・グレイス」を弾き終わり、拍手をもらう。利用者さんの負担を考えると、30分が限界だろう。実際、演奏途中で御手洗に中座する方も数名みられた。
「ありがとうございます。それでは、最後の曲……『for you』です」
先月発表したCDでもラストを飾るこの曲は、私に取って特別な旋律だ。想いを込めて、鍵盤とデュエットする。
ありがとう 会いに来てくれて
ありがとう 笑顔を向けてくれて
あなたが 私を忘れても
あなたの 側に居なくても
私は ずっと忘れない
私は いつでも側に居る
この身体が やがて世界に 溶け込めば
雨になり 風になり 光になって
最悪な時も 最高の時も
愛を贈り続けよう
あなたへ
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