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《9月10日午前九時半前後。T・T事務所兼リビング。タクミ》
今日はユーベルのいつもの定期検診の日。
急いで出かけようとしていることころに、事務所のテレビ電話のコール音がした。
「ああ、どうしよう。今日にかぎって鳴るんだ」
「タクミが悪いんだよ。おれ、何度も起こしたのに」
「悪かったよぉ。昨日つい小公女物語を観ちゃったから、途中でやめられなくて……だって、途中でやめたらかわいそうじゃないか」
「もういいから、早く、電話」
残念な結果に終わったサマーフェスティバルから、今日で二十日。
タクミとユーベルの生活はすっかり通常に戻っていた。あいかわらずのペット探しの日々だ。今のところ、バタフライの影はないが、油断は禁物だ。
「はい。T・Tサイコ探偵事務所です」
電話はリリーの飼いぬしからだった。彼女の名前は失念してしまったが、性格のきつそうな顔立ちと青い髪におぼえがある。事務所の机上をあせってかきまわし、以前の依頼でもらった名刺を探した。写真入りの名刺を見て、ホッとする。ゲルダ・ブルデン。そうそう。雪の女王のゲルダ。ドイツ系だ。
「ブルデンさんですね。ご依頼ですか?」
ブルデン女史は白い目でタクミを見た。
もしかして名刺を探している姿がモニターに映ってしまったのだろうか。こういうとき、テレビ電話は不便だ。便利さの追求は不便さの追求でもあると、タクミは思う。
「リリーを探してほしいのよ。昨夜からいなくなってしまって。困った子だわ。家出グセがついちゃったのかしら」
だから、週に一度はお母さんに会わせてあげてくださいと念を押したのに。
「またお母さんのところでしょうか」
「わたしにわかるわけないじゃない」
ブルデン女史の冷たいお言葉。
「は、はい。そうですよね。すいません」
すると女史は、ちょっとバツの悪そうな表情になった。
「あら、ごめんなさい。リリーのことが心配で、ちょっと厳しかったわね。でも、マリー——リリーの母猫のことだけど、マリーちゃんには二日前に会わせたばかりなのよ。いつもは週に一度会わせれば満足してたのに、今度にかぎってどうしたのかしら。とにかく、探してください。契約条件は前と同じでいいから」
タクミはよこ目で壁掛け時計を気にした。
「あの、すみませんが、今日はこれからどうしても変えられない予定があるんです。探すのは早くても今日の午後からか、明日以降になりますが、それでもよろしいですか?」
女史は少しのあいだ、しかめっつらをした。
「しょうがないわね。そのかわり、できるだけ早く見つけて」
一方的に電話が切れる。
やっぱり、この人は苦手だ。
「リリー。この人がイヤで脱走したんじゃないの?」
玄関口でペカチュウのリュックを背負いながら、ユーベルが言う。
ペカチュウはユーベルが保護されたばかりのころ、タクミがプレゼントしたものだ。ユーベルはいたくお気に召している。そろそろペカチュウって年じゃないよと言うのだけれど、ユーベルは強情に背負い続けていた。
「そう言っちゃ、いくらなんでもかわいそうだよ——わッ、もう九時二十分。急ごう。まにあわなくなる」
ドアをあけて廊下に出かけたタクミは、心臓がすくむような思いがした。
廊下にアレが置かれている。妖しく青い血の一滴のような花一輪。
すぐさま、タクミはダグレスに電話をかけた。
「ダグレス。今、どこ?」
ダグレスは殺人現場にいた。
「昨夜遅くから今朝未明にかけて、少年が二人、殺されました。少年と言っても片方は十九歳ですから、青年と言ったほうがいいですがね。バタフライの仕業です。現場に例のマークが。近ごろ、なりをひそめていたのだが」
それでは、ダグレスの手をわずらわせるわけにはいかない。
「じつはたった今、玄関前に例のものが。今回はメッセージカードはなく、バラ一輪だけ。ここって監視ついてるよね?」
「ビルとハワードがついてるはずだ。連絡をとろうか?」
「いや、いいよ。むかいの家だろ? ちょくせつ行ってみる」
電話を切り、今度はホスピタルへかけて遅刻のむねを伝えておく。
「ユーベル。君は家のなかで待ってて。誰が来ても絶対、出ないで」
ユーベルを閉じこめておいて、青薔薇一輪にぎったまま外へ走った。
リラ荘は集合住宅だが、周囲には個人宅も多い。高級住宅街で人目につかず見張りのできる場所は少ない。刑事たちはむかいの家の住人の承諾を得て、そこの生垣のなかから、リラ荘の表門を二十四時間交代で監視している。
道路には人影がない。通勤時間をすぎたせいだ。タクミは道をつっきって、むかいの家に走った。生垣の緑と白壁の対比が美しい、乙女チックなカントリーハウス調の一軒家。住んでいるのは目つきのするどいおじさんだ。
近づいていくと、生垣の片隅から片手があがる。
「ゲージさんですか?」
ビル・ゲージ刑事が生垣のなかから立ちあがる。
「どうしたんです? そのバラ、まさか——」
「やられました。ついさっき見つけたんです。玄関前に置かれてました」
「ちょっと見せてください」と言って手を伸ばしかけてから、あわてて刑事はその手をひっこめた。
「や、いけない。泥棒よけの電磁バリアが張られてるんだっけ。ちょっと待ってください。そっちに行きます。ハワード、ここ頼むぞ」
ゲージ刑事は同僚に言い残し、家のなかをまわって玄関から通りへ出てきた。タクミの手からバラを受けとってながめる。
「しおれてない。置かれてから時間が経ってないということか」
「不審人物は通らなかったんですか?」
「怪しい人物はまったく……あとで表玄関の防犯カメラを見させてもらいます」
「そうですか……」
タクミは薔薇を刑事にあずけた。
「ねえ、刑事さん。僕らの部屋の前にも、カメラをつけてもらえませんか? 表玄関だけじゃ心もとないです」
「もちろんです」
「よかった。じゃあ、僕たち、ユーベルの定期検診なんでホスピタルに行きます。それがすみしだい、猫探しなんで、もしかしたら夕方まで帰らないかもしれません」
「了解しました」
タクミは刑事と別れてリラ荘へ帰って、ユーベルをつれだした。ユーベルはしきりと周囲を気にしている。バタフライを心配しているのかと思ったが、違っていた。
「なんか、リリーがすぐ近くにいるような気がするよ」
「そんなバカな。マリーちゃんの家とは正反対だよ」
「でも、なんか感じる」
「ほんとにそうなら探す手間がはぶけるんだけどな。さっき、ちゃんと説明しなかったから、コリンたち怒ってるだろうな。急ごう」
うしろ髪をひかれるようすのユーベルをタクシーに押しこみ、病院へ急行する。予定より十五分遅れで到着した。
セラピスト仲間のコリンとクロエは怒ってこそいなかったものの、時間にはせいていた。あわただしく、ユーベルにロボットナースを一機つけ、身体的な健康診断のほうへ送りだす。
「じゃあ、診断結果が出るのを待ってるあいだに、いつもどおり、わたしたちの検査をするから帰ってきてね。タクミはグループミーティングよ」
クロエに追いたてられて、ユーベルはロボットと去っていった。それを待ちかねたように、クロエが口をひらく。
「タクミ。あの子、このごろ、おかしなそぶりはない?」
「え? ないよ。前より協調性もついたし、順調に社会復帰してると思うけど」
でも、保護監察期間を伸ばしたほうがいいと言うのは、三人共通の意見だ。
ユーベルは監察期間を延長してもらえるように心理テストで小細工している。テストの結果がどうこうと言うより、そういう行動をとることじたいが反社会的であり、情緒不安定な証拠だ。少なくとも半年は監察を延長すべきという診断だ。しかし、それ以外のことで問題はないはずなのだが。
「ユーベルが何かした?」
「いえ、昨日、病院の廊下ですれちがったような気がしただけ。きっと気のせいね」
「それ、昨日のいつごろ?」
「たしか二時すぎだったかな」
二時なら、ちょうどあのときだ。
家族と折りあいの悪いユーベルだが、母親のギャランスだけは、子どものころに誘拐された息子のことを気にかけている。だから、ときどき会わせてほしいというのが、タクミにユーベルを預けるときの彼女の条件だ。
タクミも、ユーベルに母親の愛情くらい味わわせてやりたい。それで、ギャランスが一人のときをねらって、ユーベルの実家へつれていく。昨日もお茶に招かれていった。
そのとき、ユーベルは読みかけの本をとりにいくと言って、二階の部屋へ一人で行ったきり、十五分ほどおりてこなかった。それが二時ごろだ。
まさかと思うが、あのとき、実家をぬけだして病院へ行っていたのだろうか?
たしかに、ユーベルの実家は中央区にあるから、ホスピタルまではタクシー使えば五分で往復できる。
しかし、残りの十分でできることなんて、処方箋を受けとるくらいだ。それなら、何も、タクミに隠れて行かなくても、今日の検査のときについでに受けとればいい。
(うーん。それにしても、このごろ、ユーベルがソワソワしてるような気はしてたんだよね)
たぶん、クロエの見間違いではない。
ユーベルはタクミに隠しごとをしている。
なんのためなのか、さっぱり見当もつかないが……。
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