《同日午後四時半。レオナルドの部屋。タクミ》

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《同日午後四時半。レオナルドの部屋。タクミ》

「イヤーッ! 出てけ! あっちへ行って!」  マリエールの姿を見た瞬間、タクミは自分の失策を後悔した。  レオナルドの部屋はマリエールのテリトリーだ。ここへ来てはいけなかった。兄妹のあいだの不和やその原因を知っていたのだから、もっと慎重になるべきだった。もちろん、この日はマリエールの診療日ではなかったが、それにしても彼女が担当医のレオナルドのもとをとつぜん訪れる可能性を考慮しておくべきだった。  マリエールはゾンビか狼男でも襲ってくるかのように、そのあたりの置物を手あたりしだい、ユーベルにむかって投げつける。彼女にとってはまさしくユーベルが化け物に見えているのだろう。  鉢合わせしてしまったのは、マリエールにとっても、ユーベルにとっても不幸だった。  タクミはそれらのものを片手で受けとめながら、もう片方の手でユーベルの肩を抱いて、その場を逃げだした。  五階のレオナルドの部屋は、玄関のすぐ外にエレベーターがある。来たときにタクミの生体認証を登録してもらったので、エレベーターのドアをひらくこともできる。あとのことはレオナルドに任せ、タクミたちはそのまま三階へおりた。  ユーベルはタクミの腕のなかで、虚脱したように無表情になっている。なげつけられたほとんどのものはタクミが叩き落としたので、ユーベルにはあたっていないはずだ。しかし、ユーベルはそれらを体で感じたときの痛みそのものより、他者から自分にむけられる暴力じたいにストレスを感じているようだった。過去のつらい出来事がフラッシュバックするのかもしれない。 「ごめん。最初に言っとくべきだった。レオナルドはマリエールの担当医なんだ」  頬をなでると、ビクリとして、ユーベルはとつぜん我に返る。 「……どうして、だまってたの?」 「機会がなくて。マリエールの名前を聞くのは不快だろうし。ごめん。つらかったね」  ほんとはレオナルドを仲介にして、ころあいを見て二人をひきあわせる予定だった。少しずつ兄妹の仲を回復させていこうと。  だが、これじゃ計画が台無しだ。今日のことで二人の関係は、ますます悪化してしまう。案の定、ユーベルは大粒の涙をはらりと一粒、したたらせた。 「なんで、あの子はおれを責めるの? おれが悪いの? 変な男にさらわれて、変なことされちゃったから。でも、おれだって、好きであんなことされてたわけじゃないよ」  タクミはユーベルを抱きしめ、なだめようとした。 「君は悪くない。あの子は怖い思いをして感情が混乱してるだけさ。あの子が恐れてるのは君をさらった男だよ。恐怖の対象をとりちがえてるだけだって、そのうち必ずわかってくれる」  かるく背中を叩いていると、ユーベルは急に言いだした。 「タクミ。ぼくと結婚してくれる?」  うっ……と、タクミは声をつまらせる。  またこの話か。しかも『恋人にして』から『結婚して』にグレードアップしてる。 「えーと……」 「ちゃんと女になるから。タクミ好みの女の子になるから。そしたら結婚してくれるよね?」  タクミは数瞬、思案に暮れた。ごまかそうとも思ったが、ユーベルの目を見ると、それが不可能だとわかる。嘆息とともに、正直な気持ちをうちあける。 「はっきり言うよ。君が社会性を身につけて独り立ちしたとき、まだ女になりたければ、僕は反対しない。だからって僕が君を好きになるとはかぎらないし、恋愛感情ばっかりは自分でもどうにもできないよ。それで後悔するくらいなら、最初からやめてほしいんだ。僕のためだけに君の人生の選択肢をせばめないでほしい」  いつものパターンでいくと平手打ちくらい来るかなと思っていたのに違っていた。  ユーベルはタクミの胸をそっと押して遠ざけると、 「タクミは、ずるいよ。ぼくはタクミがいないと生きていけないのに、タクミはぼくがいなくたって平気なんだ」  両眼から涙をあふれさせ、三階の回廊の手すりから身をおどらせる。  タクミは息が止まるほど、すくみあがった。ユーベルが投身自殺をはかったのかと思ったのだ。  だが、そうではなかった。あわてて、タクミが手すりの下をのぞきこむと、ユーベルは念動力で自分の体重を支えて、きれいに床に軟着陸していた。そのまま、表門のほうへ走っていく。  タクミはその場にへたりこんだ。 「……やめてくれよ。心臓、止まるかと思った」  気をとりなおし、急いであとを追ったときには、ユーベルの姿はどこにもなかった。
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