《同日午後六時。リラ荘。ユーベル》

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《同日午後六時。リラ荘。ユーベル》

 一度は外へとびだしたユーベルだが、じつは、リラ荘にいた。あわてふためいてタクミがかけだしていくのと入れ違いに、こっそり帰ってきた。  種明かしは単純で、外へ出たあと、通行人にまぎれて路地裏入り、念動力を使って三階の自分の部屋の窓から侵入した。今日は制御ピアスを外してから超能力を使ったので、自分一人を持ちあげることなど、わけもない。 (タクミなんて心配して探しまわればいいんだ。バカ)  タクミが悪いわけでないことは理解しているものの、なんだか八つ当たりしたい気分だった。  いや、八つ当たりというより、たぶん試したみたかったのだ。タクミがほんとに自分のことを心配してくれるのかどうか。どのくらい真剣に案じ、必死になってくれるのか。  とても子どもっぽい、ヒステリック愛情表現。  大好きなママに叱られて、いじけて家出のまねをする幼児みたいなもの。タクミに息せき切って追いかけてきてもらいたかった。それだけ。  ユーベルは泣きたいような、なさけないような、みじめな気持ちでベッドにうつぶせになり、枕に顔をうずめた。  タクミが帰ってきたら、ごめんなさいと言おう。  クローン体のことも相談してみよう。タクミは反対するこもしれないけど、なんとか説得してみよう。  自分が女になりたいのかと問われれば、今でもよくわかはない。でも、タクミのことを愛してるのは、自分のなかではもう変えようのない事実だ。ライクではなく、明確にラブであると。  以前、ユーベルの気持ちは、誰かに従属することでしか生きるすべを知らなかったころの延長線上だと、タクミが言った。  そのときはユーベル自身にも、タクミの言う恋と従属の違いがわからなかった。でも、今ならわかる。タクミに対する思いは、これまでのどの男に対するものとも違っている。  タクミはときどきお人好しすぎて、ぬけてるけど、アニメオタクで子どもみたいなとこはあるけど、いつも一生懸命で、どの人にも誠実であろうとする。  それはタクミの心が一度も汚れたことがないからだと他人は思うだろう。でも、そうではない。タクミはあれでけっこう苦労しているのだと、エンパシーで通じたことのあるユーベルは知っていた。ただ、ふつうの人なら折れてしまうような強い衝撃でも、受けながせる柔軟さを持っている。  だから、柳のようなしなやかさに、誰もが惹かれる。欠点もすべてひっくるめて愛おしく思える。  タクミは自分でそれに気づいていないだけだ。 (タクミは恋愛にだけはニブイからね。ぼくの気持ちの変化がわからないんだ)  ぐずぐずとベッドにころがっていると、どこからかニャアニャアと声がする。窓から、するりと猫が入ってきた。 「ああっ、リリー。なんだよ、おまえ。こんなところで何してるの?」  リリーは嬉しげにすりよってくる。やたらに、タクミの顔がチラチラしていた。 「ああ、そう。おまえもタクミに首ったけなわけね。それで会いにきたの? このオテンバめ」 「ニャアン」  今度はユーベルの顔が浮かんだ。 「ぼくにも会いたかったって? 可愛いこと言ってくれるじゃない」  エンパシーで意思が通じるから、仲間だと思っているのかもしれない。 「タクミはね。今いないの。あとで会わせてあげるから、今日はもう飼い主のところへお帰り。ぼくがつれてってやるからさ」  リリーはイヤがったが、お腹がへっているので、けっきょく言うことをきいた。おとなしくユーベルの手に乗って、ポケットのなかにおさまる。ピグミーマーモセットみたいにポケットから顔だけ出しているところは、ミニチュアラグドールの名前どおり、ぬいぐるみみたい。  ユーベルは表通りに面した窓から、通りを見おろした。帰りの早い人たちが家路を急いでいる。  そのなかにまじって、ちょうど一台のタクシーが人を乗せて出発しようとしているのが見えた。マリエールと、マリエールをなだめるレオナルドを乗せている。ローランとソフィーが見送っていたが、タクシーが出ていくと、ソフィーは帰っていった。  マリエールは今まで彼らをふりまわし、ヒステリーを起こしていたらしい。まあ、ヒステリーは自分も起こしてしまったから、人のことは言えないが。 (刑事の姿はないみたい)  怪しい人影もなさそうだ。危険な人物がそばにいれば、エンパシーでわかる。そんな気配は感じとれない。  ユーベルは事務所の机のひきだしから、プリペイドカードを一枚ぬきだすと、玄関から廊下へ出ていった。指さきでリリーの下あごのへんをくすぐる。お腹のすいてるリリーは、ユーベルの指をパクリと甘がみしてくる。 「こらっ。小さいくせに、わりと痛いぞ。ぼくの指は食べ物じゃない」  三階の廊下、エレベーターのなか、エントランスホールをよこぎるあいだ、誰一人とも出会わなかった。  そう言えば、近ごろ、一階のあの老婦人と親戚の女の子とも顔をあわせていない。老婦人の容態が悪いと言っていたが、そうとう重病なのだろうか。  通りに出たころには、外はもう夕焼けに包まれていた。そろそろ、あきらめて、タクミも帰ってくるかもしれない。 (早めに行って帰ってこよう)  ユーベルは自分用のパソコンを持っていない。タクシーを呼ぶことができないので、三つさきの四辻にある乗り場まで歩いていった。  エアタクは帰宅ラッシュ時なので、待機場所にもいなかった。オフィス街に呼ばれて出払っているらしい。そこへ、ちょうど一台が帰ってきた。 (ラッキー)  運よく乗りこめたのだが、幸運はそこまでだった。リリーの飼い主の住所を告げ、自宅まで行ってみたものの、ブルデン女史は不在だった。きっとまだオフィスだ。  あたりは集合住宅より個人の一戸建てが多い。そう言えば、カード狂ダニエルの家もこの近くだ。  それらの家々にともる明かりをわびしい気持ちで見ながら、玄関前にすわりこむこと十五分。乗ってきたタクシーもとっくに乗り場へと帰ってしまっていた。  七時前になって、ようやくゲルダ・ブルデンは帰ってきた。もしかしたら、この人にしてはそうとう早い帰宅時間だったのかもしれない。 「あら、あなたは助手さんね? リリーが見つかったの?」 「うん。ここに」 「こんな暗いところで待ってなくても、電話してくれたらよかったのに。まあ、リリー。心配してたのよ。おちゃめさんね」  厳しい人でも愛猫に見せる顔は優しい。 「支払いは経費とか計算して、あとで請求するから。じゃ、帰る。ばいばい、リリー」  ニャアンと名残惜しげな鳴き声を聞いて、ユーベルはポツポツと街灯の光る街路を歩き始めた。タクシー乗り場へとむかう。  誰かにつけられていると気づいたのは、それからまもなくのことだった。
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