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《同日午後七時。ゲルダ》
タクミ・トウドウ——
(彼はわたしをおぼえてなかったのね。運命の再会だと思ったのに)
そぼふる霧雨のなか、瀕死の猫を探して走りまわっていた、エンパシストの青年。
秋。紅葉のハイドパーク。
最初に気づいたのは友達のほうだ。
「あの人、さっきから何してるの? ウロウロして怪しいわ。警察、呼んだほうがいいんじゃない?」
「ほっときましょうよ。かかわらないほうがいいわ」
黒髪の青年が右往左往していたが、ゲルダは気にもとめなかった。そのままハイドパークをよこぎり、女友達の自宅へ行った。
ひさしぶりに会った会社の元同僚だ。仕事仲間だが、ほんとに気があった。結婚を機に退社したので、長らく会っていない。話したいことがたくさんあったのだ。
にもかかわらず、女友達の家で待っていたのは、退屈なノロケ話だった。働いていたときは、あれほど知性に満ちた会話を満喫できたのに、彼女は変わってしまった。
(やっぱり女は結婚するとダメね。あんなに有能だったカトリーヌでさえ、こんなになるんだ。旦那の話しかしないじゃない)
帰りぎわ、傘をかしてあげるという申し出を断ったのは、それを返しに行かなければいけないのが耐えられなかったから。
こんなくだらない話をしているあいだに、契約の一つもまとめられる。
(時間のムダづかいは嫌い。カトリーヌのせいで午後のひとときを浪費してしまった。オフィスによって今期の業績を検討してみよう。近ごろ、経費にムダづかいが多すぎる。あら、ここもムダね。ムダづかいは嫌い)
オフィスまではハイドパークを通ったほうが早い。タクシーに乗るほどの距離でもない。
夕闇がおりて、公園から人足が遠のいていた。
「あッ、こんなところにいたんだ。やっと見つけた」
急に暗がりから声がした。
ビックリして見ると、茂みのあいだのわずかなすきまから、ゴソゴソと泥だらけになった青年が這いだしてきた。青年はゲルダと目があって、てれくさそうに言いわけする。
「あ、すみません。猫を探していたんです。こいつ、迷い猫らしくて、栄養失調になりかけてるから、獣医さんにつれていかないと」
青年は薄汚れた子猫を、大事そうに両手で包んで走っていった。
そのときの子猫がどうなったのかは知らない。
けれど、しばらくして、飼い猫が子どもを生んだから貰い手を探していると、カトリーヌから電話がかかってきた。一匹ひきうけると言って、カトリーヌをおどろかせたのは、たぶん、あの青年のてれくさそうな笑顔のせいだ。
リリーを探してもらうために雇った探偵が、あのときの青年だと知ったとき、ロマンスの始まりのような舞台効果だと思ったのだけれど……。
ゲルダは苦笑いして吐息をついた。
「ダメね。リリー。わたしも自分に正直になるわ。あなたみたいに」
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