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《同日午後八時。ディアナ東区住宅街。ダグレス》
透視とエンパシーをもちいて行方不明のユーベルを探していたダグレスは、思いもよらない人物を発見して立ちどまった。その人は思いつめた瞳で、一軒の明るく光のこぼれる窓辺を見つめている。
夜のなかに、窓枠で切りとられた一枚の絵画のように、明るい室内が浮かんでいた。
幸福そのものの家族の団らん。父と母と娘がいて、犬がいて、テレビを見ながら笑っている。その笑い声さえ聞こえてきそうだ。
誰もが思わず自分の家を思いだして、家路につく足どりを早めてしまうような微笑ましい景色。
だが、それを外灯のかげから凝視するエミリーの目には、激しい憎悪が渦まいていた。
ダグレスのエックスレイの双眸は、エミリーがバッグに忍ばせたナイフを片手でにぎりしめているのが見えた。
窓のなかの父が何か言いながら、娘に——エミリーに狂おしいほど似ている娘の頬にキスするのを見て、エミリーはその家に近づいていった。前庭を小走りにつっきって、呼び鈴に手をかける。
ダグレスはエミリーの体をうしろから抱きとめた。
「よせ!」
「放してッ。放してよ!」
「放したら君は何をするつもりだ? そのナイフでこの家の家族を——君によく似た娘を殺すつもりか?」
エミリーがこわばった表情で、ダグレスを見あげる。その瞳のなかにあった憎悪が、みるみる崩れて、彼女自身の涙に溶けた。
「……そうよ。殺してやるわ。わたしとあの人は同じ人間なのに、どうして、あの人だけが笑っているの? 家族から愛されて、幸福で、それがあたりまえみたいな顔して……おかしいわ。あの人が幸せなのは、わたしの幸せを全部、吸いとって、ひとりじめしてるからなのに。ゆるせない。自分たちの都合で勝手にわたしを造っておいて、いらなくなったらゴミクズみたいにすてて、わたしがいたことすら忘れてる……」
エミリーは自分の言葉に、また昂ってくるようだ。ダグレスの手をふりきって、呼び鈴を押そうとする。
「殺してやるわ! どうして、わたしじゃいけないの? どうして、あの人だけが愛されるの?」
ダグレスは全身の力で彼女を抱きしめた。
「あんな女、私にはなんの価値もない。愛しく思うのは、君だ。エミリー」
夜の底で生きる、さみしい生き物が二つ。潮流にひきこまれる。
引き潮に乗って流される小さな貝がらみたいに、コツン、コツン、ぶつかりあって、初めてもう一つの存在を知る。
この広い海のなかで、生きているものは二つきり。
こんなところに仲間がいたと、ようやく気づいて、たがいの鼓動を聞く。
自分と同じ、さみしい音。
一つではできそこないの空虚な音。
二つあわせて、やっと一人前。
「君を愛している。私の片翼になってくれ」
エミリーの瞳に今度あふれてきたのは、悲しみの苦い涙ではなかった。彼女の心が言葉にならない多くの感情を放射するのを、ダグレスはしっかり受けとめた。その感情はエックスレイで見ると、深海にふりそそぐ金色の陽光のように神々しかった。
「……わたしでいいの? ほんとに、わたしでいいの?」
「君でなければいけないんだ」
その夜、ダグレスは職務をすてた。
自分の手で母を殺した罪の意識をつぐなうために、刑事になった。今このとき、母に似たこの人を救えなければ、なんの意味があるというのだ。
ユーベルなら、きっとほかの誰かが救うだろう。タクミもいるし、ビルやハワードだっている。
でも、この人を救えるのは、ダグレスだけだ。ダグレスが救いたいのは、世界中でたった一人、この人なのだ。
時間は静かにすぎていった。
ダグレスは失われたものをとりもどしたし、エミリーは生まれてはじめて足りなかったものを補うことができた。
満たされたひととき。
二人で夜の海にまどろんだ。
真夜中、ダグレスは夢を見た。
生活保護センターのてっぺんから落とされて、骨なしになった十五歳の自分の死体をかかえて、タールのような暗い海のなかをさまよう夢だ。
死体のすて場所がどうしても見つからない。早く帰らないと、エミリーが待っているのに。
「どうして、ぼくをすてるの?」
「もう、いらなくなったから」
「ぼくだって、あんただよ」
「私にはエミリーがいる」
「あんたはママを殺した罪をぼくに押しつけて、すてるんだね。あんたは、やっぱり死神だよ」
腕のなかの死体が、いつのまにか、ユーベルの顔になっていて、ダグレスは冷や汗をかいてとびおきた。
「……ダグレス? どうしたの?」
「なんでも……なんでもない」
「でも、顔色が……」
薄闇に不安げなエミリーのおもてを見ると、罪深くも、ダグレスは愛おしさがこみあげて止まらなかった。
おかしな夢を見た翌朝——
「ダグレス。ユーベルが見つかったよ」
エミリーのベッドで二人ならんで目覚めた。早朝の空気を感じることもできない地下室だが、気分はおだやかだった。恋人とナイショのキスをかわしていたダグレスは、携帯から聞こえるビルの次の言葉に硬直した。
「焼死体でね。無惨なもんだ。今すぐ、東区郊外の現場まで来てくれ」
あわただしく現場へかけつける。そこは凄惨をきわめていた。
ディアナはドームシティーではないので、市の境界がわかりにくい。都市と都市のあいだには田園や森林が広がっている。人家がとぼしくなり、自然が目につきだしたあたりに、材木置き場になっていたらしい場所があった。
そこに建てられた小屋を中心に、一帯が焦土になっている。小屋は全焼。かたむいて崩れおちた屋根と柱の一部だけが残っている。油か薬品をまいたのだろう。凄まじい火勢だったことがわかる。
焼け跡のまんなかに、それがころがっていた。
炭化して、もう人ではなくなったもの。
警官や消防隊員に見守られて、かたわらにタクミがひざをついている。
「ウソだ! なんでこんなことにッ。なんで——」
誰にあたったらいいのかわからないように、にぎりこぶしで焼土を叩いている。
ダグレスの胸に、タクミの涙が熱したナイフのように突き刺さる。
昨夜、自分はユーベルをすてて、エミリーをとった。
タクミへの友情をすて、恋をとった。
自分は全能ではないから、すべての人を救うことなんてできない。夜の海に溺れそうだったエミリーを、一人にしておくことはできなかった。
私は死神だから、一つの命を救うには、一つの命を犠牲にするしかなかったんだ。死神の鎌に捧げる命が必要だった……。
だけど、苦い。
心のどこからか湧きだしてやまない、ほろ苦さを、ダグレスは舌の上で味わった。
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