《同日午後。事務所兼リビング。タクミ》

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《同日午後。事務所兼リビング。タクミ》

 ユーベルの遺体が病院から両親のもとへひきとられた。  タクミは一人、自分の部屋へ帰ってきた。  さきほど、ホスピタルの冷え冷えした遺体安置所で、即席の棺おけにおさめられたユーベルは、全身を白布でおおわれ、大きなサナギみたいに見えた。美しい蝶になるために、(まゆ)のなかで眠るカイコ。  ユーベルの両親は、つくづく薄幸だった息子に、涙も出ないようすで呆然としていた。 「こんなことになって、申しわけありません。息子さんを預かっている以上、どんなことがあっても守りとおさなければならなかったのに」  ひたすら頭をさげるタクミに、ユーベルの父ジョルジュは冷静に応えた。 「いや、殺人犯に狙われたのは、君のせいじゃない。我々こそ、先生には必要以上に頼ってしまって心苦しい気がしていました。きっと息子も感謝しているでしょう」  その瞬間に父親の心のなかが見えて、タクミは歯を食いしばった。  父は昨日、泣いて帰ってきた可愛い娘を見て、不肖の息子に憎しみに近いものをおぼえた。  エドワール、ユーベル、マリエール。三人とも血のつながった実子には違いないが、ユーベルと暮らしたのはほんの二年あまり。十数年も離れていて、いきなり大きくなって帰ってきた。問題ばかり起こす。  一人欠けたなりに平穏で幸せだった家族の和を乱し、愛娘を精神科へ通わせるほどおびえさせた。  父親にとっての愛情の順位は明確で、ユーベルはそのなかで、きわめて低かったのだ。妻の手前、あまり無下にもできなかったが、これでもうムリに父親らしくふるまう必要もない。死んでくれて、ホッとした。  そう、彼の心は告げていた。 「……ユーベル。かわいそうな子。この子はね。赤ちゃんのとき、一番よく笑ったのよ。ほんとの天使だったわ。甘えん坊で、さみしがりやで、わたしを見つけると嬉しそうに笑うのよ」 「ギャランス。また帰ってくるよ。今度は女の子になってね。そのときにはツライことは、みんな忘れてるんだ」 「そうね。あの子は女の子になりたがってた」  もうクローンの話か——  胸に押しよせる悲哀を感じて、タクミはひと足さきに帰った。あれ以上、彼らのそばにいると、息子を失ったばかりの両親に対して、非人間的な罵声をあびせてしまいそうだったからだ。  ユーベルの最大の不幸は、ありのままの彼を両親にさえ受け入れてもらえなかったことではないかと思う。  むしょうに虚しかった。  部屋に帰っても、そこにユーベルはいない。ほんのりとユーベルの香りさえ漂っているのに。 「……この部屋、こんなに広かったっけ?」  ユーベルはさみしがりやで甘えん坊だったから、気がつくと、いつもタクミのそばにいた。話しかけてくるわけでもなく、ふれてくるわけでもなく、猫みたいに静かに、そこにいた。  いつのまにか、それがあたりまえになっていたのだ。空気みたいに自然で気がつかなかったけど、ユーベルのいる風景は、タクミにとっても快い空間だったのだと、今になって思い知る。いなくなって初めて、その存在の愛しさを。 (やっと、これからだったのに。いろんな人とふれあって、人生の最初の一歩をふみだしたところだったのに……)  リビングのソファーにすわって、移りゆく雲の流れをながめていた。  空の色は刻々と輝きを増し、やがて色あせていく。まるで人間の一生のよう。  だとしたら、ユーベルの人生に輝いていた時期が、ほんの一瞬でもあったのだろうか?  自分はそれを彼に与えてあげられただろうか?  もっともっと、たくさんの喜びをあげておけばよかった。こんなことになるとわかっていれば。  ユーベルの人生がたった十七年で終わると、わかってさえいれば……。  涙がこぼれて、タクミはソファーに沈みこんでいた。身動きもしないでいると、背後でコトリと音がした。郵便受けに何か入れられたようだ。  タクミは無意識に立ちあがって、室内から郵便受けをひきあけた。封筒が一つ入っている。宛名はT・T探偵事務所になっている。差出人の名はない。かわりに封筒の背面に、黒一色で蝶のもようが描かれていた。  心臓がギュッとしぼられたようになり、激しく脈打つ。  バタフライだ。  なんで今になって、また手紙なんて送ってくるのだろう。  封をひらくと、一枚のホログラフィックスカードが出てくる。  美しい、天使。  いや、これはキューピッドなのだろうか? 両手に弓矢を持っている。ギリシャ神話の幼い恋の運び屋。  この天使、似ている。  ユーベルに……。  初めて見るカードだが、扉絵のタッチにおぼえがあった。  マーティンだ。ダニエルの崇拝する映像作家、マーティン・ブルックナーのCGイラスト。題材もダニエルの好きなアムール。 (なんだろう。この符号……)  頭の奥にしびれるような感覚がある。  誰かが、何かを伝えようとしているような。  タクミは目に見えない誰かに励まされているような気がした。自らを叱咤する。 「そうだ。落ちこんでる場合じゃないぞ。バタフライめ! 必ず見つけて、捕まえてやるからな!」
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