《同日午後八時すぎ。リラ荘表門前。ダグレス》

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《同日午後八時すぎ。リラ荘表門前。ダグレス》

 街路に出たところで、タクミがタクシーを呼んだ。タクミが去る前に、ひとことでいい、謝罪したいとダグレスは思っていた。昨日、ユーベルを見殺しにしたことを。  言えば、タクミがゆるしてくれることはわかっていた。だがそれは彼の人のよさにつけこむような気がして、言いだすことができなかった。  このことは誰かにゆるしてもらうようなことではなく、一生、自分のなかで罪の十字架として背負っていかなければならないことなのかもしれない。  二人のもとにタクシーが来て、タクミはそのなかへ入る。 「中央区まで相乗りしようか?」 「いや。私は考えをまとめたいので、近場のタクシー乗り場まで歩きます」 「そう。じゃ、おさきに」と、ドアをしめかけたあと、タクミは思いだしたようにふりかえった。 「ダグレス。人の目をまっすぐ見られるようになったんだね。そのほうがずっといいよ」  暗い殺人の話題を、かるく吹きとばしてしまう、爽やかな笑顔。  ダグレスが意表をつかれているうちに、タクミは片手をあげて去っていった。  ダグレスはタクシーが去っていくのを、つかのま、見つめていた。  自分でも気づかなかった。  今日一日、周囲の態度が違っていたのは、そのせいだったのか。 (かなわないな……)  もしかしたら、タクミはダグレスが、昨夜の自身の行動を悔いていることに気づいていたのかもしれない。悔いていて、なおかつ、同じ時間をもう一度やりなおせるとしても、絶対にまた同じ選択をする。それを知っていて、自分の身勝手さを持てあましていることを。 (そうだ。何度やりなおせるとしても同じだ。私はエミリーを選ぶ。彼女を一人で泣かせておくことなんてできない)  人の目を直視できるようになった。エミリーがいてくれるからだ。  この世のどこにも自分のいられる場所がなくて、ずっと仮住まいをしている心地悪さを感じていた。  だが、今は違う。待っていてくれる人がいる。あの人のいるところが、ダグレスの帰る家だ。あの人の腕のなかが、ダグレスの居場所。  それでいいのだと、タクミは言いたかったのかもしれない。もっとも大切なものを守ることができたのだから、その生きかたをつらぬけばいいのだと……。 (だが、もう、君には甘えられないな)  何かを得るためには、何かを失わなければならない。それが幸せに縁遠い人間の幸福の理論。何もかも得ようだなんて欲張りすぎる。  タクミを失うのはつらいが、それもしかたないことだ。友情と恋を天秤にかけて、恋を選んだ自分なのだから。  ダグレスは軋む胸をおさえて歩きだした。  さっき、タクミの話を聞いていて、ダグレスにも閃くことがあった。  もしも今回の一連の犯人が、カードコレクターでも、狂的な殺人鬼でも、警察とゲームをしているつもりの自己顕示欲肥大症の男でもなく、純粋に計算で動いているのだとしたら。現場に残されたメッセージがすべて策略で描かれたのだとしたら。  ダニエルが真犯人ではないと知ったとき、警察は——いや、自分はあの血文字に踊らされて、どう動いただろうか、と。 (ダニエルやカードコレクターの仕業じゃないとわかったら、捜査陣は少年を狙った快楽殺人犯という最初の見解に立ち返るだろう。とくに、ユーベルはカードギャンブラーではなかった。美少年だから狙われたのではと、誰かが言いだしたかもしれない。バタフライ……蝶コレクター。私は、ラリック医師を疑っていた)  もし現場に残されたあのバタフライのマークが、ダグレスにそう思わせるためのミスリードだとしたら……?  ラリックは再生医師だ。頭脳はすこぶるよい。金に不自由もしていない。蝶のマニアで、ユーベルにも興味を持っていた。隣室に住んでいて、いつでもバラを置くことができる。以前からの顔見知りで、殺人の夜にユーベルに顔を見られるわけにはいかなかった——すべての要素で、ラリック医師はバタフライとして申しぶんない。そう。そして、あまりにもバタフライらしすぎる。 (もし、これが真犯人の計略で、私に誤認させようとした結果なのだとしたら? 今、ここで、ラリック医師が告白状を残して自殺でもすれば、バタフライは彼だったということで決着しないか?)  ダニエルはバタフライとして、どう見ても役不足だ。人より劣るわけではないが、と言って、突出したところがあるわけでもない。きわめて平均的な青年。  最初からバタフライもそんなことは承知していたのではないだろうか?  ダニエルは最初から捜査を攪乱するためだけの役割しか与えられていなかったとしたら——  バタフライが真犯人として用意していたのは、ラリック医師ではないだろうか?  それなら、タクミにカードを送ってきたわけもわかる気がする。そのカードに、ラリック医師を犯人たらしめる決め手が、一石投じられているのではないだろうか?  だが、現状、計算外に早く、ダニエルが使えなくなってしまった。真のバタフライがまっさきにすることは、ラリック医師の命を奪うこと。自分のかわりにバタフライに仕立てあげて……。 「いけない!」  ダグレスはきびすをかえして、リラ荘へ急いだ。  再生医師はちゃんと存命だった。インターフォンのモニターにむかって身分証を見せると、苦笑を浮かべて玄関のドアをあける。  間取りはタクミたちの部屋と同じだが、リビングルームには高級家具がならび、壁にところせましと蝶の標本がかけてある。白銀の髪と左右の目の色の違う彼自身が、この王国に君臨する奇抜な色彩の蝶のようだ。 「こんばんは。刑事としていらしたのか、それとも隣人の友人として?」  刑事として来たのだ、あなたはバタフライキラーの標的にされている危険性がある、と言おうとして、ダグレスは戸惑った。捜査中だから迷わず透視して全室を調べた。そこに説明不能のものがある。  この男は、はたして殺人犯に狙われているだけの善良な市民なのか? それとも、バタフライ自身?  扉で閉ざされた彼の寝室に、少年の死体らしきものが、ずらりとならんでいた。
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