《同日午後九時半。場所不明。ダグレス》

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《同日午後九時半。場所不明。ダグレス》

 ダグレスが気づいたとき、そこはアンドレの部屋ではなくなっていた。  薄暗い。よくは見えないが、医師の優雅な室内とは似ても似つかない。せまくて雑然としている。部屋というより物置だ。  ダグレスのとなりには、アンドレも気絶してよこたわっていた。やはり、彼はバタフライに利用されているだけだ。襲われて初めてわかるようでは遅いが。 「おい、ラリック」  声をかけてから、ダグレスはおどろいた。ろれつがまわっていない。起きあがろうとしても体が動かない。  なんだ? 何が起こったんだ? なんで体が動かないんだ。  パニックにおちいりかけたとき、うめき声をあげて、アンドレが意識をとりもどす。  ダグレスはエンパシーで話しかけた。 『ラリック。聞こえるか?』  アンドレはエンパシストでも超能力者でもないが、ダグレスが意識を集中すれば、表層意識のもっとも外側にまで思考化した意思くらいは伝えることができた。正確にはエンパシーというより、テレパシーだ。  アンドレは答えようとして、しまりのない顔で驚愕している。しまりがないのは、しょうがない。たぶん、アンドレの目には、ダグレスがそう見えているだろう。 『体が動かないんだろう? 私もだ。バタフライにさきを越された。姿を見たか? 伝えたい言葉を考えてくれれば、こっちで読みとる』  アンドレは少しイヤそうだったが、言われたとおりにした。 『変なナースの人形が、注射器を持って襲ってきた。君が倒れたのに気をとられてるうちに』 『ナースの人形だって?』  ダグレスは以前、タクミの部屋を透視したとき、それらしいものを見たことがあるような気がした。古い時代の看護服を着て、ナースキャップをつけた女の子の人形。しかし、タクミがそんな危険な人形を部屋に置いておくはずがない。誰かがすりかえたのだろうか? 『刺されたような痛みは注射器か。なかみはなんだったんだろう?』  たずねると、そこは医者だ。即座に答えが返ってくる。 『筋弛緩剤だな。大量に体内に入れば、自律呼吸が困難になり、死に至る。しかし、この感じだと量は少ない。あと二、三十分もすれば動けるようになるだろう』  筋弛緩剤なら心臓発作に見せかけて殺すことができる。  なぜ、バタフライはそうしなかったのだろうか。室内に、予想外にダグレスがいたせいで、用意の薬が二人ぶんの致死量に達しなかったのか。  その可能性はある。  だから、とりあえず意識を失わせておいて、ここまで運び監禁した——というところか。  バタフライは自分の身代わりに、今夜、アンドレを殺すつもりだ。秘密を知ってしまったダグレスも、同時に殺害するのだろう。  ならば、二人が身動きとれない今のうちに手をくだすはずだ。二人を縛りもせずに物置にころがしておくだけだなんて、どう考えてもおかしい。  頭のいいバタフライのことだから、自分に疑いのかからない方法で始末したいのかもしれない。  たとえば……そう。アリバイだ。  自分に完璧なアリバイを作り、その時間に、ダグレスとアンドレが死ぬように細工する。そうすれば、今の時点の警察はこう推察する。追いつめられた真犯人のアンドレが、ダグレスを道づれに自殺をはかったと。  アンドレの部屋から場所を移したのは、殺すまで人目にふれさせたくなかったからだろうか——と考えて、なにげなく星明かりのさしこむ窓を見たダグレスは、誤謬(ごびゅう)に気づいた。  違う。部屋を移したのは、アンドレのコレクションを証拠品として残しておきたいからだ。少年の死体の剥製などという悪趣味な代物を、部屋ごと全部、警察の目にさらしたかった。  そして、バタフライは何もせずに立ち去ったわけではない。すでに、ダグレスたちを殺しかけている。 (服がぬれている。そういうことか……)  窓の外に小さな人影がある。五センチもない頭をかたむけて、窓のすきまから、こっちをのぞいている。その姿は可愛らしいが、同時に身ぶるいがつくほど恐ろしい。  小人の正体は、さっきのナースだ。この人形、AIを入れてロボット化されている。  タクミの好きそうなキュートな顔の小悪魔ナースは、手に小型のライターを持っていた。あれを点火して窓のすきまからなげこまれたら……ダグレスたちはおしまいだ。全身に油をふりまかれてるらしいから、またたくまに炎に包まれ、焼死してしまう。 (助けてくれ。まだ死にたくない。やっと、やっと……愛する人とめぐりあえたのに)  やはり、ゆるされないというのだろうか?  母を殺したダグレスに、幸福になる資格はないのか。  自分を死神だと思いあがっていたことを、死神の鎌が裁くというのか。  悪夢のなかで毎晩、十五の自分を殺し続けたように。 (だが、今、私が死んだら、エミリーは?)  かぼそい肩の、さみしげに笑うあの人は、一瞬つかんだと思った愛のきわみから、つきおとされ、ひとりぼっちで夜の底にとり残されてしまう。あの深い暗闇へ。二人でなら、そこをぬけだせると思った。今さら、彼女は一人でそこから這いあがれるだろうか?  死ねない。私は死ねない。  お願いだ。誰でもいい。私を生かしてくれ。奇跡を起こしてくれ。  どんな償いでもする。  母殺しの罪をゆるしてくれとは言わない。  だが、お願いだ。この世に神があるならば——  窓外で小さな火が生まれた。  ダグレスを地獄の業火へ落とす裁きの火が。 (頼む。やめてくれ!)  願いもむなしく、炎はなげこまれた。窓の下の木箱が、とうとつに大きな火柱をあげる。部屋中に油がまかれている。みるみるうちに炎が床面をなめるように広がった。  ダグレスたちは、まだ動けない。炎が迫ってくるのを、ただ恐怖のなかで見つめているしかない。熱気と炎が目の前に押しよせてくる。  エミリー。愛していたよ。すまない……。  ダグレスが目をとじたときだ。炎のはぜる轟音にまじって、金属を打つ硬質な音がした。さらに、もう一度。  思わず、そっちを見た。すると蝶つがいが折れて、ぶあついドアが傾いている。 「しっかりしろ! ダグレスッ——」  タクミが炎をとびこえてかけこんできた。タクミのあとから、もう一つ、大きな影が。それぞれ、ダグレスとアンドレをかかえた。  炎と黒煙が四人を逃すまいとするように渦巻いた。  だが、タクミと大男は臆することなく、燃えさかる炎をふみこえていく。  間一髪だった。四人が外に出ると同時に、物置のなかは天井まで炎に包まれた。断熱材の壁にはばまれて、炎は外までは追ってこられない。  どうやら、リラ荘の屋上のようだ。 「よかった。今度はまにあった」  抱きしめてくるタクミの胸から、ダグレスを救えた喜びと、ユーベルを救えなかった悲しみが流れこんできた。  タクミの心が泣いている。  喜びと悲しみ。  人は二つの心をいっぺんに味わえる不思議な生き物。  ユーベルを救えたかもしれないのに、見殺しにすることで、エミリーの愛を手に入れた良心の痛みと、愛する人を勝ち得た歓喜。どちらも切り離すことのできない感情。 (タクミも私と同じだったんだ。これが生きているということ)  私に生きていてもいいと言うんだな。私をゆるし、助けてくれた。自分の命を危険にさらしてまで。  タクミは泣きながら笑っている。 「あたりまえだろ。友達じゃないか」  友達。友達か。美しい言葉だ。  タクミの澄んだ瞳を見つめていると、涙が頬をつたってくる。  かたわらでは赤毛の大男も、いやに力強くアンドレの手をにぎりしめている。  大の男が四人、子どもみたいに声をはりあげて泣くのも、たまには悪くない。  涙にとけて、何かが昇華されていく……。
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