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ラブレター。
そう、それはラブレターという類にものだったろう。
彼の懇願に返答する事もせず逃げるように去った僕に怒りを覚えるどころか悄然とする事もなく、彼はポトリ、と僕のこの質素で物寂しい部屋に、彼の想いを綴った手紙を投げ落としていった。
僕はそれを拾う事すらせず、そのままにしておいた。
翌日もその翌日も、そのまた翌日も翌々日も、彼は手紙をポトリ、ポトリ、と落としていった。
小さな玄関に溜まっていく、シンプルな白い便箋。
捨ててしまおうか、とも思ったが、実行する事はできなかった。
僕は、戸惑っていた。
その間にも、ポトリ、ポトリと彼は想いの手紙を落としていく。
僕の心はその度に、ゆらり、ゆらり揺れ惑うのだった。
※
何十日か経った、ある夜。
「あの―――」
仕事帰りの僕を、彼が呼び止めてきた。
「お仕事帰りですか…? いつも遅くて大変ですね…」
ああ…、と僕は気のない返事をした。
コンビニの煌々とした明かりが彼の整った顔を照らし、スラリとした影を地面に落とす。本当に、どうして彼のような高校生が僕のようなつまらないサラリーマンなんかにこだわるんだろう。
僕は足早にその場を去ろうとした。
「あの、待ってください…!」
彼の手が、僕が下げていたコンビニ袋を掴んだ。
「あの、もしイヤじゃなかったら…これ…食ってください…」
そして、紙袋を押し付けてきた。
思わず受け取ってしまったそれは、ほんのり温かかった。
「俺の家、おふくろいないんで俺がいつも飯作ってるんです…。よかったら…食ってください。…イヤだったら、そのまま捨ててもらって構わないですから」
そう、言いながら彼は走り去ってしまった。
つき返す暇も無かった。
僕は呆然として、彼の背中と紙袋を交互に見つめていた。
※
中身は、肉じゃが、だった。
しかもわざわざ七味までつけてくれている親切ぶりだ。
あんな彼が、こんな物を作るとは。
僕はただびっくりして、呆気にとられてしまっていた。
やはり、食べるには抵抗があった。
でも、すごく美味しそうな匂いがした。
いつもコンビニ弁当や外食ですましているから、こんな手作りのおかずは、しばらくご無沙汰だった。
「おふくろの味」の代名詞で有名な肉じゃが。
おふくろがいないから食事はいつも自分が作っている、と彼は言っていた。
なら、これが彼の「おふくろの味」なのだろうか。
母のいない家族の空腹と心を満たす、彼の味なのだろうか―――。
僕はしばらく考えて、ひとくち、口に運んでみた。
美味しかった。
ほくほくに火の通ったじゃがいもと、とろとろになった玉ねぎと柔らかい肉。素朴でそれでいてしっかりとした味わいのある優しい美味しさがやめられなくて、結局すべて平らげてしまった。
久しぶりに、満腹感だけじゃなく幸福感も満たされるような食事ができた気がした。
僕の心は穏やかな充足感に満たされていた。
もしかしたら、僕は彼の事を勘違いしているのかもしれない。
ふと、そんな考えが芽生えた。
僕は容器をきれいに洗って紙袋に戻すと、コンビニ袋につっこんだまま部屋の片隅に放置してあった手紙たちを持ってきて、一通ずつ開封してみたのだった。
※
「はぁ…」
白い溜息がふうわりと夜空に広がる。
今日は彼と出逢ってから365日目の夜。
大晦日の今夜は、特に寒さが厳しい。
あと数時間もすれば日付が変わってしまう。
真夜中は一段と寒さが厳しく、身が切れるようだ。
でも、僕はこうして外で立っている事をやめる事はできない。
君から肉じゃがをいただいたあの日。
僕は初めて君からの手紙を読んでみる気になった。
最初は、想いの丈をあからさまに書き散らしたストーカーまがいな内容を覚悟していたのだけど、実際読んでみると、まったくシンプルな事しか書いていなくて、手紙と言うよりかは日記のような印象のする手紙だった。
君の日々の生活。学校の事、家族の事、友達の事、した事、思った事、やりたい事。
ラブレターのはずなのに、ラブレターとは遠く似つかない、本当にとりとめのない手紙。
けれども僕は、その君の手紙に夢中になってしまった。
君の、平凡だけど平和で温かくて、それでいてキラキラした日常に、すごく惹かれてしまったんだ。そして、その中で唐突に漏らされる僕への想いに、不意打ちのように心が揺り動かされてしまった。
これが意図的に書かれたものだとしたら、君は本当にすごい策略家だよ。
でも、これが君の素の文章で、何の意図もたくらみも含まない、素直の心のままに書き綴ったものだとしたら―――君は、本当に―――。
僕は腕をさすり、少しは温かくなるかな、と身体を左右に揺らした。
だいぶ前から雪が降ってきていて、道路にも積もり始めていた。
でも、僕は待っている。
君から365通目の手紙が届くのを待ち続けている。
君に会いたいんだ。
会って、告げたい事があるんだ。
だから、早く来て。
早く―――。
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