礼と瑛太

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礼と瑛太

「わっ」 「ありがとう。そのボール。私たちのなの」  女の子の服装は、スポーツウェアにミニスカートで、いかにも運動しやすそうな格好だ。 ポニーテールの女の子が手を差し出してきたとき、瑛太の脳内は女の子の中に秘められた「輝き」のようなものを感じ取った。瑛太はボールを返しながらその正体を探る。 「ありがとね。ばいばい」 「あっ、まって」  女の子が去ろうとしたとき「引き止めなきゃ」と咄嗟に感じ、気付いたらそれが声になって出ていた。瑛太の声に反応した女の子は、立ち止まって振り返り首を傾ける。 「その左手に持っているものは何ていうの?」 瑛太が質問すると、 「えっ嘘。ラケット知らないの?」 と、女の子は甲高い声を出して驚いた。 「これはラケットっていう、テニスで使う道具。これでボールを打って遊ぶの」 「テニスって何のこと? 聞いたことないや」 「嘘でしょ? テニス自体を知らないの? 」  女の子が勢いよく瑛太の言葉を遮った。  数秒考えた女の子は、何か思い出したらしく「後で教えるね。ちょっと待ってて」と走って行ってしまった。  女の子が向かった先には、テニスコートが横並びで二面広がっていた。さっきの不思議な音はここから聞こえてきたのか、と瑛太は納得する。  片方のコートでボールを打ち合っている見知らぬ二人の大人。 「凄い…」  小さいボールを器用に扱う大人に瑛太は感心する。側から見る様子では、自分にこんなことができる想像が全くつかない。  もう片方のコートは、十人ほどの少年少女が円陣を組んでいる。円陣内の人間の視線の先には、一番偉そうに見える六十代後半くらいの男性が話をしている。さっきの女の子も円陣に加わっていて、周囲の人間と比較すれば、ひときわ小さく見える。  円陣が崩れると女の子は瑛太目掛けて一目散に駆け出した。「幸せ」という文字を具現化したような、満点の笑顔である。  「お待たせ。おじちゃんの話が長くてさー。さっ、いこ」  と女の子は無理やり瑛太の右手首を握って走り出した。 瑛太は突然のことに戸惑いされるがまま、足を動かす。 女の子が向かう先は、先ほど円陣を組んでいたテニスコートだ。どんどんそのスピードは上昇していく。  コートの入り口で、二人は自分達より一回り身長の大きい男の子とすれ違った。 「なんだ、礼ちゃん。ボーイフレンドか?」 「友達。一緒にテニスするの」 「熱中症に気をつけてな」  男の子は言うや否や踵を返して去って行く。 「龍星くんっていうの、今の人。私の二歳上で三年生なんだ」 今の人が二歳上なのか、と瑛太は思った。 小学生は、年齢が一歳二歳違うだけでも身長の差は露骨に現れる。 「ねぇ、テニスするの?」 ふと龍星と礼との会話を思い出し、瑛太は女の子に尋ねた。 「うん。あ、名前言ってなかったね。私、相田礼(あいだれい)。みんなからは礼ちゃんって呼ばれてる。君は?」 「僕は、嘉山瑛太。よろしく」  礼はニコニコしながら握手を求めてくる。瑛太がそれに答えると、礼はすぐに顔を近づけてきた。 「ねえ、ほんとにテニスもラケットも知らないの?」  瑛太はさっき見たのが初めてだと伝えた。 驚きを見せる礼の表情を見ながら瑛太は、礼は自分と同じで好奇心旺盛だな、と思う。 「これがラケット。持ってみて」  透き通るような配色をしたブルーのラケット。小学生の瑛太にとって、ラケットは身長の半分弱の長さがある。 「これを両手で握って、後ろから勢いよく振ってボールを打つの。できるだけ真ん中で打つと球が安定するよ。利き手のほうで振ることをフォアハンド、その逆をバックハンドっていうの。瑛ちゃんは右利きだよね?だから右側で振るのがフォアね」  急に瑛ちゃんと言われて瑛太はビクッとするも、言われた通りにラケットを握ろうとする。だが、そもそもどう握ったらいいのかも分からない。  困った表情をしていると、礼が「ラケットを地面において上から覆いかぶさるように握るんだよ。もう片方の手は添えるイメージ」と実際にやって見せてくれたので瑛太は真似をした。  礼は論理的に説明するというより、感情で伝えるタイプだ。小学生ながらも瑛太はぼんやりとそう思う。小学生などの小さい子に実際に物事を説明する際は、こっちのほうが伝わりやすかったりもする。  瑛太は礼の握っているラケットがあまりにもくすんでいたというか、ボロボロなのが気になった。ラケットヘッドは地面に擦れた後があり、ところどころ黒ずんでいる。ベースの水色は薄くなっており明らかに新品の色とは程遠い。グリップエンドのヨネックスのマークははがれかけており、ひらひらとたなびいている。 「なんでそんなにボロボロなの?」 瑛太が指さして尋ねると 「気にしない、気にしない。それよりも素振りしよ」 と礼は理由を教えてくれずうやむやにされた。 「ぶん」と礼はラケットを精一杯振り回す。瑛太はその正面に立って同じことをした。 「礼ちゃんって、左利き?」 「そう。珍しいでしょ。クラブチームでも左利きは私だけなんだ」  瑛太は左利きの人間をはじめて見た。と同時にあることが気になった。 「クラブチームって、さっきの?」 「うん。学校が早く終わる水曜日の午後と、土日の午前中にあるの。メンバーは十一人で上級生が六人、下級生が私を入れて五人なの。あと自治会の会長がコーチをしてる。趣味みたいなものなんだろうけど、分かりやすく教えてくれる人だよ」  だいたいの説明を聞いた瑛太は実際にテニスがしてみたくなり、礼にテニスコートを指さして見せた。 「やろっか」  どちらからともなくそう言い、二人はコートにネットを挟んで相まみえる。礼がサービスラインとエンドラインの真ん中あたりに立ち、それに釣られるように瑛太も位置につく。  「打つよー」の掛け声の後、礼はボールを打った。それを素振りした感覚通りにラケットを振り、礼に返す。「すごーい。上手い」そう言って礼はまたその球を返す。 何回かラリーが続いて、二人の間に和やかな空気が流れる。 「これ、凄いね。めちゃくちゃ楽しいよ」 瑛太の光を放つような笑顔がコート上に広がる。 初めてにしては、瑛太はテニスが上手かった。ボールとの距離感、インパク(ボールがラケットに当たる瞬間のこと)のときの力の加減。まだ回転のかかってないふわふわとした棒球だが、それでも十分すぎるくらいである。  瑛太はどこかテニスは自分の好みに当てはまる、とラリーをしながら思った。ルールは全く理解してないのだが、コートの大きさ、ラケットの造形、打球音や打球感などが自分に向いてるなと察したのだ。  じりじりと春の太陽が二人を照らしている。自然と風が吹いてきて、どこか清々しい気持ちになる。  二人の上空に一羽の蝶々が飛んできて、ふたりのラリーを見守るかのようにひらひらと舞っている。こうして、初めてのことを経験できる喜びを瑛太は感じていた。  数十分のラリーを終え、片付けを終えるとテニスコートの近くにあるベンチに腰を掛けた。ここは木影があり日光に当たり続けていた体を冷やすのにはちょうどいい場所だ。  二人は数分の間、それぞれのことを話した。礼はこの近くに住んでおり、瑛太と通っている学校とはお隣さんだということ。礼のお父さんは仕事の出張で海外にいること。反対に瑛太も野球観戦から抜けてきたこと。同い年だということなどたくさん話した。  ひと段落したタイミングで母が迎えにやってきた。別れを告げようとすると礼は 「つぎの水曜日の午後、またここにきて。約束」  半ば無理矢理だがテニスは楽しく、嫌な気もしなかったので瑛太は約束を受け入れることにした。
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