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ボロボロのラケット
少女の画角内では、真剣な眼差しを携えた二人の男が相まみえている。テニスコート上は、炎天下だった昼の熱気がまだ抜けていない。
近くの木の幹に留まっているヒグラシが、己の存在を目一杯示さんとばかりに鳴いている。
観客が固唾をのんで見守る中、細身の男がサーブを放つ。クロス方向から外へ逃げるサーブだ。長身の相手はそれを細身のバック側に返した。何とかそのリターンに細身は食らいつくが、長身がネットに詰めていたため、鮮やかなドロップショットを打たれる。跳ねにくいようにしっかりと回転をかけられたそのボールに飛びつき、細身の男は心の中で「このポイントは絶対にとらせない!」と叫んだ。
ボールが落下する音が鳴り響いた後に、客席が沸いた。
夏はもう終わりを迎えようとしていた。
ボロボロのラケット
嘉山瑛太(かやまえいた)が小学校に入学してから、最初の週末。習いたての平仮名を駆使して瑛太は近くに落ちていた雑誌の切れ端を解読していた。
「カキン」と文字通りの金属音が聞こえた後、周りから「逆転だぞ!!」や「ナイスバッティング」「まわれまわれ」という歓声がした。
瑛太は後ろに座っている大柄な男の、怒号のような声量に、フラストレーションが溜まりっぱなしだ。
母親に半ば強引に連れられ、瑛太は四歳上の兄が出場する野球の試合を見に来ていた。けれどルールは分からないし、辺り一帯うるさいし、全く興味が湧かない。
以前、父親と兄にキャッチボールに誘われたことがあるのだが、ボールが怖くてつい顔を背けてしまい顔面に当たったことがある。兄が緩く投げてくれたボールなのだが、まだ幼稚園児だった瑛太にとっては、軟球のボールでもとても痛かった。そのトラウマが影響し、野球をやることも見ることも、瑛太の中ではどこか抵抗があるみたいだ。
河川敷の奥にあるショベルカーを恐竜のように例えて妄想する。川沿いにある高層ビル付近の工事現場では、今何の作業が行われているのだろうかと考える。瑛太は完全に上の空状態だ。
ツーアウト満塁。隣にいる母親が「陸、頑張れ」と声を張る。その声で、今兄が打席で闘っていることに瑛太はようやく気付く。選手は全員同じユニホームを着て、同じ帽子やヘルメットをかぶり、肌はこんがり色が浸透している。なので誰が誰だか、意識が散漫状態の瑛太にはよく分からない。
川の彼方から、一二時の鐘の音が響き渡る。嘉山家の隣町では、朝九時から夕方の六時までの間、その時間の数だけ鐘がなる。
その鐘は、橋を越えて少し先の駅前広場にあったはずだ。数カ月前に車の窓から見た景色が、鮮明に瑛太の脳裏に浮かび上がった。瑛太は天真爛漫で記憶力がよく、車窓から捉えた景色のことを母に頻繁に話す。それで思いだしたのだ。
「瑛太、お母さん駐車場近くの自動販売機に行ってくるね」
お母さんがお兄ちゃんの飲み物を買いに行こうとしたとき、瑛太は不意につられて立ち上がり、歩き出したくなった。
「散歩してきていい?少しだけ」
「いいけど、あまり遠くへ行ったら駄目よ」
優しい母親の返事を素通りし、瑛太はひょこひょこと小走りにその場を離れた。
昼間の河川敷は季節が春でも若干熱い。影がないせいで日光を直に浴びてしまうからだ。周りを見渡すと若干の陽炎があちこちから湧き出ている。瑛太は涙が出そうになるときもこんな感じの視界だな、と目を擦った。その後、瞬きを数回して焦点を合わせる。
「前に見える橋の下まで行ってみよう」なんて考えが浮かんだ時点で、瑛太の足は既に前に出ていた。
遥か遠くに見える山々が背景ではなく、実際に存在しているのか。その上にある巨大な積乱雲が綿菓子だったら完食仕切るまでに何日かかるのか。
生まれてまだ六年しか経過していないちっぽけな生物の脳内は、好奇心と探求心で満杯だ。
自分が何物かも、何を求めて存在しているのかも理解していない瑛太は、多くのことを知りたい追求欲が抑えられなかった。
巨大な橋の下付近に漂う空気は不思議だ。車が橋の上で行きかう音の大きさに、胸が自然と躍る。
橋の下に到着すると、ゴミなどが散乱しており、異臭に瑛太の鼻がツンとした。散乱しているペットボトルは、中にどす黒い水が入っていて不衛生だ。
「ここにはあまり長居するべきではない」と感じ取った瑛太は、橋の反対側へと歩き出した。
耳を澄ませると、「ポーン、ポーン」と一定の間隔で、同じ音が耳に入ってくる。
その正体が何か気になった瑛太は、早速、音のする方向に駆け出した。
音が大きくなるにつれ鼓動が激しくなり、足を動かすスピードが速まる。風を切って走るという表現があるが、今の瑛太は風をかき分けて、邪魔だと言わんばかりに前へ進む。
瑛太が足を止めたのと同時に緑色のボールが低くバウンドしながら飛んできて、次第にゴロになりつま先の前で止まった。
くりくりの瞳で瑛太は、数秒それを眺める。初めて見るものに心底驚いている様子だ。
ゆっくりと瑛太は自分の手と変わらないサイズのボールを拾い上げた。すると、前に掲げたボールの裏に、ポニーテールの女の子が不思議そうな顔をして立っていた。
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