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僕は物忘れが酷い。昨日のことも徐々に霧がかかって、いずれ思い出せなくなってしまう。自分の両手から零れ落ちるそれは、決して少なくない。新しく得るものよりも、二度と戻らないものの方が多いと思うようになったのはいつの頃からだろうか。
そんな僕に貴方は
「『忘却』は人間の才能よ?」
と笑う。「私は例外」と言う貴方からは羨望に近い感情が汲み取れた。貴方は僕とは真反対の性格だ。気が強くて、プライドが高く、どんなことでも全て覚えている。僕らはないものねだりをし合いながら、一緒にいる。
「そんなの要らない。それより、僕が忘れないように、傷をつけてよ」
貴方を忘れられないように、僕の身体に焼き付けて。そう願う僕に、貴方は目を細めながら
「嫌」
と答えた。
「貴方には分からないだろう。いつまでも、何でも覚えていられる貴方には忘れることへの怖さも、寂しさも。そして取り残される、あの背筋が凍るような哀しみも。全部知らないんだろう」
「分からないわ。でも嫌なことを忘れられずにいる苦しみも、痛みも。そして幸せな想い出がその苦しみや痛みで掻き消されてしまう、あの身を焦がすような哀しみも。すぐに忘れられる貴方は知らないくせに」
互いにぶつかり合った視線は、小さな火花を散らした。それは『忘却』の才能を与えられた者と、与えられなかった者の心の叫びだった。
暫くして、先に目を逸らしたのは僕の方だった。
「それでも、いつか貴方のことすらも忘れてしまうことが怖いんだ」
どれだけ僕が願ったところで、僕は貴方の存在を忘れて、二度と思い出すことは出来ないだろう。僕の世界にはいずれ誰も居なくなる。
でも、その度に貴方は僕の元へ来て同じことを言う。
「貴方が忘れても、私は絶対に忘れない。貴方が歩いていくうちに零して行ったものは、必ず私が抱き締めて隣を歩いてあげる」
「ねぇ、いつか貴方のことすらも忘れて、僕が空っぽになった時でも、僕の隣を歩いてくれる?」
「馬鹿ね。忘れたって、何度でも教えてあげる。唯一人間が平等に持つ才能は『記憶』なのよ。忘れたって、また覚えればいいの。私が貴方に幸せを吹き込んであげる」
空っぽになんて、してあげない。
相変わらず上から目線の君の言葉は、僕の救いだった。
だから…だからこそどうか、貴方のことだけは僕の力でずっと覚えておきたいんだ。
そう歯を食いしばった僕に、貴方は自分の記憶を吹き込むようにキスをした。そのキスは忘れられないくらいの幸せが詰まっていた。
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