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第12話 トトメス王子、訓練場にて大いにやらかし、大絶賛を受けるの由
何か生暖かいものが触れる感触で目を覚ました。胸の上が重たい。
「…ううーん」
手で払いのけようとすると、もさもさした毛のようなものに触れる。
「がうー」
「ううーん、退けって。重たい…起きるから…」
まだ寝ていたいのに、何かが彼を起こそうとしているのだ。
渋々と目を開けると、顔の前にワニがいる。
「うわっ?!」
思わず飛び起きるのと同時に、アメミットがごろんと寝台の端まで転がった。
「がふっ、がふっ」
耳をぱたぱたしながら、「やっと起きた」と言わんばかりに口を開けて笑っている。
「…ああ。もう」
『はっはっは、やっと目を覚ましたな! あまりに起きないものだから、勝手に身体を動かしてやろうかと思っていたところだ』
頭の中から自分ではない別の声が響いてくる。ぎょっとして辺りを見回したあと、トトメスは思い出した。
――そうだった。
昨日、西の高台で古えの王カーエフラーと話し、来るべき日まで身体を貸すことに同意したのだった。
窓の外は既に高く陽が登り、明るい陽射しが前庭を照らしている。カーエフラーの意識があるのは、夜明けから日没までの間という話だった。ということは、夜が明けると、トトメス自身が眠っていても、カーエフラーのほうは先に目覚めていることになる。
『それにしても、冥界の裁きの獣が守護者とは。そなたは変わった加護を得ているのだな』
身支度を整えている間、カーエフラーの声がどこからともなく聞こえて来る。
「生まれた時から憑いてるらしいんですよ。何でなのかは、俺にも分かりません」
『そうか? そなたの生まれ名は書記の神の名を借りたのであろう。死者の王の法廷では、裁きの獣は、死者の名を記録した台帳を管理する書記の神とともに働くのだぞ。案外、書記の神が寄越した代理の守護者やもしれぬ』
「まさか。俺は字が下手だし、本を読むのもそれほど好きじゃないし、文章だって上手くない。学問は人並みかそれ以下です。そういうのが得意なのは妹のほうで…多分、気に入られる要素なんて何もないですよ」
腕輪を嵌めながら部屋を出ると、香辛料のつんとする香りが居間に漂っていることに気が付いた。マイアは昨夜の予告どおり、ニンニクいりの滋養強壮に効く料理を作ってくれているようだ。
席に着くと、ベセクが杯を差し出した。
「お祭りで配られていたビールをいただいてきましたよ。トトメス様、身体のほうはもう、大丈夫なんですか」
「うん、問題ない。なんとかね」
本当は、まだ少し腕が痛いのだが。――たぶん、弓など引きなれていないのに、最初から無茶をし過ぎたのだ。
「久しぶりに、弓の訓練をしてみるかなあ…。」
呟きながら、パンをちぎってビールと一緒に流し込む。
『…ん?』
「ん?」
頭の中から、妙な反応がある。
『何だ、これは。美味い…こんな味は初めてだぞ。そなた、一体何を食べておるのだ』
「何って、普通のビールとパンですよ」
『何と! このような、泡の立っているものがか。ふむ…作り方が変わったのか? なんたる美味。パンも香ばしい。僅かな甘みがある…ふむ、驚きだ!』
(千年前とは作り方が変わってるのかな? まあ、喜んでくれてるなら何よりだけど)
食事をしている間、頭の中からは料理を楽しんでいる声が響いてくる。千年ぶりの生きた身体での食事なのだから当然かもしれないが、自分の食べた味を別人が感じて評価しているというのは、何とも不思議な感覚だ。
食事を終えて外に出てみると、ちょうど、メンナが前庭の石積みを直しているところだった。お祭りの翌日だというのに仕事熱心だ。夜通しの酒盛りには、参加しなかったらしい。
「メンナ、少し聞きたいことがある。君は弓は使えるのか?」
「もちろん使えますよ。警備の仕事で習いましたからね。槍のほうが得意ですが」
「稽古をつけて欲しいんだ。少し身体が鈍ってるみたいだから」
トトメスがそう言うと、彼は手を止め、少し考えこむそぶりを見せた。
「うーん…仕事はもう辞めてしまったので、家には弓は置いてないんです。でも、トトメス様がそうおっしゃるなら、前に務めていた警備兵の訓練所を使わせてもらえないか、聞いてみますよ。」
「悪いな。頼むよ」
『ふむ。そなた、軍事は苦手なのか』
頭の中で、カーエフラーの声がする。
「一応、一通りの訓練は受けたんですけどね…。イマイチ向いてないっていうか、俺が矢を射ると変なとこに飛んだり、槍がすっ飛んだり滅茶苦茶で。教官からは、死にたくなければ戦場に出ないほうがいいとまで言われましたよ」
そう、トトメスの不運は、軍事訓練でも遺憾なく発揮されていた。戦車に乗ろうとすれば車輪が外れ、狩りに出ようとすれば食あたりで遠征隊の一行が全滅する。射撃も、腕前は決して悪くは無かったが、いつしか弟のウェベンセヌと比べられることが苦痛になって辞めてしまった。
広場のほうに出てみると、そこには、あとの祭りといった雰囲気のまま、酩酊した人々がまだあちこちに転がっていた。
神官たちがせっせと水を配り、ぐうぐう寝ている者を揺り起こして家に帰らせようとしている。その一方で、礼拝所には、捧げものを持って集まって来ている人々の行列が出来ている。
そろそろ一年の終わりなのだ。あと一か月もしないうちに、年の最後の五日間、それに新年のお祭りがある。新年になれば、水位の下がった川は水嵩を増し始め、星の巡りは新たな暦の始まりを刻み始める。
(そうか。今年は、都の新年祭は見られないんだな…。)
新年祭では、王とその一家が都の主神であるアメンに捧げものをし、夜通し火を焚いて祈祷が行われる。沢山の出店が並び、人でごった返す賑やかなお祭りだ。去年まではトトメスも、末席ながらその祭りには参加して、父王の隣で祭壇に捧げものをしたものだ。
けれど今年は、――今年の祭りには、今から戻って参加することも間に合わない。
今さらのように、彼は、自分ひとりが遠い場所にいることを思い出していた。
メンナが意気揚々と報せを持ってやって来たのは、それから数日後のことだった。
「訓練所を貸して貰えることになりましたよ! 今日から、いつでも来ていいそうです」
そう言って、彼は得意げに白い歯を見せて笑った。
ちょうど筋肉痛も収まり、カーエフラーにイウヌの街を案内するのも億劫になってきていたトトメスは、すぐさまそれに飛びついた。
「じゃあ、すぐに行ってみよう。場所は?」
「そう遠くありませんよ。この神殿から丘ひとつ挟んだ下流のほうです」
メンナに案内され、ベセクを連れ、彼は、丘の向こうの軍事施設へと向かった。
その辺りは、初めて行く場所だった。集落が川に沿って広がっているのは知っていたけれど、丘の向こう側の、川の大きな支流のあるあたりに、兵舎が並んでいるのは知らなかった。
話を聞くと、メンナの言っていた運河というのは、その支流から繋がっているものらしい。
「運河は、南北に流れる川の支流を横に繋いでます。で、運河に沿ってあちこちに小さな監視所があるんです。ここで訓練を受けた巡回兵は、監視所を順繰りに回って見回りをしています。」
『ふむ。古来より、川の流れはこの国の道であるからな。必要なことであろう』
頭の中で、カーエフラーがいかにも王らしいことを呟いている。
『余の時代よりはるかによく水路が整備されておるな…む、水揚げの装置まであるではないか。あのようなものは昔は無かったが…ふむ、実に興味深い』
一つの身体で、二つの思考が同時に動くのは奇妙な感覚だ。カーエフラーはトトメスの視界を飛び越して、訓練所の外の畑のほうに目を奪われている。
「で、そこが厩舎。その隣が槍の訓練場で、向こうが弓。体術もやってますよ、一応」
「馬も飼ってるんだね。運河の見回りをするのに、戦車も揃えてるのかい?」
「あれは王さまからの預かりものですよ。少し前まで国境で戦争なんてしてたでしょう。いつまた出征があるか分からないからっていうんで、この辺りにも備えてあるんです」
「ああ、…そうか」
そういえば、父アアケペルウラーは戦争の得意な軍人王でもあった。父の、そして祖父の代には、東の国境を越えて何度も異国に出征し、この国に侵入してくる可能性のある国々と戦い続けていたのだった。
『……ウマ、とな?』
それまで畑を眺めていた意識が、トトメスの真横に移動して行く。
「ん?」
弓の訓練場のほうに歩きたいのに、身体が言う事を効かない。身体の中にいるカーエフラーのほうの注意が、厩に引き付けられているからだ。
『ウマとは何だ。む、何やら変わった獣がおるではないか。ふむむ、面妖な…ロバに似ているが背が高い。トトメスよ、あれはどういう獣なのだ』
カーエフラーの意識は、やけに興奮した様子だ。
「ご存知ないんですか? 東のほうから輸入されてる動物ですよ。戦車を引かせるのも使うんです」
『戦車、というのは何だ。船か何かかか?』
「いや、…」
メンナとベセクの視線に気づいて、彼は口をつぐんだ。はたから見ると、ぶつぶつ独り言を言って居るようにしか見えないのだ。それに、このままでは、真っすぐ前に歩くことも出来そうにない。言葉で説明するよりは見せたほうが早いだろう。
「父上のものなら、俺が乗ってみても叱られることはないはずだ。メンナ、ちょっと出してみてくれないか。えーと、その。馬が走りたがっている気がするんだ。戦車を繋いでみてくれないかな」
「えっ? …勿論、それは、トトメス様のご希望なら…」
戸惑いながらも、メンナは誰かいないかと兵舎のほうに走っていく。ベセクは、心配そうな顔で彼の主人に囁きかける。
「一体どうしたんですか、トトメス様。戦車なんて二度と見たくないとか前に言ってませんでしたっけ。どうせ落ちるか、轢かれて死ぬのがオチだ、とか言って」
「いやー、…まあ、そうなんだけどさ。何事も挑戦というか…都を出る時に、何でもやってみろって父上に言われたし…。」
確かに今までの経験は散々なものだった。馬に近付くだけで唾を吐きかけられたり、あからさまに怯えたりされて、まともに乗ろうにも乗れなかった。
けれど、今、馬たちは固まったように黒い瞳でじっと彼を見つめているものの、以前のように怯えてはしていない。いや、恐れてはいるのだが、畏怖に近い感情でこちらを眺めている。おそらくは、トトメスではなくカーエフラーを見ているのだ。
トトメスの代わりに、カーエフラーが腕をのばす。柵の外からそっと黒い鼻づらに触れ、王はいたくご満悦のようだ。
『美しい。こんな獣は余の頃には一度も献上されたことがないぞ。これは何を食べるのだ?』
「草ですね。ロバより繊細で、固い餌は砕いてやらないと食べません。ただ力持ちで足が速いんです。――ああ、ほら。戦車が出てきましたよ」
兵舎のほうから、メンナと仲間たちが馬に取り付ける車の部分を押して来る。王が使う用のものとあって、豪華な金張りの装飾がされ、日傘を取り付けられるようになっている。
「…って、…なんか、思ってたより派手だなあれ」
「陛下が乗る戦車なんでしょ? そりゃ当然ですよ」
ベセクが呆れたように言う。「乗るんですか、ほんとに。あれに」
迷っている間にも、準備は手際よく進んでいく。
やがて、目の前に、立派な二頭立ての戦車が完成した。心棒に繋がれた馬には、ご丁寧に羽根飾りまでつけられている。
「お待たせしました」
メンナは、汗を拭いながら笑顔で鞭と手綱を差し出した。「広場は自由に走らせて良いそうです。どうぞ」
「…。」
『おお! これが戦車というものか。さ、はよう試してみるのだ、トトメスよ。これは、いかにして動かすのだ?』
「……。」
訓練の手を止めて、兵士たちが遠くから見守っている。通りがかった近所の人まで足を止め、柵の向こうからこちらを眺めている。
後ろではベセクが小さく首を振り、諦めの顔で指を組んでいる。
もはや逃げ場はない。ここで止めますと言えるはずもない。覚悟を決めて、トトメスは手綱を受け取った。
(戦車なんて、何年ぶりだろう…)
恐る恐る台に足をつけ、馬の背中に目をやった。大丈夫、久しぶりだが乗り方は覚えている。それに、どんな不運に遭ったって、自分が大怪我をするだけだ。――最悪、それだけだ。
「よし!」
鞭を振りあげ、ぴしりと馬の尻を叩いた。途端に、がくんと身体が大きく揺れ、戦車が勢いよく走りだす。
『おお!』
カーエフラーがはしゃいだ声を上げる。
『速い! これは確かに速いぞ、ロバよりもずっとな! はははは! いいぞ、次は曲がってみせてくれ!』
「あ、あああ…あああ゛あ゛」
がくがくと上下に揺れながら必死に手綱を握っているトトメスは、それどころではない。曲がるどころか、真っすぐに走ることも難しい。放り出されないようしがみつくのがやっとだ。
『どうした? そこだ。ほれ! 手綱を貸してみよ。余もやってみたいぞ』
「ちょ…駄目ですよ、そんなに…ああっ」
上機嫌のカーエフラーが手綱を振り上げ、勢いよく振り下ろした。もっと速度を出せと指示されたと勘違いした馬たちは、さらに足を速め、風景はもはや見えないほどにびゅんびゅん後ろに流れてゆく。
見守っているベセクは、はらはらどころではない。祈るような気分だ。
「おおー、凄いな。さすがは王子…あれだけの速度を出して、迷いのない手綱さばき」
「なんて名前の王子なんだい。確か、陛下には嫡男が何人もいただろう?」
「トトメス殿下というそうだよ。正妃様の息子の一人だとか」
「へぇ…そりゃあ、なかなかのご身分だね。きっと王さまの自慢の息子なんだろう」
眺めている、事情を知らない兵士たちの気楽な言葉など耳にも入っていない。
結局、馬は広場を十周ほどもしたところでようやく速度を落として立ち止まってくれた。
その間、乗っている人間が放り出されず、制御を失って障害物に突っ込むこともなかったのは、もはや奇跡としか言いようが無かった。よろよろしながら戦車を降りて来たトトメスを出迎えたのは、得意満面の笑みを浮かべたメンナと、げっそりやつれたような顔をしたベセクだ。
「いやあ、トトメス様。素晴らしい乗りっぷりでしたね! 神殿にご留学と聞いていたので文人気質の方かと思っていたのですが、戦車も見事に乗りこなされるとは。さすがは軍人王で名高い陛下のご嫡男です!」
「…う、うん…そう…かな…。」
ちらりとベセクのほうに目をやると、彼は、恨みがましい視線を返して来た。
「寿命が十年は縮みましたよ。」
「……。えーと、そ、それじゃ弓の訓練のほうに入ろうか。ね?」
内心では、「もう戦車はこりごりだ」と叫び出したい気分だった。
『何、これで終わりなのか? ふむ…残念だ』
「馬は十分走らせた。今日はもう戦車は十分だ」
きっぱり言って、トトメスは大急ぎで厩舎を離れた。今回は運よく最後までまともに乗れたが、次も巧く行くとは限らない。ボロが出る前に、どこか人目につかないところに隠れてしまいたかった。
それからのトトメスは、数日おきに訓練所に通って弓や槍の訓練をし、時には不本意ながら、カーエフラーの強い要望に従って少しだけ戦車を走らせたりして日々を過ごした。そして合間には、カーエフラーに身体を貸して、「秩序の綻び」から湧き出してくる靄のような悪霊の退治をして周った。
いまでは、船に乗って天に近付かなくても、天の裂け目は地上から見て取れた。青く澄んだ空に目を凝らすと、その先に夜の色をした濃紺の空と、白くにじんだ星の川を横切る不気味な亀裂とが透けて見えるのだ。
「何だか不思議な気分です。見えないものが見えるようになるというのは」
『ふむ。余の魂とそなたの身体が馴染んで、余の力がそなたに浸透しつつあるのだ。しかし不思議なものであるな。この程度のことが見えぬようになっていようとは』
「昔の人はみんな、見えていたんですか? あんなものが」
『無論だとも。もっとも、余の時代はまだ神代と人の世が別れて浅く、人は、今よりも神々に近しい存在であったからな。――』
カーエフラーに身体を貸すようになってからというもの、トトメスは、彼がただの「大昔の王」ではないことに気が付き始めていた。
神に近しい力を持つ者たち。あるいは、神と呼ぶべき存在そのもの。古えの王たちが「神王」と呼びならわされてきたのも、ただの慣習では無かったのだ。
今でも「王とは人と神の狭間にあり、神々の代行者として地上を統べる者が王なのだ」と教わりはするものの、それはただ、古来より言い慣わされてきたことを踏襲しているのに過ぎないとさえ思えた。
(今の王は、…俺の父上は、この人ほど人間離れしてはいない)
並外れた体力を持ち、軍人として他者の追従を許さない偉大な父王の威厳も、「優れた人間」という枠を越えられはしない。それが、微かに悔しくもあった。
(何も出来ない。俺には何も…父上にさえ到底、届かないのに)
見えない船を駆り、人知れず空を行き来しながら、トトメスは、カーエフラーの戦いをただ見守っているしか出来ない自分の不甲斐なさを思った。
(この世界を守るには、この人に頼るしかないんだ…)
自分は、ただの「器」なのだ。今は目に見えないものを見、不思議な力を使える特別な存在でいられても、いつかその日が過ぎれば只の人間に戻る。
そうしたら、一体、何が残るのだろう?
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