第13話 トトメス王子、新年を前に古代王と語らい、太陽神殿にて妹と再会するの由

1/1
前へ
/29ページ
次へ

第13話 トトメス王子、新年を前に古代王と語らい、太陽神殿にて妹と再会するの由

 カーエフラーが目覚めていられるのは、日が昇ってから沈むまでの間だ。  日が暮れればいつの間にか気配が消えているし、トトメスが眠っていても勝手に目を覚ます。その都合上、いつしかトトメスも、毎朝、夜明けとともに目を覚まし、日暮れとともに床に就く早寝早起きの生活になっていた。  「ここへ来てから、ずいぶん勤勉になりましたねぇ」 正直者のベセクなどは、直球的にそう言った。  「さすがにね。太陽神殿の中で暮らしていれば、そうなるさ」 そう言って誤魔化しながら、トトメスは、メンナに借りて来た重し付きの槍を前庭でせっせと振っている。  このところ、腕の筋力はだいぶ、ついてきた。  体力も、最初に比べればかなりマシになったと思う。運動しているお陰で食事もたくさん取るようになったし、夜は寝つきが良い。日課の訓練を終えたら水を浴びて朝餉を取る。それから、ふらりと出かけるのが日々の生活だった。  「で、今日はどこへ行きますか」 訊ねると、頭の中からカーエフラーの声が返事をする。  『そうだな。…中洲のほうへ行ってみぬか。じきに新年であろう? もうそろそろ、川の増水が始まる。測定器には監視が立っておるのではないか』  「確かにそうですね。」  測定器、とは、大河の水嵩の上がり具合を確かめるために川の中州に作られている、階段状の施設のことだ。  大河の恵みは毎年、同じ時期に訪れるが、どの程度のものになるかは、その年によって大きく違う。ほとんど水位の上がらない年もあれば、沿岸の街や村が水浸しになってしまうくらいの大洪水の年もある。少なすぎれば翌年の実りが減り、多すぎれば家を建て直しが大変、というわけだ。そして、もし仮に十分な水嵩だったとしても、始まるのが遅すぎれば今年の麦の植え付けに間に合わなくなってしまう。増水がいつ始まり、どの程度の水位で止まるのかは、毎年、神官たちを悩ませる重大な神意なのだった。  「都には、あまり大きな測定器は無かったんですよ。川幅が狭かったし、代わりに上流の街から報せを貰っていました」  『都――ウアセト、といったか? どのような街なのだ。余の時代には、その街の名は聞いたことがない』  「うーん、どう、というか…建物はここより大きくて、石造りの建物が多いです。街に住んでる人もこの辺りより多い。お金持ちばっかりで、気取った感じかも。あと…神殿は、ここよりもっと川に近いところにあります。」  『ふむ。…金持ち、か。それは王族では無く、庶民なのか?』  「貴族ですよ。王族との親戚の人もいますが、むかし功を立てた軍人の子孫とか、偉い神官さまと縁組した家とか、商売で儲けた人とか。王族とは関わりない人が多いです。あと…自分の領地を持っている家も多い」  『何と。それでは、そやつらはまるで王のようではないか。国土は全て王のもののはずだぞ。なぜ、そなたの父は家臣どもがそのような振る舞いを許しておくのだ?』  「う、うーん。そう…言われても…。」 千年前と変わらないこともあれば、変わっていることもある。時には思いもよらない、些細なところが違うのだ。カーエフラーの話してくれる昔話は、かつて養育係に教わっていた歴史の話よりずっと面白い。  歩きながらトトメスは、独り言のように頭の中に話しかける。  「そういえば以前、アメンの大神も昔はいなかったって仰っていましたよね」  『うむ。そのような話もしたな。正確には、余が知るほどの高名な神ではなかった、ということだ』  「俺は、昔からずっとアメン神が、皆の知っている大神だったんだと思ってました」  『千年も経てばな、変わるものだ。人気の出る神、下がる神。街の守護神などは分かりやすい。長年のうちには消えてしまった街もあろう。新しく作られた街もあろう。そうなれば、神の名や意味もな、変わってしまうものなのだ。…西の高台に建つ我が守護者、ホル・エム・アケトですらそうであろう? 正確な名も意味も、忘れ去られておったようではないか』  「確かに、そうですね。」 ここでは、一人ぶつぶつ言いながら歩いていても誰も聞きとがめない。何か難しい考え事でもしているのだろうと解釈される。それどころか街を通り過ぎようとすると、市場にいた住民が振り返り、笑顔を見せる。  「あらっ、王子様、お出かけですか」  「あとでうちの店に寄ってくださいよ。今日もいい魚が入ってますよ」  「うん、またあとで」 奇跡的にも、この街ではまだ、致命的な失敗は冒していない。…厳密に言えば、相変わらず出歩くたびに何かが起きるのだが、悪い方向に解釈されていない、というところか。  街を通り過ぎて川べりに出ると、その先には川が流れている。  水位は低いが、泳ぐには遠い。中洲へ渡るには、渡し場で舟に乗る必要がある。自分で舟を雇うか、それとも、誰かに乗せてもらうか、だ。  きょろきょろしながら川べりを歩いていたトトメスは、ちょうど舟を降りたばかりで、足早に土手を登ってこようとしている男と正面からぶつかった。  「うわぁ!」 そのはずみで、男が懐に大事そうに抱えていた包みが落ち、中から小さな音がした。頭からすっぽりと布を被った男は、一瞬ぎょっとしたような顔をして、トトメスが手を延ばす前に、慌ててしゃがみこんで自分の荷物をさっと抱え上げる。何か、水のような液体が、ぽたぽたとしたたり落ちている。  僅かに手に触れた液体から、つん、と鼻を突くような異臭がした。  「ああっ、すいません…壊してしまったんなら、弁償します」  「……。」 けれど、返事は無かった。男は何やら慌てた様子のまま、トトメスのほうも見ず、荷物の中身すら確かめもせずに足早に立ち去っていく。  「何だかすごく急いでいたな。悪いことをしたかも」  『まったく、そなたは不注意が過ぎる』 カーエフラーは、くっくっと小さく笑っている。  『そなたとともにあるようになってから、日々が予想外の出来事ばかりだ。余は人生の中で、これほど転んだり人にぶつかったりしたことはないぞ。まさか死んでから一生分を体験するとは』  「はあ…。すいません」  「おい、兄さん。渡し船を探しているのかい? だったら乗っていきな」 さっきの急いでいた男が降りたばかりの小舟の船頭が、トトメスのほうに向かって手招きしている。  『ふむ、丁度よいではないか。では、参ろう』  「おっと。そうですね」 さっきの男には、どこかで出会ったら謝っておこう。トトメスは、そう思った。格好からして旅人のようだったから、巡礼者かもしれない。行先はきっと、丘の上の太陽神殿だ。  イウヌとメンネフェルの街の中間には、大きな中州が幾つかある。  水位の計測器はその中でも最大の中洲の南の端、つまりは上流側に作られていた。外観は緑の葦のそよぐ中に建つ塔のような建物で、中にぱ階段状をした、一段ごとに数字が刻まれている石段が作られている。  カーエフラーの予想したとおり、そこには既に神官がいて、水位の上昇の始まりを今か今かと待っていた。塔を上から覗き込んでみると、今はまだ、辛うじて一番下の段が黒く濡れているくらい。水位が高くなるのは、まだこれからだ。  『ふうむ。何度も作り直されてはいるようだが、ここは変わらんな』 カーエフラーは満足げに呟く。  『豊穣の神々が、今年もつつがなく水位を上昇させてくれると良いのだが。』  「その、こんなことを言うのも何なんですが…世界が滅びるかもしれないっていう時に、増水はちゃんと起きるんですか?」  『それを確かめに来たのだ。世界の秩序が綻びつつあるといっても、世の中の全てが乱れるわけではない。原因は、太陽の刻む"時"が、天と地の間で食い違うことにある。天には天の時間が、地には地の時間が流れ続けておる。ゆえに、どこに影響が出るのかはその時にならねば判らぬ』  「…え、えっと? うーん?」  『暦だ。一年が何日あるかは、流石に知っておろう? 一か月は三十日、一年は十二カ月ある。』  「はい、…全部で三百六十日、ですよね。で、余り日が五日あって、全部を足して三百六十五日です。…あっ、暦という秩序を地上にもたらしたのは太陽神だった、そうですよね?」  『うむ』 だが、巧く答えられたとほっとしたのもつかの間だ。  『それでは、月の暦ではどうなっておる』  「え…月ですか?」  『そうだ。古えの言い伝えにわれば、余り日の五日は、月神でもある知恵の神が追加したものと言われておる。しかして、その追加の時とはいかなるものか。"元々あった三百六十日それぞれの七十分の一の時"だ。一日の七十分の一が三百六十日ぶんあり、そこから五日を引いた余りはどうなるのだ?』  「……。」 トトメスは硬直したまま、大混乱に陥っていた。元々、計算は大の苦手なのだ。一年の暦に端数があることくらいは、何となく知っている。だからこの国には、公式な、神代の時代より伝わる「公用暦」の他に、神官たちが星辰を観測して誤差を修正した「大衆暦」の二種類があるのだ。  けれど、その誤差の正確な由来まで、改めて考えてみたことは無かった。毎年どの程度の誤差が発生していたのかも。  棒のように立ち尽くしているトトメスに気づいて、見回りの神官が心配そうに声をかける。  「殿下、どうかなさいましたか? あまり覗き込まれますと、落ちてしまいますよ」  「あっ――はい。ちょっと考え事をしてただけなので…。」 慌てて階段を上り、塔の外に出る。  光が眩しい。  暦なんて、今まであまり気にしたこともなかった。祭事や記念日など、主要な出来事まであと何日かは、神官や役人に聞けば誰かが教えてくれた。祭りや行事の日取りは、神殿が公表する日付に従えば良く、今日が何月何日かなど、正確に知っている必要はなかったのだ。  溜息とともに、カーエフラーは続けた。  『時を計算するのは、かつては王と王家の仕事であり、特権でもあったのだがな…。まあ良い。知っておかねばならぬことは一つだけだ。ということだ。一日に満たぬ、昼でも夜でもない半端な時間がある。それは一年や十年ならばごく僅かな時間に過ぎぬが、千年も経てば、大きな歪みとなって秩序ある暦の上にのしかかって来る。――つまりな、トトメスよ。今、この世界の(とき)は、本来あるべきそれと、人の住まう地との間で大きく食い違い、歪みとなって表れておるのだよ。』  「刻の食い違い…。」 眉を寄せ、川べりに向かって歩きながら、トトメスは考え込んでいた。  一年に半端な五日が付け足されたくだりは、神話の授業で習っていた。けれど、一年に五日以上の余分な時間があるという話は、聞いた覚えも、習った記憶も無い。  (もしかしたら、算数の授業で習ったのかも。そっちは半分寝てたし…課題も真面目にやっていなかった…) 養育係のヘカエルレネフの渋い顔が蘇って、トトメスは慌てて記憶を頭から振り払った。やたらと墨の壷をひっくり返したり、筆を無くしたりする生徒など、熟練の養育係にとっても、なかなか教えづらかったに違いない。  しかめ面をした彼のすぐ側を、蝶が一匹、ひらひらと通り過ぎてゆく。  街に戻ろうと、乗って来た舟のほうに歩き始めた時、ふいにカーエフラーが足を止めさせた。  『…居るぞ』 同時にトトメスも、視界の端の物陰に、もぞもぞと蠢いている暗い影のようなものに気が付いた。  慌てて、彼は身体の優先権をカーエフラーのほうに譲った。そうすることで、周囲の風景が一変する。真昼の光がうっすりと陰り、まるで時間が止まったように、自分たち以外のあらゆる生き物の動きが緩慢になる。  「"時"の隙間から滲みだして来るものに対抗するには、自分たちも時の狭間に入らねばならない」と、カーエフラーは言っていた。  何処からともなく出現した光る弓を手に、トトメスは影めがけて走り出す。矢を番え、膝をついて瞬時に弦を引き絞る。カーエフラーが手綱を取ると、トトメスの身体は、彼自身が動かしていた時よりもずっと俊敏に、信じられないほど素早く動くようになる。  光の矢は、今日も全く乱れもせず、敵の真ん中を射抜いていた。さすがの腕前だ。練習してずいぶん上手くなったとはいえ、トトメスはまだ、そこまでの腕前には到達していない。  ひとつ息をついてカーエフラーの意識が遠のくと同時に、光が戻り、周囲の生き物が元通りに動き始めた。  『ふうむ。さすがに、数は少し増えて来たな。』  「本番は冬至、なんですよね? 大丈夫なんでしょうか…」  『うむ、支障ない。肩慣らし代わりに見かけたら退治してはおるが、この程度ならば、民の持つ護符や神殿の祈りでも退けられる。ただ、気になるのは…"忌憚の日"だな』 トトメスが固まってしまったのに気づいて、カーエフラーは苦笑する。  『まさか、"忌憚の日"まで忘れてしまったわけではあるまいな?』  「い、いえ、知ってます。知ってますけど、…その、陛下のいた時代から在ったものだとは、思わなかっただけですよ。」 その日は、一年の最後にある五日間のうちの一日に当たる。別名は「不吉の日」、現在では嵐と戦争の神の名をとって"セトの日"とも呼ばれている。一年のうち、どの天の神も守護者として就いていない、あまり運勢の良くない日だとされているのだ。  「何か起きるんですか? その日に」  『判らぬ。ただ、その日には、悪霊が力を持ちやすいのだ。時の歪みによって、既に多くの悪しきものがこちら側の世界に入り込んでおる。それらにどのような変化を齎すのか、予測が出来ん。』  「そんな、…カーエフラー様にも分からないなんて」  『そう言うな。余にも、分からぬことくらいはある。そら、もう一匹あそこに出て来たぞ。次は余がそなたに力を貸してやろう。そなた自身で仕留めて見るがいいぞ』  「へっ?」 瞬時にして、周囲の時の流れが変わる。トトメスの真正面に、草を食んでいるロバの後ろの荷台の影に隠れるようにして、小さな影がもぞもぞと蠢いている。  『さあ、やってみるがいい。散々訓練したのだろう?』 トトメスの手には、大きな重たい弓が握られている。  迷う腕を押されるようにして、彼は弦を懸命に引き絞った。いっぱいに引くと肩幅がぎりぎりで、腕が震えて狙いを定めるのがやっとだ。それでも、何とか矢を放つ。  軌跡はブレたが、何とか上手くいった。  荷台の影が小さくて、相手に逃げ場が無かったのもあるが、矢は、辛うじて影の端を掠め、それをかき消すことに成功した。  「…で、出来た」  『ふむ。よくやった。褒めて遣わすぞ』 ほっとして腕を下ろすのと同時に、再び風景と、時の流れが戻って来る。弓は光の粒となり、溶けるようにして消えていく。さっきまでは確かに手で触れることが出来たものが、幻になってしまうのだ。もう何度も体験しているというのに、いまだこの感覚には慣れることが出来ない。  (だけど、俺…今、確かに獲物を射られた) 不思議な気持ちで自分の掌を見下ろしていると、カーエフラーの優しい声が耳元で聞こえた。  『狩りは初めてだったのか? 筋は悪くないのに、何故、今までやってみたことが無かったのだ。』  「なぜ…、ですか。それは…俺が失敗ばかりしていたからだと思います。もまともに狩りに出ることすら出来なかったし、自分からやってみることはなかったので…。」  『家族とも出掛けなかったのか』 トトメスは、小さく頷いた。  「俺は、父上にはあまり好かれていなかったと思います。こういうことに誘われるのは、いつも狩りの上手い弟のウェベンセヌで…。兄上は狩りが嫌いだったし、ネジェムの狩りは…取り巻きばかりで騒々しくて、とても近づけなかった…」  『偉大な父に優秀な兄弟たち、か。』 カーエフラーは、何故か寂しげに笑った。『余にも覚えがあるぞ。そうだ、…ずっと忘れていたが。余は本当なら、王位を継ぐはずではなかったのだ。兄たちがいたのでな』  「えっ? そうなんですか?」  『うむ。運命というものは、時に思いもよらぬ奇妙な綾を織りなすものであるな。』 そう言って、カーエフラーは西の高台のほうにちらりと意識を向けた。――実際に視線をやったのは、トトメスの身体なのだが。  『さ、今日はもう、戻るとしよう。忌憚の日に備えて、精気を蓄えておくのが良かろうからな』 イウヌの大神殿では今ごろは、新年を迎える準備をしている頃だった。一年の始まりはどこの神殿でも大事だが、ことに太陽神をまつる神殿では大いに大事なのだった。何しろ、時の始まりは、太陽の誕生とともに始まったとされているのだから。  (そういえば、イウヌ大神殿からの神託の使者は、いつもこの季節に王宮に来ていた) 川を渡る帰りの舟に揺られながら、ふと、トトメスは思い出していた。川を遡るのに、夏至の日からおよそ一か月――そう考えれば、確かに、今の時期のはずなのだ。  今年の神託の内容は、ひどく物騒なものになっているはずだった。  使者がどのようにそれを王に告げ、王がどのように受け取るのか、トトメスには想像が出来なかった。いきなり「世界が終わりそうです」などと告げられても、信じられる者はいない。あるいは、もっと婉曲に、「太陽神の定めた時の秩序が千年ぶりに壊れつつあります。」くらいの伝え方をしたのだろうか。どう伝えても、にわかには信じがたい内容になるに違いないのだが。  舟底が、とん、と岸に触れ、動きが止まる。  中洲から、川の東岸にあるイウヌの街に戻って来たのだ。トトメスは船頭に礼を言って岸に飛び移った。歩き出そうとした時、彼はふと、桟橋のほうに、いつも見かける貨物船とは違う船が停泊していることに気がついた。見覚えのある、都でよく使われる装飾のついた木造船だ。  「あっ王子様。」道端でひそひそ噂話をしていた街の住人が、トトメスを見つけて声をかけてくる。「ちょうどさっき、都からの使いとかなんとかいう人がやって来てましたよ」  「え? 都から? 何だろう」  「何だかお役人っぽい人でしたよ。それと、男の子…かしら。可愛い子が一緒でした。」  「ん…?」 何か胸騒ぎがする。寄り道はせずに、彼は大急ぎで坂道を上がって太陽神殿へと向かった。  追い付いたのは、ちょうど神殿の入り口のところだ。  確かに二人、見覚えのある後ろ姿が門の前に立ち、広場を囲むようにして建つ礼拝堂や至聖所を眺めている。  「…イアレト?!」 名を呼ぶと、男の子のような格好をした少女がぱっと振り返り、一瞬にして顔をくしゃくしゃにしながら飛びついてくる。  「トトメス…兄さまぁ…!」 それは確かに、ウアセトに置いてきたはずの妹、イアレトだった。  一緒に立っていた若い男、養育係のヘカレシュウが、心底ほっとしたような顔で後ろに立っている。  「お元気そうで何よりです、トトメス様。ここでお会いできて良かった。」  「うん、俺も、まさか二人に会えるとは思わなかったよ…っていうか、何でここに? 来るなんて話し、一言も聞いてないけど」 ヘカレシュウは、困ったような微笑みを浮かべて首を傾げた。  「散々、お止めはしたのですがねえ。どうしても駄目だというなら脱走して家出してやる、椅子に縛り付けられても無駄だ、と、大変な剣幕で脅されたものですから。それなら私がご一緒したほうがまだマシだろう、と、まあ、そういうことです。」  「――ってことは、家出なのか?! 父上や母上は…」  「書置きは置いてきたわ」 涙を拭いながら、少女は責めるような目つきで兄を睨んだ。「どうして、お手紙の返事を出してくれなかったの」  「え、手が…あ!」 言われてトトメスは思い出した。そうだ。確かに、手紙は貰っていた――返事をどう書こうか迷っているうちに、いつの間にか忘れてしまっていたのだ。  「ご、ごめん…どう書けばいいか迷って…。こっちは元気だから心配要らないよって言おうとしたんだけど、その。兄上へのお悔やみの言葉が見つからなくて…。」 しどろもどろに言い訳しながら、トトメスは、しがみついている妹の肩に手をやって、なんとか引き離した。ここは大神殿の真ん前なのだ。騒ぐ場所ではないし、皆が見ている。  「だけど、そんなことで家を飛び出して来たのか? 駄目じゃないか。母上が心配されてるはずだぞ。それに今ごろは、都は新年祭をやってる頃だろう」  「そうよ。だから逃げ出して来たんじゃない。新年祭が終わったら、父さまは後継者を発表するかもしれないって――それはネジェム兄さまなんだって、みんな噂しているのよ」  「ネジェムが?」 驚きはしたが、意外ではなかった。では、やはり兄のカエムワセトは、皇太子になることを拒んだのだ。  「そうしたら、ネジェム兄さまったら、前にも増して威張り散らすようになったの。あたしにも、王妃になりたければ嫁がせてやってもいいぞ、なんて言って。母さまは、…母さまも酷いの。ネジェムなら夫としては申し分ないでしょう、って。それで、それで…」 少女の眼からは、新しい、大粒の涙が零れ落ちた。  「やだよ。あたし、ネジェムのお妃なんて絶対に嫌だ! うわーん」  「あー、…うん、うん…まあ、気持ちは判るよ…。よしよし、その話の続きは家で聞くから、もう泣くな。ヘカレシュウ、手間をかけさせたな。今夜は神殿の宿舎を貸してもらえるよう頼んでみるから」 かつては頼りないと思われていたトトメスの気回しに、少し驚いた顔をしつつも、ヘカレシュウは胸に手を当てて頭を下げた。  「恐れ入ります。」  それからが、ちょっとした騒ぎだった。  客人を連れて家に戻ると、ベセクは目を白黒させ、あっけにとられた顔をしていた。  「なんで、イアレト姫様がここに?」  「まあ、なんていうか…都で色々あったらしい。しばらく泊っていくと思うから、余っている部屋を整えてくれないか」  「そんな、急に言われても…ああ、どうしよう。寝台に使えそうなものが無いか、探してきます。あと寝具を…メンナ! 隣の神官の宿舎に行って、巡礼者用の設備を借りられないか聞いて来てくれ。マイア! 奥の空き部屋を大急ぎで掃除だ。それと夕餉は二人分多めに作ってくれ。食材は足りるか? 足りない? よし、ひとっ走り街まで行ってくる。」 相変わらず、てきぱきしたものだ。  ヘカレシュウはトトメスの仮住まいを見回して、にっこりと微笑んだ。  「思ったよりは良い暮らしぶりのようですね。これなら、都に戻った時に心配されているティアア様に明るい報告が出来ますよ」  「母上は、…その、お元気だろうか。」 出せなかった手紙の返事の後ろめたさから、トトメスはもぞもぞと呟いた。  「ご心配をおかけしていることは、判ってたんだ。母上にも手紙を出そうとは…思っていたんだけど」  「お元気ではありますよ。ただ、近頃はカエムワセト様のほうにかかりきりなのです。」  「兄上の?」  「ええ。カエムワセト様は、お子様を亡くされてからというもの、ずっと塞ぎこんだまま、ろくに飲食もされずに部屋に閉じこもったままなのです。…我々が都を出る頃もずっと、そんな状態が続いていました」 それは、あの、堂々として幸せそうだった兄の姿からは、まったく想像もつかないものだった。まるで、以前のトトメスそのものだ。  「義姉さまは冥界神の神殿をお参りすることにはまってしまって、もうずうっと通いづめよ」と、イアレト。「たくさん寄進もして、それで、兄さまの家は何も無くなってしまったの。お屋敷も荒れ放題だし、昔からいた使用人もみんな辞めてしまったそうよ」  「そんなに? …父上は、何て」  「カエムワセトはもう大人なのだから、口を挟むことは何も無い、って。それに、もし王になろうというのなら、自分や家族のことよりも、国と国民のことを真っ先に考えなくてはならないって。…子供を亡くしたことでそればかり考えているのでは、王の器に相応しくない、って。」  「……。」 厳格な父ならば、確かに言いそうなことだ。優しく寄り添って慰めるような人ではない。それに、もともと父とは折り合いの悪い兄のことだ、変に慰められても反発するだけだろう。  カエムワセトは完全に、皇太子争いから脱落してしまったのだ。  そうなれば、残りの候補の中で皇太子に指名される可能性が高いのは、確かにネジェムだった。王宮内で大きな権力を握る宰相のイメルも、きっと今ごろは、甥を次期国王にと最大限の働きかけをしている頃だろう。  何だか、全てが遠い世界の話しに思えた。  まだ数カ月しか経っていないはずなのに、かつての都で暮らしていた日々は、ずっと昔のことのような気がしてくる。ましてや自分が、その、人の思惑が絡み合う王宮の中で、皇太子候補の一人として暮らしていたなどと。  「ネジェムが国王になったら、お前は王宮では居場所が無くなるんだな」  「…うん」  「なら、好きなだけここにいればいい。どうせ俺も、都へは戻れそうにない」 それだけ言って、トトトメスはくるりと背を向けた。外に出ようとした時、戸口に立っていたヘカレシュウが体をずらしながら、微かな笑顔を向けて囁いた。  「トトメス様」  「ん?」  「出発前よりは一回り、大きくなられたようですね。」 小さく首を振り、彼は真顔で返した。  「…変わっていないよ。俺は、何も」 それから、二人の客人を泊めるのに必要なものを貸して貰うために、隣の神官たちの宿舎へ向かって歩き出した。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加