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第14話 トトメス王子、神殿の陰謀に関わり、冥界獣の力添えを得るの由
あれこれ忙しくしている間に、気が付けば、もう、日には西へ傾こうとしている。
カーエフラーの気配は、何時の間にか消えていた。
(…そうか。もう、そんな時間か)
既に、日は沈もうとしている。
トトメスと意識を共有しているのだから目の前のドタバタは見ていたはずなのだが、日が出ている間はずっと気配を抑えて、口を挟むことはしなかった。家族の問題だからと、敢えてそうしてくれたのだろう。
普段なら、そろそろ床に就く時間だった。けれど今日はまだ、イアレトたちを泊める準備もしなければならない。
家の前ではメンナが、借りて来た寝台の敷き布のほこりを叩いている。
「すいません、あまり上等なものが無くて。これしか…これでいいでしょうか」
「大丈夫だよ。妹は俺と一緒で、あんまり細かいことは気にしない」
「でも…王女様に、失礼なことはできませんから…。」
奥ではマイアが、急遽ベセクの仕入れてきた追加の食材を使って、せっせと夕餉の準備をしている。まだ、少し時間はかかりそうだ。
「イアレトは?」
「船から荷物を取って来るって言ってましたよ」
と、ベセク。「あっ、姫様のお部屋はトトメス様のお隣に準備しておきましたから。」
「うん、助かるよ」
もう少し、邪魔しないよう外を散歩して来た方がよさそうだ。
そう思いながら、月明かりの下を再び歩き出そうとした、その時だった。
「誰か、誰かーっ」
けたたましい悲鳴が、夕暮れ時の薄闇を引き裂いて響き渡る。さっきまで居た神官たちの宿舎に隣接している、炊事場のほうからだ。
あちこちから、神官たちが駆け集まって来る。
一番後ろから駆け付けたトトメスが覗き込むと、台所に、真っ青な顔をして横たわる若い神官の姿が見えた。
メリラーだ。
「何だ、一体どうしたんだ」
「泡を吹いて倒れたんです。食事の味見を…味見をしただけなのに…」
メリラーの側には椀が一つひっくり返り、中からは、まだ湯気の立っている麦粥が零れだしている。
「吐かせるんだ。早く」
「どいて、どいて。ここからは医者の仕事だぞ」
人混みを押しのけて現れた上級の神官たち、医者と薬師を兼ねた技能を持つ年配の識者が、青ざめた少年の背中を叩き、水を押し込んで胃の中身を吐かせている。その間に、別の神官たちが鍋の中身を確かめている。
「食あたりにしては妙だ。ただの粥ではないのか?」
「…む、何だこれは。舌が僅かに痺れるぞ。おい、これを作ったのは一体、誰だ。粥に何を入れたんだ?」
「何って、水と麦と塩だけですよ。いつも通り。」
食事係の下級神官が、顔を真っ赤にして言い返す。
「本当に? 今日はお前だけなのか」
「そうですよ。だけど、何もおかしなことなんてしてませんよ!」
何やら不穏な雰囲気だ。
そこへ、騒ぎを聞きつけたケペルカラーが現れた。
「何事だね、これは」
のんびりとした口調だが、それは、騒いでいた全員を一瞬にして黙らせるだけの威厳を持っていた。この太陽神殿の長が誰なのか、皆、十分に承知しているからだ。
「その、…粥に、何かが入れられたようなのです」
一人の年配の神官が、代表して口を開いた。「味見をした配膳係のメリラーが、倒れました」
「ふむ。毒か? ならば一刻を争おう。まずは速やかに処置を。混入されたものが何なのかすぐに調べなさい。原因が分からなければ薬も処方出来ないのだからな」
「は、はい」
野次馬のように集まっていた神官たちが、一斉に散らばっていく。穏やかながら大勢の人を従わせ動かす力を持つ、この老人は、大神殿の中では王にも匹敵する存在なのだ。
「で、今日の食事係は誰かな? 仕事中に席を外さなかったか?」
ケペルカラーは、固く身を縮こまらせている食事係の下級神官に優しく訊ねる。
「あの…出来上がる直前に、一度、用を足しに行きました。それまで、我慢していたので。で、戻って来ると、ちょうどメリラーがお膳を受け取りに来ていました。いつも最初にケペルカラー様のために膳をよそうのですが、メリラーはケペルカラー様が猫舌なのを知っているので、粥が熱すぎるのではないかと気にして、それで…」
「…それで、確かめるために味見をしてみたのか」
「はい」
食事係は頷いて、一粒、涙を落とした。
「なので、もしかしたらこれは、ケペルカラー様のお口に入っていたかもしれないのです。申し訳ございません…私が席を外したばっかりに…申し訳…」
「何を謝るのだ、我が息子よ。お前は自分のすべき仕事をした。この者もだ。誰も、悪意を持って毒を入れる者が神殿の中にいるなどと思わんじゃろう。さ、涙を拭きなさい。全ては太陽神さまの思し召しだ。メリラーはきっと助かる。落ち着いたら、仕事の間に何か見かけたりしなかったか、思い当たったことを教えておくれ。」
仲間の神官たちが、取り乱した食事係をどこかへ連れていく。青ざめたままのメリラーも、治療のために運ばれていった。
後には粥を調べている数人と、トトメスだけが残っていた。
「…おや」
ケペルカラーは、その時になってようやく、トトメスが見ていたことに気づいたようだった。トトメスが軽く頭を下げると、老人は、ばつの悪そうな顔で、くしゃりと、いつもの皺だらけの笑みを見せた。
「これは、とんだところをお見せしてしもうたな」
「いえ、…」
気の利いたことは何も言えない。まさか、神官たちに振る舞われる夕餉の粥に毒が盛られるなど。ここは大神殿の中でも奥まった一画にあり、そう簡単には外から人が入って来られるような場所ではないというのに。
(…ん?)
そこまで考えてから、トトメスははっとした。
つまり、これは外部の犯行ではないかもしれない、ということだ。
(まさか…ここの。)
この神殿にいる神官たちの誰かが、ケペルカラーや他の神官たちを亡き者にしようとした、とでも?
「がうぅ」
びくっ、として彼は足元を見下ろした。いつの間にか現れたのか、普段は家の中でしか見たことのない冥界の獣が、何やらきらきらと輝く瞳でこちらを見あげている。
「わっ、お前。何でこんなところに…人前に出て来ちゃ駄目だって言っただろうが」
「ぐるるっ」
「ほほう。何かがそこにおるのかな?」
ケペルカラーは、面白そうな顔でこちらを見ている。
「あの、…前に話したアメミットですよ。まったく、足元にすり寄って来るなんて犬みたいなやつだ。見えないんですか?」
「個人につく守護者というものは、本人にしか見えないことが多い。しかし、気配は感ずるぞ。…お主に何か、言いたいことがあって出て来たのではないかな?」
「何か、って…。」
トトメスは、足元のワニの顔をした獣に目をやった。ケペルカラーの言うとおり、確かに、何か言いたげに、短い尾を振りながらそわそわと行きつ戻りつしている。
「もしかして…ついてこい、ってことなのか?」
「がふぅ!」
アメミットは、嬉しそうに飛び跳ねると、一直線に闇の中に向かって走り出す。トトメスは慌ててケペルカラーに軽く頭を下げると、後を追った。
獅子の上半身にカバの下半身。どう考えても走りづらいはずなのに、冥界の獣は身体のちぐはぐさなどおかまいなしで、信じられないくらいの速度で駆けてゆく。低い壁のような障害物も、屈んでものを拾おうとしている人間の上さえも飛び越えて、一直線にどこかへ向かっている。
トトメスのほうは、そうもいかない。
時に壁にけつまずき、人にはぶつかりそうになりながら、見失わないように追いかけるのに必死だ。
「すいません。あっ…すいません…」
謝りながら窓をよじ登り、部屋の中を突っ走り、反対側の廊下へと消えていくトトメスを、神官たちはぽかんとした顔で見送っている。
やがて獣の足がようやく止まった。そこは、大神殿の端にある、一度も来たことのないゴミ捨て場の穴の前だった。
不要なものはここに埋めるか、燃やして処分しているらしい。辺りには、微かに焦げ臭い匂いが立ち込めている。
「どこなんだ、ここ…」
「がふっ」
「何――っうわぁ!」
穴の中を覗き込もうと身を乗り出した途端、足元の灰が崩れて、トトメスは腰から穴の中に転がり落ちた。いつものことだ。全く、不運にもほどがある。
「あいったたた…。」
腰をさすりながら立ち上がろうとした時、ふと、手元に何かがきらりと光るのが見えた。
「ん?」
つやのある釉薬をかけた、ずいぶん高価そうな壷の欠片だ。よく見ると、下の方に何かにぶつけて出来た穴を布で塞いだような跡がある。穴が開いて使えなくなったから捨てたのだとすれば、ここにあっても不思議は無い。けれどなぜか、トトメスは、それに違和感を覚えた。
匂い、だ。
微かに残る、つんと鼻につくような異臭。それは今朝、中洲に渡ろうとしていた時にぶつかった男が落とした荷物の中から漏れていた液体の匂いと同じだった。香油や咳止め薬とも、香辛料入りの酒とも違う、今まで嗅いだこともないもの。アメミットがここまで導いて来たからには、偶然とは思えない。
トトメスは、大急ぎでその欠片を上着の端にくるみ、元来た道を駆け戻った。
炊事場には、まだ現場の調査のために数人の神官が居て、ランプを手に食器などを調べている。
「誰か、これを見てくれないか。ゴミ捨て場で見つけたんだが」
「ん? 何ですかな、これは――」
トトメスが差し出した匂いを嗅いで、一人がはっとした顔になる。
「これは、…粥の器に残っていた匂いと同じだ」
「殿下、どうしてこれを」
「あ、いや…その」まさか冥界の獣に教えてもらったとは言うわけにもいかず、トトメスは、とっさに別のことを言った。「今朝、川辺で見かけた妙な男が、これを抱えていたのを思い出したんだ。似たものが落ちていたものだから、それで」
「妙な男?」
「顔までは見ていない。西のほうから渡って来たみたいだったから、乗せた舟を探せば何か判るかもしれない」
嘘は言っていない。壷までは見ていないが、同じ匂いのする液体を零すところは見ていたのだ。…そう、トトメスがぶつかったせいで、あの時、荷物を落として中身の壷が割れたのだ。
中身が毒薬だったのなら、そのお陰で中身が減っていたことになる。
(…俺の不運のお陰で?)
まさか、そんな。
自分の行動の結果に気づいて困惑しているトトメスをよそに、神官たちは壷の中身を調べるのに集中している。
「ふうむ、これは多分、貴金属を加工する時に使っている溶剤だな…」
壷に残っていた液体を舌の先で確かめながら、一人の神官が言う。
「メンネフェルの工房でよく使われているものだ。よし、これなら解毒剤はあるぞ。たまに事故で口に入れて中毒を起こす職人がいるからな。おい、すぐに知らせて来い。解毒剤を準備するようにと」
「分りました!」
別の一人が勢いよく、メリラーの運ばれていった医務室のほうに向かって飛び出して行く。残りの仲間たちは、トトメスに向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、トトメス殿下。これで、あの見習い神官は助かるでしょう」
「――いえ、――俺は、特に何も」
ふと足元を見やると、アメミットは相変わらずそこにいて、得意げな顔をして尾をぱたぱたと振っている。
(ああ、…そうか)
冥界の裁きの獣であるアメミットが、笑いながらそこにいる。
つまり、メリラーは、助かるのだ。彼はまだ、冥界の門をくぐるべき時ではない。
肩の力が抜けたようになって、トトメスは家に戻った。
外の騒ぎは既にベセクたちに知られていて、なかなか戻ってないトトメスを心配して待っていた。
「トトメス様、一体、何があったんです? 神官たちが走り回っていましたが」
「うん、ちょっとね。神殿の問題みたいだから、俺たちはあまり首を突っ込まないほうが良いだろう」
イアレトのほうをそれとなく伺いながら、彼は言った。初日から神官の毒殺未遂事件などと、あまり聞かせたくない内容だ。とはいえ、神殿の中に滞在する以上は、噂はすぐに耳に入るだろうが。
外の騒ぎとは裏腹に、食卓には、マイアが腕に寄りをかけて作ってくれた、心づくしのごちそうが並んでいる。
「ほう、これは。王宮の料理にも劣らぬ品揃えですなぁ」
ヘカレシュウが感心している。
「遠慮せずに食べてくれ。長旅の道中は、料理も味気なかっただろう?」
「いただきまあす!」
到着したばかりの時は泣きべそをかいていたイアレトも、今は上機嫌に料理を頬張っている。
それを見て、トトメスは少しほっとした。
と同時に、不安になってくる。トトメスの居なくなったあとの王宮は、イアレトが我慢出来ないほど居心地の悪いところになってしまったのだろうか。母が兄にかまけているから? ネジェムが幅を利かせすぎるようになったから? それとも、…
それに、気になるのはネフェルトイリのことだ。
誰とでもそつなく接することの出来る彼女だったが、王宮で一番仲が良かったのはイアレトだった。そのイアレトが今、ここにいるということは、…ネフェルトイリは今ごろ、親しく話せる友人も近くにいないまま、たった一人で残されていることになるかもしれない。
(だけど俺はもう、彼女の婚約者じゃない…)
トトメスがイウヌへ去り、ネジェムが皇太子になるのなら、婚約を続けていく理由はない。宰相だって、無理に妹を王子の誰かに嫁がせなくても、甥が国王になるのなら、そちらのほうがずっと特に違いない。
やり手の宰相のことだから、もうとっくに別の有望な相手を当てがって、婚約は解消されているはずだ。
(今さら、何を言えばいい? これからも友人として仲良くやっていきましょう、とか…そんなしらじらしい手紙、俺には書けない)
イアレトに、ネフェルトイリのことを聞く勇気さえ出てこなかった。聞けば、未練がましいと呆れられるだけだと思ったのだ。
そういえば彼女には、結局、自分の寿命のことも言えなかった。
生まれた時から憑いている冥界の獣が本当だったのだから、長生き出来ないという神託もきっと真実なのだろう。今までの不運が本当は不運ではなかったのだとしても、三十歳まで生きられないだろうという天の定めまでは変わらない。本当は、そのことを理由に自分から婚約を解消するつもりだったのだ。
思えば、言いたくて言えないことは沢山あった。
父にも、母にも、兄にも、弟たちにも。…妹や養育係、それに従者のベセクにも。
心残りが無いといえば、嘘になる。故郷には、ウアセトの王宮には、残してきた後悔が山のようにある。
けれど――今は帰れない。
いつか再びあの地を踏むことがあるのだとしても、今は、まだ。
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