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第15話 トトメス王子、新年祭に街を見回り、容疑者に寛大さを示すの由
そんなわけで、本来なら輝かしい祝いの場になるはずだった新年祭は、いつもとは違った物々しい雰囲気の中で始まった。
一年の終わりの五日間が始まろうとしている。
イウヌの太陽神殿には色とりどりの布で飾り付けがされ、礼拝所の門は参拝者のために大きく開かれてはいたものの、辺りには部外者に目を光らせる神官たちが歩き回り、少しでも参道を逸れておかしなところへ入り込もうとする者は、片っ端から呼び止められた。
何が起きたか誰も言わなくても、悪いことはすぐに知られるものだ。もうとっくに噂は、間違いではないが少々盛った話で街に流れ出している。
「誰かが大神官さまに毒を盛り、亡き者にしようとしたらしい」と。
そして誰からともなく、怪しいのは都から送られてきた、余所者の神官だとそれとなく口にし始めた。そのせいか、今日はアメンエムオペトと取り巻きの神官たちの姿がどこにも見当たらない。こんな時は、やり玉に挙げられぬよう隠れているほうが賢い。
疑いの眼は、一度向けられたらそう簡単には逸れず、悪評は、一度生まれたらなかなか消えないものだ。トトメス自身、十分すぎるほど知っている。
そんな、ぴりぴりとした緊張に包まれた大神殿を抜け出して、トトメスは、イアレトとともに街に出ていた。息抜きのつもりもあったが、何よりイアレトが、街を見て回りたいとせがんだのだ。
買い物に行というベセクを連れて、彼らは、お祭り仕様で客を迎えようとしている街の商店街を歩いていたた。
「ふーん、ウアセトとはずいぶん雰囲気が違うのね。古い街って感じで面白ーい」
少女は興味のままに、あちこち活発に走り回っている。王宮にいた頃とちっとも変っていない。これでは母も苦労していただろうな、とトトメスは苦笑した。結局、イアレトには、王宮で求められる、しとやかさやお上品な振る舞いは向いていないのだ。
『そなたの妹は、実に快活であるな』
頭の中から、カーエフラーが微笑ましげに呟いている。
「だけど、面倒だからって髪も伸ばさないし、かと言ってかつらも被らないんですよ。変じゃありませんか」
『ふむ? 余の時代には、あのくらいの髪型が多かったぞ。かつらにするにしても、肩先までであった。』
「えっ、そうなんですか。…うーん、やっぱり妙なところが違いますね。千年前だと」
『しかし髪はともかく、着るもののほうはどうもいただけんな。若い娘ならばもっと肌を出してもよいものだ。特に乳房は隠すものではないぞ』
「…いや、それは隠したほうがいいと思いますが」
『なにゆえだ。美しいものは美しいままに見せたほうが良いのではないか?』
「ま、まあ…それも、一つの解釈では…うーん…。」
トトメスが立ち止まって返答に苦心している間、ベセクたちは、隣で客人が増えたぶんの食材を買い込むのに大忙しだ。イアレトは、得意の計算で品物の計算を手伝っている。そしてベセクが値引きの交渉。トトメスにはすることがなく、後ろで見守っているだけだ。
と、その時、すぐ近くで大きな声が上がった。
「おい。俺の取り分が少なすぎやしないかい?」
「えっ。何を言ってるんだい、計算は合っているよ。」
何やら、向かい合った商人同士が言い争っている。
「運んだ荷物の一割に、残りの一割を足して支払う約束だったろう。今回は小麦が十二袋なんだから、支払いは二袋とひと掴みだろうが」
「何を言ってる。俺の計算じゃあ、二袋と半だ。」
「そんなばかな」
見物人が遠巻きにして眺めている。どちらが正しいのか分からずに、止めようにも止められないからだ。言い争いはだんだん激しくなっていく。このままでは、掴み合いの大げんかになりそうだった。
そこへ、割って入ったのは意外な人物だった。
イアレトだ。何やら手に書いて計算すると、ちょこちょこと駆けだして、男たちの間にするりと入り込んだ。
「おじさんたち、待って。どっちも間違えてるよ。十二袋の一割に、残りの九割のうちの一割を足すんだから、正解は二袋と四分の一にひと掴みだよ。」
「え?」
「何だと?」
「計算式は、こうよ。これを、こうして…こう」
少女は、落ちていた棒を使って地面にさらさらと見事な計算式を書いていく。顎に手をやって覗き込んでいた男たちは、それを見て、ようやくお互いの間違いに気がついたようだった。
「成程…確かに、そうだ。おれが間違えていたんだな」
「いやすまん。こちらこそ、多すぎる量を要求していたようだ」
商人たちが笑顔になり、恥ずかしそうに仲直りの握手をするのを、イアレトはにこにこ見守っている。
『大したものだ。あの年で、ああも素早く計算をやってのけるとは。』
「頭がいいんですよ、あいつ。」言いながら、トトメスは少し疑問に思った。「…陛下は、反対しないんですか。女の子なのに算数が好きだなんて」
『何故だ? 余の娘たちの中にも、読み書きや計算の好きな者はいた。書記の神の妹にして数学の守護者であるセシャトも、女神であろう? 余の時代にはな、むしろ女のほうがああしたことは得意であった。何か建物を作る時、大地に最初の測量線を引くのは決まって王族の女だったのだぞ』
「へええ…。なんか、意外です。」
「兄さま、見て! お礼に干し杏、ひと縄くれたよー」
自分の事を評されているとはつゆ知らず、イアレトは、無邪気に果物を連ねた縄を抱えて駆け戻って来る。
「良かったな。さて、次は何を見に行く?」
「うーん…あっ」少女は、縄から外した干し杏をひとつ口に入れながら川の対岸を指さした。「あの、尖ってるとこ!」
指先には、もちろん、西の高台の「聖なる墓所」がある。
「あと、あっちの岸にメンネフェルの街もあるんでしょ。冥界神さまの大神殿が建ってるんだよね。この国でいちばん古い神殿だって聞いたの。見てみたい!」
「……。」
トトメスは、思わず無言になった。「いや、うん…。いいけど…。」
「えっ? なあに?」
「行くんなら、ベセクを連れてきたほうがいいな。俺は中に入れないから」
「あっ、そうか。――ちょっと待っててね! さっき、そのへんで買い物してるの見かけたから…」
少女が駆けて行く。
『入れない、とは?』
カーエフラーは不思議そうだ。
『前から気になっておったが、そなた、太陽神殿以外の神殿を避けておるのではないか? 何故なのだ』
「はあ、えっと。お恥ずかしい話なんですけど、俺、他の神殿から出禁食らってるんです」
『出禁、とな』
「実は、今までに都のあちこちの神殿で大失敗をやらかして…、うちにはもう来るなって。王宮を出される時、受け入れ先の神殿はここだけだったんです。」
トトメスは、他の神殿に断られた経緯をかいつまんで話した。転んで神像を突き倒しかけたり、書庫でぼや騒ぎを起こしたりといった不運の数々。自分の生まれ名にある書記の神の神殿からさえ断られたという話。
「冥界神の神殿からは、葬祭殿で思いっきり転んだせいで不吉だと思われているんです。都の神殿はここの分所だし、きっと素性がバレたら嫌な顔されますよ」
『ふうむ。…』カーエフラーは、あまり納得していない様子だ。『今の世の神官というのは、奇妙な考え方をするものだ。神々の加護のある者と無い者くらい判るだろう。加護を受けている者が他と違う振舞いをするのなら、そこには意味があるはずだと、何故気づかない?』
「え、えーと…。うーん? イウヌの大神官さまも、同じようなことを仰ってましたけどね」
ケペルカラーは、トトメスが呪われて不運なわけではないのだと瞬時に見破った。都の神官たちにそれが出来なかったのは、彼らが本分を忘れてしまったせいなのだと。
だが、まさかそんなことは、自分の口からは言えない。都の神官たちのほうが軒並み間違っているのだ、などとはとても。
「もし断られなくても、俺は神殿の中には入らないほうがいい気がします。アメミットが…、あいつが走り回って大変なことになりそうだから。…っていうか、陛下はいいんですか? 蘇った死者が冥界の神の神殿に行くだなんて。勝手に地上に出て来るなと怒られたりしないんですか」
『なに。そこは案ずることはない。余は冥界の王オシリスに話をつけて来ておるのだからな…』
話しているところへ、イアレトたちが戻って来た。ベセクも一緒だ。
「ベセク、すまないな。買い物のほうは大丈夫なのか」
「ええ、まあ、そっちは何とか。メンネフェルに渡るんですって?」
新年のお祭りで、渡し船も対岸の街からこちらへ渡って来るほうが数が多い。そして、桟橋のあたりには、神官たちが何人か、真剣な顔で聞き込みをしているのが見えた。見覚えのある小舟の持ち主が、神官たちに囲まれて事情を聴かれている。
(俺が言った怪しい男を探しているんだ…。)
優秀な神官たちは、どうやら既にあの男を渡した船頭を見つけ出したようだった。この分なら、足取りを掴むのもそう難しくないだろう。神官たちの姿を横目に見ながら、トトメスは、西の対岸へと渡る舟に乗り込んだ。
もう何カ月もイウヌの街に滞在しているのに、メンネフェルの街にまともに足を踏み入れるのは、実は初めてのことだった。
街の真ん中には、白い石を組み合わせて作られた、がっしりとした冥界神の神殿が聳え立っている。冥界の神の住まいというだけあって色彩は控えめで、入り口は狭く、中は冥界の如く闇に包まれている。職人の神でもあるため、参拝者には近隣に暮らす工房で働く職人が多い。太陽神殿ほどではないといえ、こちらにも新年の飾りがつけられている。
トトメスは、入り口の階段の手前で足を止めた。
「それじゃ、俺はここで。外を見て回ってるから、後でこの辺りで合流しよう」
「うん、兄さま迷子にならないでね!」
イアレトは手を振って、ベセクに付き添われて神殿の中に消えていく。ひとつ、小さくため息をついて、トトメスは周囲を見回した。
こちらの街の方が買い物にはいい、と、以前ベセクは言って居た。
確かにその通りで、職人が多いせいか、織物も、編み籠も、こちらの街の通りで売りに出されているもののほうが質が高い。 それに、イウヌの街では見かけなかった異国人の姿もある。格好からしてクレタの住人かもしれない。茶色っぽい、波打つ髪をして、鮮やかな色の布を腰に巻いている。王宮で見かけるようなミタンニ人もいる。港のほうに大きな船が泊まっていたから、そこから降りてきたのかもしれない。
『時を経ても、この街の雰囲気は変わらぬものだな』
しみじみとした声が、頭の中から響いてくる。
『白き城壁、死せる偉大なる王の姿を象った冥界の神プタハ。作られておるものこそ違えど、相も変わらず職人たちが集う…』
カーエフラーが満足してくれているならそれでいい、と、トトメスは思った。神殿の中には入れなくても、来た甲斐はあるというものだ。
中心となる大きな神殿と周囲に立つ小さな神殿の間の参道には、沢山の露店が並んでいる。
それらを見ながら、ゆっくりと歩いていた彼は、ふと、小神殿の影に隠れるようにして何やら深刻な顔をして話し合っているイウヌの神官たちの姿に気が付いた。
この街の神官でないことは、格好を見ればすぐわかる。冥界神に仕える神官と、太陽神に仕える神官とでは、首に提げている護符や肩に掛けた袈裟が全然違うのだ。
「…では、やはりあの毒薬はこの街の工房から出たものだと?」
「そのようだ。昨日、上流の街の工房からの使いだという者が買い取りに来たと。売った側も怪しんではいたようで、特徴をよく覚えていた」
「役人には伝えたのか」
「もちろんだ。探し出して捕えるのは、我々の仕事ではないのだから…」
盗み聞きをするつもりはなかったのに、声が勝手に流れて来る。神官たちは、既に、使われた毒の出所を特定したようだった。治安を維持している役人に訴えて、怪しい者を探してくれるよう頼むつもりなのだろう。
(でも、今はお祭りの季節だ。遠くからやって来る参拝者も多いし、旅人も…。)
きっと、犯人は捕まらないだろう。
けれど現世では逃げおおせても、死者の法廷からは逃げられない。神官たちの食事に毒を盛った者がいたことは、既に裁きの獣の知るところなのだ。誰もがいずれは死を迎える。罪人の魂は、アメミットの腹の中で永劫の闇に消え去るのだ。
そっとその場を立ち去ろうとした時、ふと、視界の端に黒い靄のようなものが写った。
(! あれは…)
刻の狭間から染み出して来るという混沌だ。神官たちの足元に、どす黒くわだかまって見える。
けれど慌てているトトメスとは裏腹に、カーエフラーの意識は反応しない。資格を共有しているから気づいているはずなのに、敢えてそちらに目もくれようとしないのだ。
『おお、あの食べ物は何だ? 何やら美味そうではないか。そなた、一つ食してみてはくれぬか』
「あの、陛下…あれは…」
『大したものでない。』カーエフラーはそっけない。『ここは大神が一柱の神殿の守護する地ぞ。余らが勝手に手出しするほうが失礼に当たる。当地の者の対処に任せるがよかろう』
確かに、ここは大神殿のすぐ側だ。お祓いや清めの得意な神官たちも大勢いる。
混沌のほうから目を逸らし、トトメスは、カーエフラーが気にしている食べ物のほうに向きなおった。
側の露店では、たっぷりとした水分を含む大きな果物が輪切りにされ、真っ赤な果肉を見せている。
「気にしていたのは、あれのことですか? ただのスイカですよ」
『何? あんなに赤いものがが? 余の頃にはもっと黄色かったぞ。皮の模様も違うではないか』
「そう…なんですか…?」
ただのスイカなのに、そんなに違うのだろうか。
露店の周りでは、喉の乾いた参拝者たちが切れ端にかぶりついて果肉を啜っている。トトメスも、一切れ買って口に含んだ。赤い果肉に含まれる水分が、種と一緒にじんわり口の中に広がっていく。
『甘い! これは実に美味であるぞ。余の時代には、水のような味しかせぬ代物だったというのに』
(喜んでくれてるみたいだな。だけど、味覚まで共有されてるっていうのは、何だか変な気分だ…)
「あーっ、兄さまずるい! スイカ食べてる」
ちょうど、大神殿のほうからイアレトたちが出て来るところだ。目ざとく兄を見つけた少女が、駆け寄って来る。
「あたしも食べる、あたしもー」
「はい、はい。お姫様、街の子供みたいにせっつかないで下さい。はしたないですよ」
苦笑しながら、ベセクはイアレトにも一切れ買って渡す。
人の波は途切れる様子もなく、街の通りは大賑わいだ。
今年も川の水位の上昇が少しずつ始まり、神官たちの予想では、おそらく平年並みになるはずだという。何事も変わりなく、平和そのものだ。…太陽神殿から王宮へと送られた、あの不吉な神託以外は。
「そういやあ、王さまが後継者を指名するって話、ありゃあどうなったんだい」
近くでスイカの皮を手に立ち話をしている旅人の話し声が、聞こえて来る。
「さあなぁ。新年祭ではやらないんじゃないかね? ただの噂だろう。宰相だか何だか、有力な貴族が、自分とこの一族から王を出したくて推しまくってるらしいからな」
「面倒だねえ、都の権力争いってのは。だけど怠惰な王さまは御免だよ。ここんところ東の異国連中は静かなもんだが、いつまた攻め込んで来るか分からんのだから」
聞く気も無いのに、噂は勝手に人のふところに入り込んで来る。
黙ってスイカの残りを食べてしまうと、トトメスは、店の軒先のくず入れに皮を放り込んで手を拭った。
「俺は少し、川のほうを見て来るよ」
そう言って、人混みから離れるように歩き出す。
傲慢で貴族気質のネジェムには、戦場で軍の先頭に立つようなことは無理だ。
かと言って、軍人向きのウェベンセヌはまだ初陣もままならないほど幼過ぎるし、内政には向いていない。
他の数多くの息子たちの中から新たな候補を選び出すにしても、庶民出身の母親を持つ者では高官たちの反対に遭うだろうし、既に遠方で職に就いている者たちは指名を辞退するだろう。
(父上も、悩んでおられるのだろうな…。)
側にいて力になれない自分が、不甲斐なかった。せめて自分が、もう少しましな後継者候補だったら良かったのに。
一日中イアレトの観光に付き合わされて、ようやくイウヌまで戻って来たのは、日が西に傾く頃だった。
長い影が坂道に延びている。少女は大満足の様子で、昨日はあんなにべそをかいていたくせに、今日は満面の笑みを浮かべて、大好きな兄に腕を絡めて弾む足取りで歩いていた。
「面白かったねえ、昔の王様のお墓! あと、獅子みたいな像が面白かった。」
「ホル・エム・アケトのことか。あれ一応、偉い守護者なんだからな。ただの面白い像じゃないんだぞ」
「そうですよ。下手に近付くと眩暈を起こして倒れるんですから。馬鹿にしていると祟りがあります」
ベセクが大真面目な顔で言う。カーエフラーの降臨のせいで、二度も巨像の前で気絶させられたのだから、ただの脅しではなく、実体験から来る忠告だ。
「そういえば、今日はあそこお供えしてあったね。ね、次に行く時は、あたしたちも何か持って行かない? ご利益とかある?」
「お供えは、いいと思うけど…ご利益かあ。どうだろうな…」
あの像は、高台の墓所を護るためにある。何か願い事をして祈って、果たして応えてくれるものなのかどうか、トトメスにはあまり自信が無い。
イアレトと腕を組んだまま神殿の入り口を潜ったトトメスは、思いもよらない光景を目にして思わず足をとめた。
「…ふざけるな! あんたが怪しいことは、皆判ってるんだ!」
「なんたる侮辱、このような大衆の面前で証拠も無しに!」
何やら言い争っているような声が飛んでくる。
礼拝所前の広場の真ん中で、顔を真っ赤にしたアメンエムオペトが、腕組みをした神官たちに前後を挟まれ、それ以外の大勢の神官たちに取り囲まれている。住民や参拝者たちは心配そうに、遠巻きにして様子を見守っている。
詰問しているのは、上級神官の印をつけた年配の神官数人だ。昨日、メリラーを治療していた医療係もいる。後ろにはメンネフェルで見かけた神官たちも一緒だ。
「証拠ならあるとも。毒を持ち込んだのは、メンネフェルからこちらへ川を渡って来た旅人風の男だ。そいつが口に入れると命に係わる溶剤を壷に入れて持って来たのも判っている。参拝を装ってやってきたそいつと話していたのは、あんたの腰ぎんちゃくの神官だ! 見ていた者がいるんだぞ」
アメンエムオペトの後ろにいつもくっついている神官は、青ざめた顔でぶるぶると震えている。だが、アメンエムオペトのほうは引き下がらない。
「神殿の中で迷っている参拝者がいれば、声をかけるのは当然のこと。お前たちも同じことをするのではないか? それだけで証拠だなどと、よくも言えたものだな。えっ? 毒を入れた者など、誰も見ていないのだろうが!」
言い争いは激しさを増し、今にもつかみ合いにならんばかりだ。その時、神官たちの足元に、また、あの黒っぽい靄が渦巻くのが見えた。メンネフェルで見た時より、色が濃い。
『ふむ…。あれらは、人に取り憑けば疑心暗鬼をもたらし、病や不和の種となる。どうやら…あの者たちは、既に深く入り込まれてしまったようであるな』
カーエフラーの声は既に消えかかり、途切れ途切れになっている。日が暮れようとしているせいだ。トトメスは、慌てて消えゆく王の意識に尋ねた。
「そんな、どうすればいいんですか?」
『それはな、難しいことではない』声が消えて行く。『考えよ、トトメス…』
「ああ…。」
西の地平線から投げかけられる最後の光が、太陽柱の表面を撫でてゆく。大神官のケペルカラーは、ここにはいない。もしかしたら階段の上の小神殿にいるのかもしれない。だとしたら、騒ぎの報せを聞いて降りて来るまで時間がかかる。
参拝者たちは固唾をのんで、心配そうに見守っている。
中には、噂を知っていて、最初からアメンエムオペトが悪者だと決めつけて、いい気味だと笑っている者もいる。いくらアメンエムオペトが王の命令で都から使わされた高位神官だったとしても、ここでは新参で、元からいる神官たちのほうが数は多いのだ。
このままでは、彼が袋叩きに遭ってしまう。
新年祭の始まる、この目出度い時に、神聖なはずの太陽神殿の中庭で。
(――それは、駄目だ。)
夜の闇が訪れるとともに、黒い靄が踊る。混沌が力を得て、形になろうとしているのだ。止めるなら今しかない。
(力を貸してください、カーエフラー王!)
トトメスは、イアレトの腕を振り払って飛び出した。
「待て、そこまでだ! ここは神聖な神の家だぞ。争いごとは許されない」
声は上ずって、内心では汗がにじみ出すようだ。けれどそれでも、彼は、なんとか体裁を保ちながら両者の間に手を翳して割って入った。
「神官どの、俗世の争いごとは役人に任せるのが筋というもの。罪人を裁くのはあなた方の役目ではないのでは?」
「しかし、これは我らの神殿の内で起きたことですぞ!」
「知っている。無実の神官が生死をさ迷う目に遭ったことも分かっている。だが、相手もまた神の召使である。私怨のために、王によって遣わされた神官を断罪する権利が、あなた方にあるというのか」
トトメスは、威厳ある古代王の言動を思い出しながら、僅かにでも似せようと必死で努力していた。上手くいっているのかは分からないが、反論していた神官は口を閉ざした。
その隙を突いて、トトメスは、今度はアムンエムオペトのほうに向きなおる。
「アメンエムオペト殿、かけられている疑いに対して、申し開きはありますか」
「無い」
男は、表情を微動だにさせぬまま、きっぱりと言い放った。「全てが荒唐無稽な話だ。思い当たる節など何もない! 必要とあらば、いかなる法廷へでも出廷し、我が身の潔白を訴えてくれよう」
すっ、と足元に冷たいものが過った。
無意識のうちにトトメスは、その言葉を口にしていた。
「――それが冥界の王、オシリスの法廷であっても、ですか?」
「何?」
相手が目を剥くのを見て、彼は、慌てて言い直す。
「その、今すぐ死ねという話しでは無く…、…人は、いつか必ず死を迎える。その時、神々の法廷で、申し開きの出来る自信がおありなら、何も言う事はありませんよ。」
それだけ言った時、ちょうど、人混みをかき分けるようにして、小柄な老人がこちらに向かっているのが見えた。
ケペルカラーだ。左右に若い神官たちを従えて、焦らずに出せる最大限の速度でやって来る。広場に到着するなり老人は、集まっている神官たちを見回してよく通る声を張り上げた。
「お前たち、何をしておるのだ。今日は何の日だと思っておる? こんなところに集まっておらんで、さっさと持ち場に戻らんか。」
蜘蛛の子を散らすように、神官たちが去ってゆく。と同時に、足元にわだかまっていた靄のようなものも四散してゆくのが見えた。囚われていた暗い感情が解消され、靄が依り代を無くしたのだ。
アメンエムオペトは形だけの一礼をして、硬直したままの取り巻きたちを引き連れてどこかへ去ってゆく。集まっていた参拝者や近隣の住人たちも、一人、また一人と散らばってゆく。
ほっとして、トトメスは人々の輪から逃げ出した。平静さを保ってはいても、手には汗が滲み、喉はからからになっている。
見守っていたイアレトとベセクが駆け寄って来る。
「兄さま、びっくりした! あんな風に仲裁なんて出来たんだね」
「どうしたんです、トトメス様。まるで別人みたいでしたよ」
「う、うん…まあ。ちょっと、ある人の真似をしてみたんだけど、何とかなって良かったよ」
空には宵の星が浮かび、カーエフラーの気配は、既に消えている。これは確かに、彼一人でやり遂げたことだ。
「トトメス殿」
振り返ると、ケペルカラーがやって来るところだった。
「お恥ずかしいところをお見せした。我が神殿の威厳を保てぬようになるところじゃったわい。いやはや、申し訳ない」
「いえ、…」
トトメスは、老神官の視線が、消えてゆこうとしている黒い靄のほうを見ていることに気が付いた。トトメスの表情に気づいた老人は、黙って小さく頷き、言葉を続ける。
「左様、悪しきものを呼び込むのはいつだって人の心の弱さじゃ。迷いや憂いあらば隙間は大きくなるが、深く取り込まれておらぬうちならば容易に立ち戻ることも出来る。…それと、メリラーは命拾いしましたぞ。快方に向かっておる。」
「! 本当ですか、良かった…」
「人はみな、不完全なものじゃ。良き報せと新しき年の喜びが、人々の心を照らす光明となることを祈っておるよ」
そう言って、老神官は供の神官たちとともに、夜の祈祷が行われる礼拝所のほうに向かってゆっくりと立ち去って行った。
広場のあちこちに、かがり火が焚かれようとしている。
神殿の門が閉ざされ、一般の参拝者たちは全て外に出された。新年を迎えるための準備は、滞りなく進んでいる。
けれど不安は、日増しに大きくなっていく。あの黒い靄、世界の秩序の綻びから滲みだしてくる混沌は、大神殿の中までも入り込んでくるようになった。相手が形のある怪物か何かだったなら、倒すことは難しくない。けれどそれは、人に取り憑き、恐れや疑いを増幅するものなのだ。そして、生きている限り、誰しも心に多少の闇は抱えているはずなのだ。
完全に滅ぼすことも、防ぐこともできないものが、じわじわとこの国に染み出しつつある。この街だけではなく上流の、おそらくは、王のおわす都でも。
ケペルカラーの受けた神託の言葉が正しく王宮に伝えられ、王にとって必要な助言となり得ただろうか。
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