第1話 トトメス王子、大失敗の果てに王宮を出ることを命じられるの由

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第1話 トトメス王子、大失敗の果てに王宮を出ることを命じられるの由

 ガンガラ、ガッシャーン…!  派手な音を立てて、金属で出来た細長い香炉が暗がりの奥へと転がり込んでいく。  厳粛な雰囲気の中で進行していた儀式は、一瞬にして凍り付いたような雰囲気になった。花輪を掲げていた少女たちは驚いて顔を上げ、真っ白な衣を纏った禿頭(とくとう)の神官たちは目を剥いて振り返る。豹の毛皮を纏った儀式の施主はというと、神像の間の真ん中に見事に、ひっくり返って天井を仰いでいる。  まさか、こんなところで転ぶとは――こんな、ほとんど段差もないような通路の真ん中で、よりにもよって自分が主役を仰せつかった、大事な先祖供養の葬祭の儀式の真っ最中に。  行列の先頭にいた父王は額に手をやって溜息をつき、すぐ後ろに並んでいた母妃は小さく頭を振った。夫婦の後ろについて歩いていた他の王子たちは、苦笑し、思わせぶりな視線を向け合い、肩を竦める。  トトメスは呆然としたままで、よろよろと起き上がった。  豹の毛皮は肩から大きくずり落ちて、首飾りは背中のほうまで回り込んでしまっている。誰も手を貸してくれないどころか、くすくすと、小さな笑い声が漏れ聞こえてくる。  "ほらね。やっぱり、あの王子に大役なんて務まるわけがないじゃないか" そう言っている声が聴こえて来るようだ。  "あの子は不運に憑かれているんだ。大事な時には決まって何かやらかすんだよ" 顔を真っ赤にしながら、彼は、落とした香炉を探して足元を見回した。けれど、さっき手から吹っ飛んでしまったそれは、どこまで転がっていってしまったやら、すぐには見つからない。あたふたしているばかりの彼を見て、王はしびれを切らしたように低い声で、側にいた別の息子に声をかけた。  「カエムワセト。続きはお前がやりなさい」  「かしこまりました」 年長の王子、昨年のこの儀式の施主だった兄王子は軽く頭を下げると、側にいた神官に何事かを告げた。神官たちの表情から苦笑の色は消え、すぐさま、台無しになってしまった葬祭の儀式の続きを取り繕おうとしはじめる。途絶えていた楽器の音色と、神官たちが経文読み上げる朗誦の声が何事もなかったかのように再開され、王と王妃たち、それに供物を手にした王子たちの行列が、薄暗い葬祭殿の奥の間へ向かって歩み出した。  面目丸つぶれのトトメスも、鼻緒の切れたサンダルを引きずりながら、せめて形だけでも最後まで儀式に参加するために、俯いたままその後ろに続いて祭壇の間へと進んでいった。  ――と、いうような出来事があったのは、もう、一週間も前のことだった。  葬祭殿から、川の対岸にある王宮に戻って来てからというもの、トトメスはふてくされたように自室に閉じこもり、日がな一日ごろごろしているばかりだった。  「はぁー、ついてないよ。ほんとついてない。何であんなとこで転ぶかな…」 鵞鳥の羽根を詰めた肘掛けにだらりと身体を持たせかけたまま、彼はぶつぶつ呟いていた。   あのあと、儀式は兄のカエムワセトがつつがなく進めてくれて、無事に終わった。けれど儀式が終わってからも、父は何も言ってくれず、母などは視線すら合わせてくれなかった。昔は何かやらかすたびにこっぴどく叱られていたというものに、今となっては諦めの境地なのか、小言の一つすら言って来なかった。  "不運の王子"。 王宮内でも都でも、そう陰口を叩かれているのは周知の事実だ。  道を歩けば何も無いところで転び、川辺で小石を投げれば当たるはずのないワニに命中し、魚を食べれば内臓から出て来た釣り針に引っかかる。  昔からそうなのだ。ここぞという大事なところでは必ず、誰も予想もしないような失敗をやらかす。  王の嫡男にして正妃の息子、五体満足で、見てくれも体格も頭の良さも、抜きん出てはいないものの取り立てて人より劣るところはない。それなのに、たった一つ、「極端に運が悪い」という部分だけは、他の者の追従を許さない。  それでも今回くらいは、上手くいくと自分でも思っていた。  難しい役目ではなかったからだ。毎年、冥界神の祭日に行われる先祖供養の葬祭の儀式の内容は覚えていたし、唱えるべき呪文もやるべきことの作法も簡単なものだった。それに段取りも、ほとんど神官と役人たちが勝手にやってくれていた。当日は、施主の印である豹の毛皮を来て、香炉を手に、葬祭殿の中を真っすぐに奥の間まで歩けばいいだけのはずだった。  たったそれだけの仕事。たったそれだけ…それなのに、あんな派手なしくじり方をするなんて、ある意味で才能だ。いや、もはや運命だ。運命の神(シャイ)が本気で彼を呪っているのに違いない。このくらいなら大丈夫だろう、と任せてくれた父王も、愛想を尽かして当然なのだ。  そんなわけで、トトメスはもはや何もする気が起きないまま、腐っているしかないのだった。  「トトメス様、日なたでそんな格好してるとカバみたいですよ。」 箒を手に部屋に入って来た従者のベセクが、長椅子にだらりと伸びた主人の姿に眉をしかめる。  「ていうか、何日もゴロゴロしていたら腹が出てカバになります。起きて少しは運動して下さい。ほら、いい天気ですよ」  「この季節はずっといい天気だろ。春なんだし」 肘掛けにしがみついたまま、トトメスは従者に抵抗する。「冬でもなきゃいつだって晴れさ、この国は。それに今はもう、転びたくない気分なんだ。どうせ外に出て出歩いてたらまた転ぶに決まってる」  「何を下らないこと言ってるんですか。一生座って暮らすつもりじゃないんでしょ? 転んだって、立ち上がればいいだけですし」 仕える相手は王子だというのに、ベセクは口が悪い。というより、思ったことを何でも素直に口にするたちなのだ。  かつて、とある貴族の従者だった彼は、あまりにもずけずけと物を言いすぎるので主人に嫌われ、罰を受けることもしばしばだった。けれどトトメスは、逆にそんなところが気に入って、元の主人から彼を譲り受けて自分のお抱えの従者にした。心の中で"不運の王子"とばかにしながら表面上だけはニコニコとおべっかを使って仕える従者よりは、面と向かって言ってくれるほうが気が楽なのだ。少なくとも、ベセクは真実(マアト)の忠実なしもべだった。  「そういえば、父上は――父上と母上は、あの失敗のことを何か言っておられなかっただろうか」  「葬祭の儀式でスッ転んだっていう件ですか? さぁ、私は何も伺ってませんが、ご兄弟が楽しそうに吹聴してるのは見かけましたよ。ネフェルトイリ様もご一緒でした」  「うっ…」 トトメスの顔が青くなった。  ネフェルトイリというのは彼の婚約者で、三つほど年上の美人だ。王宮で権勢を誇る宰相イメルの、年の離れた異母妹にあたり、政治的な理由から、もう何年も前にトトメスとの婚約が取り決められていた。  彼女は本当なら、正妃にもなれる身分なのだ。  けれどトトメスの兄で七つ年上の長男カエムワセト王子には、既に正妃にあたる女性がいて、自ら選んで娶ったその女性のほかに正式な妻を持つつもりはないからと、ネフェルトイリを正妃に据えることは断固拒否した。そして、妹を側室という一段低い身分で王子に嫁がせることを渋った宰相は、次点として第二王子のトトメスを異母妹の婿に選んだのだった。  けれどまさか宰相も、その相手の王子がこんな出来損ないだとは思ってもみなかったに違いない。  ネフェルトイリが正妃になれる可能性は、今のところ、万に一つも無さそうだった。――壮健な王はまだ正式な跡継ぎを決めておらず、候補となる四人の王子たちのうちで選ばれる可能性が一番低いのがトトメスなのだから。  現在のこの国の王、アアケペルウラーの子供たちのうち、王位を継ぐ可能性があると見做(みな)されている王子は四人いた。  正妃ティアアから生まれた長男のカエムワセトと、その弟のトトメス。  宰相の妹の一人から生まれた、トトメスと年の変わらないネジェム。  母は地位の低い王妃だが、才覚溢れるウェベンセヌ。  けれどいまだに皇太子が決まらない。本来ならカエムワセトが選ばれるべきなのだったが、父王と折り合いが悪いのだ。  アアケペルウラー王は軍人気質で、若い頃には遠征を繰り返し、近隣の小国を広く平定して周った。逆らう者には容赦せず、若い頃には敵対した部族の王子たちを、神々への血なまぐさい生贄として城壁に吊るしたこともあるという。  それに対してカエムワセトは根っからの文人で、見事な碑文を書くことは出来ても、父のように軍を率いるのは嫌いだった。頭脳明晰で政務はそつなくこなせるが、弓も引けないのでは王にはなれないと、アアケペルウラーは思っているのだった。  その点、ウェベンセヌは、父に似た気質で幼い頃から弓も剣もよく使い、今では馬に引かせた戦車さえも乗りこなす。父のお気に入りの王子で、母親の身分の低さを除けば、特に問題になる点は無い。  一方で、側室ながら有力な宰相一家出身の女性を母とするネジェムも、政治的な後ろ盾を持っているという意味では相応しかった。しかも母に似た美貌の持ち主で、愛嬌のある振る舞いと気前の良さから、女性や貴族たちからは絶大な人気を誇っている。  そして、トトメスはというと――他の三人のような長所は何も無い代わり、運だけは最悪。短所だけが際立っている、今となっては誰も見向きもしない候補者なのだった。  そんな彼にも儀式の大役を言いつけたのだから、父王としては、全員に平等に機会を与えるつもりではあったのだろう。  あれは、悪い噂を払拭できる最後の機会だった。それなのに、トトメスは"見事に"しくじってみせた。それも、この上ないほどに、完璧に。…普通は絶対にしないようなやり方で。  「はあー…」 溜息をつきながら、トトメスは、結局は部屋を出た。  ベセクに言われたせいもあるが、確かに今日はいい天気だ。春のうららかな陽射しには、落ち込んでいるなりに心惹かれるものがある。それに、寝ているのには少し飽きて来てもいた。何日も部屋に閉じこもって惰眠をむさぼっていられるほど、怠惰な性格でも無かった。  革のサンダルを引っ掛けて部屋を出ると、彼は、ぶらぶらと、中庭のほうへと向かって歩き出した。  王宮の奥にある庭園には、異国から輸入した珍しい樹や花が植えこまれ、貴婦人たちの憩いの場となっている。腰を屈めて手入れをするのは南のほうから連れて来られた黒い濃い肌の出稼ぎ労働者たちで、植え込みの間を行き交う白い布を身体に巻き付けた変わった風貌の人々は、王の側室の一人が連れて来たミタンニ(メチェン)人たちだ。  「ん、…」 ふと、いい香りがして顔を上げると、花壇の中に、らっぱの形をした白い花が咲きかけているのが見えた。確か、母が気をかけていた異国産の珍しい花だ。  「へえー、こんな匂いがするのか。どれどれ…」 顔を近づけて匂いを嗅ごうとした瞬間、頭上で鳩の鳴き声がして、羽ばたきの音とともに「ぺちっ」と冷たい感触が頬に落ちて来る。  「……。」 頬に手をやると、排出されたばかりの生暖かい白と黒の混じりものが指に触れた。花の香りが、一瞬にしてかぐわしい糞の匂いへと変貌する。  (ま、まあ…いつものことだから…このくらいは、うん) トトメスは、何事も無かったかのように腰布の端でそれを拭った。この程度でへこたれていては、生まれながらの"不運"とは付き合っていられない。  気を取り直して再び歩き出すと、行く手のほうから女性たちの話し声が聞こえて来る。庭の隅に、屋根と長椅子を備えた小さなあずま屋が経っている。  向き合って親しげに話しているのは、長い髪を丁寧に編み込んだ、大人びた美貌の少女と、祖母ゆずりの癖っ毛を短く刈り込んだ、少年と見まがうような少女。大人びているほうはトトメスの"婚約者"のネフェルトイリ。そしてもう一人の少年のようなほうは、妹のイアレトだ。二人の間には紙が何枚か置かれていて、どうやら、イアレトが書いたものをネフェルトイリに見せているようだった。  「あっ、トトメス兄さま」 トトメスが近付いてくるのを目ざとく見つけたイアレトが、兄そっくりの、くりくりした瞳をこちらに向ける。とーけれど同時に、今までイアレトと穏やかに話をしていたネフェルトイリの表情が曇り、さっと顔を背けてしまう。  「あの――では――、わたしはこれで。」 小さな声で言うと、彼女は立ちあがり、トトメスから視線を逸らしたまま、逃げるように立ち去っていく。  「ん? 何だ? なんか邪魔したかな」  「そういうわけじゃないよ」 イアレトは、少し困ったように笑う。  「今は、兄さまと一緒にいるところ、見られたく無いんじゃない? 色々言われてるみたいだし」  「色々って?」  「具体的に聞きたいの? 不運続きの王子と結婚したら将来が心配だとか、親戚から心配されてるらしいよ。兄さまが何かやらかすたびに、ネフェルトイリ姉さまだって苦労してるんだから」  「……うっ」 言葉の全てが痛い。何も釈明のしようがない。胸を抑えながら、トトメスは妹の向かいの長椅子に腰を下ろした。そこは、さっきまでネフェルトイリが座っていた場所で、彼女がつけていた香水の香りが、まだ、かすかに残されている。  「で、本当なの? 何もないところでひっくり返ったって。始まる前は、今回は大丈夫だ、楽勝だーとか言ってたくせに」  「いや、まあ…だって、なあ。まさか転ぶとは思わないだろ、あんなところで。しかもサンダルの鼻緒が切れてたんだぞ。新品のを下ろしたはずなのに。信じられないよ」  「その、信じられないことが起きるのが、兄さまの周りでしょ? 不運っていうけど、もうほとんど奇跡みたいなものよね。逆に、死なないのが不思議なくらいよ」 長椅子の上で脚をぶらぶらさせながら、イアレトは快活に笑う。  彼女はとても頭が良い。王家の子女でも女の子には学問は必須ではなく、文字の読み書きや計算が出来ないことも多いが、イアレトは兄たち以上に呑み込みが早く、文字を書くことはもちろん、今では役人でさえ手を焼く難しい計算さえ難なくこなせるようになっていた。  けれどその反面、真っ先に求められる礼儀作法やしとやかさのほうはからっきしで、家柄からして引く手数多だというのに、いまだ婚姻の見通しが立っていない。婚約も縁談も全て本人が断固拒否し、今もこうして王宮で暮らしている。花輪づくりや刺繍より、巻物を広げたり、筆と紙を手にしているほうを好む変わり者なのだ。  彼女もある意味では、王宮の中では浮いた存在だった。そしてトトメスと同じく、両親の悩みの種だ。トトメスにとっては、唯一、今でも普通に話をしてくれる家族でもある。  「ネフェルトイリはもう、あの大失敗のことは知ってるんだよな…。」  「そりゃそうよ。あっちこっちで噂になってるし、ネジェム兄さまが即日、報告してたもの」 ネジェム王子の母親は、宰相イメルの妹の一人で、ネフェルトイリの姉だった。ネフェルトイリとは甥と叔母の関係にあたるから、情報が筒抜けなのは当たり前なのだ。  「どうせ、さんざん馬鹿にしてたんだろうけどさ。いいさ、来年はネジェムの番だ。せいぜいうまくやって見せればいい」  「上手くやるんじゃない? ネジェム兄さま、そういうの得意そうだし」  「ううっ…」  「ま、でも、ウェベンセヌ兄さまは苦手かもね。儀式とか礼拝とか、そういう繊細な仕事は向いてないみたいだから。」 いたずらっぽく黒い瞳を輝かせながら言って、少女は意味深に口元に指を当てた。「本人には内緒だよ、言っちゃだけだからね」  「言わないよ。ていうか、そういうこと話す機会もない」 悲しいけれど、それは本当だった。  もとより母の違う二人の王子たちとは、皇太子争いという理由を除いても、親しい間柄ではなかった。そこへ来て最近は、同じ母を持つ兄のカエムワセトですら、呆れたのか愛想を尽かしたのか、距離を置くようになっていた。それどころか彼らの使用人や従者たちでさえ、近くに寄ると不運がうつるとばかり、王宮内ですれ違う時さえ大仰に避けたりするのだった。  「だけど、どうしてトトメス兄さまはそんなに運が悪いのかしらね。本当に呪われてるんじゃないかって思うくらい。昔から、だよね? 昔、ネフェルトイリ姉さまも一緒に三人で王宮を抜け出して舟遊びに行った時も、一人だけ舟から投げ出されて…」  「あったなー、そんなことが…頭っから泥に突っ込んで、泥まみれになって戻ったせいで、抜け出してたことがバレてこっぴどく叱られた」  「だけどあの時、そのせいで何か良いことが無かったっけ? 泥の中で…何だっけ…」  「良いことなんて覚えていないな。何かあったっけ…あ」 話していた時、トトメスは、庭園の向こうのほうから誰かを探すようにきょろきょろしながら近付いてくるベセクの姿に気が付いた。  あずま屋を出て手を振ると、彼はすぐさま、主人のほうに駆け寄って来る。  「陛下からの使いが来てました。トトメス様をお呼びだそうです」  「父上が?」 トトメスの顔に緊張が走った。どうせ、楽しい話ではないに違いない――叱られるか、小言を言われるか。それでも、まあ、何事も無かったことにされるよりはマシだろう。  後ろで、イアレトが「頑張って」というように両手で拳を作っている。  妹に見送られながら、彼は、重たい足取りで謁見の間へと向かって歩き出したのだった。  既に午後の遅い時間で、西の回廊のほうからは、長く柱の影が延びていた。  執務の時間は既に終わり、王に謁見する希望者も、行政に関わる役人たちも、執務室からは引き上げたあと。閑散とした部屋の中では、王の側に控える書記と宰相が、今日の執務の記録を記した書類を片づけているところだった。  トトメスを見て、宰相イメルは軽く頭を下げ、視線を奥の方に向けた。そちらからは、ビュン、ビュンと弦のしなるような音が微かに聞こえて来る。  執務室の裏口から庭に出ると、父であるアアケペルウラー王が愛用の大弓を手に弓術の訓練に励んでいる姿が目に留まった。上着は側に脱ぎ置かれ、引き締まった上半身と筋肉の束があらわになっている。  王は既に二十年もその地位にあり、並の人間なら老齢と呼んで差し支えない年齢でありながら、いまだ壮健だった。近隣の敵を全て平定した今でも軍人としての精神を忘れてはいない。弓を構える太い腕にはいささかの震えも無く、どっしりと開いた足腰は巌のように安定している。引き絞った弦から放たれる矢は(あやま)たず、庭の端の的の真ん中を真っすぐに射抜く。若い頃には三枚に重ねた銅板すら射抜いたというが、そんな噂も誇張ではないかもしれないと思えるほどだ。  「――ふう…」 ひとつ呼吸を置いてゆっくりと弓を降ろすと、王は汗を拭いながら振り返った。  「来たか、トトメスよ」  「はい、…」 それ以上は言葉が出てこなかった。この間の大失敗のことを謝ろうにも時が立ちすぎているし、反省のしようもない。それに、次は頑張ります、とも言えないのだった。  黙って俯いていると、父は、意外なほど優しい、あっさりした口調で言った。  「そう落ち込むな。お前のは、致し方ないのだとよく判った。人には誰しも、生まれ持ったものがある。向き不向きも、宿命もな。こればかりは、王たる(わし)にもどうにもならん」  「……。」  「そこで、だ。トトメスよ。お前には、イウヌの太陽神殿へ行って貰うことにした。」  「――は?」 あまりに意外な言葉に、トトメスは、思わず顔を上げた。  イウヌ――それは、この国のちょうど真ん中に位置する、古き都と古き神々の神殿のある街の名だ。王宮のあるウアセトの都からは遥か北、国の真ん中を流れる大河を海へ向かって下った先にある。  困惑している息子を見下ろしながら、王はにこりともせずに頷いた。  「そうだ。太陽神ラーの神官たちの住まいし場所だ。少しばかり神官の修行をしてくるといい。なぁに、神官になれというのではない。これは、ほんの切っ掛けに過ぎん。他にも何でも、気の向くことを始めてみるが良い」  「で、でも、何でまたそんなところへ? あの…これは…もしかして、追放…と、いうやつなのですか?」  「うん? 家から追い出すつもりはないぞ。ただな、お前は何か、この王宮の外で己の道を探すべきだろうということだ」 弓の弦で出来た瘤のある、大きな手が少年の肩に置かれた。「このことはそなたの母、ティアアも承知している。詳しいことは、追って養育係が伝えに行く。お前の行く道に、神々のご加護のあらんことを」 それだけ言って、王は上着と弓を手に執務室の奥へと去って行ってしまった。  あとに残されたトトメスは、呆然としたまま、ただ、そこに立ち尽くしていた。  『お前は何か、この王宮の外で己の道を探すべきだろう』。 つまり、皇太子になる道ではない別の道を、ということだと、トトメスは解釈した。  次の王の候補から外されたこと自体は特に悲しくも悔しくもない。もとより、指名されることなど天地が再び絡み合うほどに在り得ないことだと思っていた。  けれど、この都を離れて遥かに遠い古き都へ神官の修行に行け、と言われるとは――家族や家から意図的に遠ざけられるとは、思ってもみなかった。  (今まで運が悪い悪いと思っていたけど、これこそ最高の不運だ…) 項垂れたまま、彼はとぼとぼと執務室を後にした。神官の修行なら、都でだって出来る。この街には大小様々な神殿が、それこそ通りごとに建っている。川を挟んだ都の対岸には、ついこの間の大失敗をやらかした葬祭殿のほかに、歴代の王たちが築かせた先祖供養の施設が並んでいる。  それをわざわざ遠方へやらすのは、しばらく顔も見たくないとか、出来れば戻って来て欲しくないとか、そういう意味に思われた。  「何故…母上まで…。」 溜息しか出てこない。  期待はされなくても、失望だけはさせないように頑張ってきたつもりだったのに。  日の暮れた暗がりの中、すれ違う犬がビクっとなって、尻尾を巻いて慌てて逃げてゆく。侍女が抱いてあやしていた赤ん坊は、彼が通りかかったとたん突然泣き出した。  まるでこの街に住むすべての生き物が、自分を嫌って、早くこの街から出ていけと急かしているかのように思えた。
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