第20話 トトメス王子、婚約者と再会し、約束を交わすの由

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第20話 トトメス王子、婚約者と再会し、約束を交わすの由

 川の増水は最高水位の時を迎え、中洲の岸辺も、氾濫原も、すべてが水の下に沈んでいる。西の高台に建つ三角の「聖なる墓所」が、間近まで迫った水面に映り込み、天と地が上下逆さまに繋がったように見えている。  柳の木をそよがせる風はまだ熱を帯びてはいたものの、真夏のようなひどい暑さではない。漁師たちは浅瀬に魚を追い込んで一年に一度の大漁の時期を喜び、農民たちは畑の水を抜いて今年の植え付けを始める日を指折り数えている。女性たちは育ち切った葦を刈り入れて、冬の間の焚き付けや家畜の餌にするために、束ねて日に干している。  何もかもが普段の年と変わりない。違うのは、頭上の空に黒々と広がる亀裂が、少しずつ、ほんの少しずつ、隙間を広げていっていることだけ。見ないように、気にしないようにと心がけていても、気が付けば視界の端にそれは、ある。  最初は薄ぼんやりとして、空の高いところにしかなかったものが、日増しに大きくなり、今では空の半分を埋めるほどに広がっているのだ。焦燥感だけが募っていく。西の岸辺に視線をやれば、カーエフラー王の「聖なる墓所」の三角形が、両脇の二つの岩山とともに、挑むように――だがあまりにも小さく、聳え立っている。  結局、朝の鍛錬は再開することにした。そして、数日に一度は神官たちを手伝って、神殿や参道の掃除もした。  これからどうするにせよ、自分の道は自分で探さなくてはならないからだ。軍人になるのか、神職に就くのか。それとも役人か何か、別の道を選ぶのか。元々、それがここへ来た目的だった。都へ戻りたいという気持ちは今は無いが、かといって、この街で一生暮らす覚悟も湧いてこない。神殿の奥の仮住まいだって、いつまでも借りているわけにはいかない。  都へ戻らないのなら、何かここで、自分に向いていることを見つけなくてはならなかった。  その日、トトメスは、メンナに付き合ってもらって、少し北にある軍事施設にやって来ていた。  以前、戦車を走らせた警備兵たちの訓練所だ。神殿の中で武器を振り回すわけにもいかないから、少し体を動かしたい時はメンナに声をかけて連れて来てもらっている。「勝手に入っても、トトメス様なら誰も文句は言いませんよ」とメンナには言われたが、それではどうにもすっきりしない。  弓を扱うのは、最初の頃に比べたら、ずいぶん上手くなった気がする。  構えてから矢を放つまでの時間も短くなった。馬が気になって時々は戦車を走らせてみているが、今なら、戦車の上からでも的が狙える。  「素晴らしい腕前ですよ、トトメス王子。こんなに上達されるとは思いませんでした」 付き添いのメンナはそう言って諸手を挙げて褒めてくれるが、正直に言えば、自分ではあまり実感が無い。父や、間近に見て来たカーエフラー王の戦いぶりと比べると、どうしても見劣りしてしまう気がするのだ。浮かない顔で曖昧に頷いて、訓練を続けるのが常だった。もっとも、そんな愛想の悪い態度さえ、武人としての自制が出来ている、などと、勝手に持ち上げられてしまうのだが。  さすがに棍棒は置いていなかったが、代わりに剣なら訓練用のものがあるというので、トトメスは、その使い方をメンナの同僚に教わってた。重たい銅で出来た剣は接近戦向きで、戦場ではあまり使うところが無いのだという。理由は、剣が使えるほど敵と近付いている時には、双方に多数の死傷者を出している状態だからだ。槍の投てきか弓矢で威嚇し、あるいは相手の数を減らす。戦車で攪乱し、蹴散らす。それでも決着がつかない時は、槍兵が突進し、組み合った後に、ようやく剣の出番だ。  そうした実際の戦術も、訓練所の教官は教えてくれた。元は東の砦の隊長をしていたのだという。トトメスの父であるアアケペルウラー王と同じ戦場に出ていたこともあると言い、実際に東の異国とは、何度も戦ってきたのだという。  「戦車は絶大な威力を持ちます。実際に敵を倒す数よりは、馬は人よりはるかに大きい。それに、あの速度で突っ込んでこられたら、戦意などひとたまりもありませんからね」 そんなことを言って、にこにこ笑っていた。  「陛下も戦場を見事に戦車で駆けたものです。トトメス様は、お若い頃の陛下によく似ておいでですよ」  「はあ…そうでしょうか」 確かに見た目だけは似ているが、あくまで見た目だけだ。父は若い頃から軍の先頭に立ち、国境の防衛のために目覚ましい働きをしてきた。最近になってようやく少しは武器が使えるようになった程度のトトメスなどとは、雲泥の差だ。  「殿下は、いつまでこちらに滞在されるのです?」  「一応、来年の春までは居ますよ。一年は帰って来るなと言われているので」  「そうですか…春以降もいらしてくださったら嬉しいのですがねえ」 引退兵である教官は、白髪だらけのごつい髭を吊り上げて、にこりと笑った。  「殿下がおいでになると訓練兵たちの士気が上がります。それに、異国の軍も下手な動きが出来ず、このところ、国境も平和なのです」  「…へ? 士気はともかく、何で、俺がいると平和になるんですか」  「そりゃあ、何といっても王の嫡子であらせられる殿下の、優れた名声とご威光のたまものですよ。国内にも異国人はいますから、噂はすぐに伝わります。王子の一人が下流の街で軍の駐屯地に出入りしているとなれば、何かあればすぐに軍を出せる準備をしていると思われるでしょう」  「……。」 トトメスは額に手をやった。  軍の指揮さえしたこともがない。自分は、――そこまで、強くもない。  それなのに、頻繁に訓練所に出入りしているだけで、まるで、いつでも出兵できる準備をしているかのように見られていたとは。勝手に買いかぶられ過ぎた。それに期待もされすぎている。形ばかりは「王子」だというだけで、実際は役立たずなのに。  (どうして皆、俺に無茶な期待をするんだ。…ついこの間までは、見向きもされなかったのに) 都での悪評がイウヌに伝わって正体が知られたら、皆、どれほどガッカリするだろう。  メンナと一緒に剣を振りながら、彼は、そんなことを考えていた。  訓練所でひと汗流したら、日が傾く前にはイウヌに戻る。  そう遠くはない距離だから、大抵は徒歩だ。メンナを連れて街の桟橋のあたりまで戻って来た時、トトメスは、上流から到着したばかりらしい大きな船が着いていることに気が付いた。以前、ヘカレシュウとイアレトが都からやって来た時に乗っていた船に似ている。  「あれって、ヘカレシュウが戻って来たのかな?」  「そうかもしれません。…おや?」 荷物を抱えて後ろを歩いていたメンナが足をとめた。  釣られてそちらに視線をやったトトメスは、船の側に立ち、荷物を下ろしているのを見守っている、すらりとした細身の少女に気が付いた。  ただ立っているだけで人目を惹かずには居られない美貌の持ち主。薄い亜麻布を何重にも巻き、派手過ぎない程度に装飾品を付け、長い髪を垂らしている。こんな庶民の暮らす街では場違いな、垢ぬけた出で立ちだ。  「…あ」 トトメスは思わず、担いでいた訓練用の槍を取り落としそうになった。  「ネフェルトイリ…?」 それは、此処にいるはずのない人物の名だった。  振り返った少女は、瞬時に上から下まで、彼の姿を視線でなぞった。それから、王宮の中そのままに、腰布をつまんで優雅に一礼する。  「トトメス様、お久ぶりでございます」  「お、お姫様だ…本物の…」 メンナは感動して震えている。悪気はないのだろうが、「王女様」であるイアレトのお転婆ぶりと比べたら、確かに、こちらのほうが遥かに「お姫様」ではある。  「…トトメス様? あのう、この方は」  「えーっと。彼女は、俺の…」 …"かつての婚約者"。そう言いかけた彼の言葉を素早く上書きしたのは、他ならぬネフェルトイリ自身だった。  「トトメス殿下の、でございます。」 そう言って、彼女は縋るような目つきでトトメスを見つめた。  唖然として立ちつくしているトトメスの目の前に、白い片腕が差し出される。都では、良家の子女は一人でふらふら街を出歩いたりはしない。従者か家族の男性に付き添いをさせるのだ。  つまりこれは、自分を大神殿まで案内せよ、という意味だ。  戸惑いながらもトトメスは、槍をメンナに預けてネフェルトイリの腕のほうをとった。周囲の視線が否応なく突き刺さる。羨望の眼差し、驚き、好奇心、それにひそひそと噂をする声が聞こえて来る。  「誰なの、あのすっごい美人。」  「都から来たお姫様だよ。神殿にいらっしゃる王子様の婚約者だって。」  「へえー、王子ともなれば、やっぱりああいう人と一緒になれるもんなんだなぁ…。」 トトメスは恥ずかしさで一杯だった。訓練所から戻ってきたばかりの、砂埃にまみれた泥だらけの状態で、この、非の打ちどころもなく美しいネフェルトイリの側を並んで歩いているのが辛い。それに、一体どうして彼女がここへ来たのかもわからなかった。  ちらりと隣を見ると、いつものように薄く化粧をした少女の眼差しは、坂の上の大神殿に向けられていた。  記憶にあるままに、いや、それ以上に美しい横顔。何か思いつめたように、きつく結ばれたままの口元。  「あ――あの…ネフェルトイリ、どうして、ここへ?」 門が近づいてきた時、ようやくトトメスは、勇気を出しておずおずと尋ねた。「イアレトに会いに来たのか?」  「いいえ。トトメス様に、です」  「そう、…」  「……。」 都にいた頃と同じように、会話は一言で途切れてしまう。  門をくぐったところで腕を下ろし、トトメスは、振り返ってメンナのほうに言った。  「先に戻って、ベセクに伝えてくれないか。それとイアレトにも。彼女を連れていく準備をしておいてくれ」  「分りました! …あ、夕餉は追加ですか? あと、お泊りの部屋はどうしましょう」  「ご心配なく。巡礼者用の宿坊を借ります。用が済めば、直ぐに都へ戻りますから」  「かしこまりました」 ベセクに教わった王宮式の礼をして、メンナは、大急ぎで奥の方に駆けていく。  通りかかった神官や参拝者たちが皆、こちらを見ている。トトメスは、慌ててネフェルトイリを促した。  「どこか、人目につかないところに行った方が良さそうだな。あ、――それとも、先にお参りをしていく? えっと、…」  「私はトトメス様に、お話したいことがあるのです」  「そ、そう。それじゃ、こっちがいいかな…」 トトメスはネフェルトイリを連れて、神殿の裏手の、小さな庭のようになっている場所に周った。掃除を手伝っているうちに見つけた場所だ。ここなら、滅多に人は通りかからない。  周囲に誰もいないことを確かめて、彼はようやく、一つ息をついた。  「はあ、…まさか、ここで君に会うとは思わなかったな。えっと…それで? 俺に話したいこと、って」  「…ウェベンセヌ王子が、戦車から落ちて大怪我をしました。新年祭の前、"忌憚の日"に。」 唐突な、予想もしていなかった切り出しだった。  トトメスは一瞬、固まった。その間に、ネフェルトイリが淡々と言葉を続けていく。  「二度と歩けなくなるかもしれない、と医者は。カエムワセト王子はお子様と奥様の件で見る影もなくやつれてしまわれ、王妃様も気を病んで、最近はずっと…お庭の手入れにも出て来られません。大切にされていたお花も…枯れてしまいました」  「父上は?」  「陛下はお元気です。ただ、新年祭は…酷いものでした…。前日に大騒ぎをして酔っ払って寝過ごしたネジェムは、ふらふらのまま船に乗って川に落ちたんです。助かりはしましたが、王家の行列があんな状態では…。」 ネフェルトイリの声が掠れ、言葉が途切れた。固く閉ざした赤い唇が、微かに震える。彼女は意を決したように、再び口を開いた。  「トトメス様が居なくなってから、都では悪いことばかりが起こります。誰も、どうしてなのか、どうしたらいいか判っていないのです。神官たちは何も出来ません。全て、トトメス様が…いらっしゃらないからなのに…。」  「わあ、待って、待ってよ。それじゃまるで、俺が不運の原因だったみたいじゃ…! …って、あれ? 逆? 俺がいなくなったから?」  「はい」 ネフェルトイリは小さく頷いて、じっと彼を見つめた。  「不運なふりをして、皆から災いを退けてくださっていたのは、トトメス様でしょう?…」  「…え」 沈黙が落ちた。丘を吹き抜ける夕刻の風が流れて行く。  "不運"が本当はただの不運ではないと、どうして、彼女が知っている? トトメス自身さえイウヌの大神官に言われるまで気付きもしなかったのに。  「覚えていますか、これを」 戸惑っているトトメスを見て、ネフェルトイリはつけていた耳飾りを片方外し、彼の掌に置いた。  金色の、水蓮の花を象った耳飾り。  「これは――俺が、川で拾ったやつ…?」 はっとして、トトメスは少女のもう片方の耳を見やった。そちらにも同じ、もう一つの耳飾りが揺れている。二つ揃っているのだ。  「そう。私の母の形見…です。母が亡くなる前、さいごに一緒に外へ出た時に失くしたもの…。見つかるはずもないと諦めていたのに、トトメス様が見つけて、私に返して下さいました。…本当は私、あの時、お礼を言いたかったんです。それなのに勇気が出て来なくて、一人でひどく叱られているトトメス様を見ても、何も言えませんでした…」  「い、いや。そんなの何年も前のことだし、俺だって忘れてた。それに、これを見つけたのはただの偶然…」  「違います」 ネフェルトイリは、長い睫の下からじっと彼を見つめた。  「いつも見ていたから、判ります。私の時だけではありません。トトメス様が酷い目に遭われる時は、他の誰かのためになっていました。…代わりに引き受けて下さっていたんでしょう? 皆に笑われて、馬鹿にされながらもずっと」  「違う。俺は、そんな大それたこと――ここへ来たのだって、葬祭の儀式でつまらない失敗をしたからで」  「あのあと、葬祭殿の天井に、亀裂が見つかったんです。…トトメス様が転んだ、あの場所の真上に。あんなに派手に転ばれたから、実は何か出っ張りでもあるんじゃないかと念のために神官が調べていて気づいたのです。石が落ちて来る寸前だったそうです。だけど皆、見つけられたのは、ただの偶然だと思っているんです。本当はトトメス様のお陰だったのに。」 美しい瞳から涙が零れ落ちるのにも、告げられる言葉の内容に反応できず、トトメスは、ただ立ち尽くしているしか出来なかった。  「私は、知っていました…なのに、トトメス様が笑われているのを庇って差し上げられませんでした。どんなに説明しても、皆、私を憐れむばかりで、何の助けにもなれなくて。逆に私がお側にいると、皆があなたのことを悪く言うようになる…だから、あんな風に避けてばかり…ごめんなさい…」 ずっと、嫌われていると思っていた。皆と同じように内心呆れているか、どうしようもない相手と婚約させられたことを迷惑に思っているのだと。  けれど彼女はずっと、真剣に見ていてくれていたのだ。誰も、――自分自身でさえも気づかなかったことに先に気づくほど、真剣に。  (俺は、なんて馬鹿だったんだ…) 目の前で、ネフェルトイリは両手で顔を覆って泣いている。今すぐに、この少女を笑顔にしたかった。もう二度と、自分のことで余計な悩みを抱かないようにしてやりたかった。誰もが見放した、自分のような人間をずっと見続けてくれていた、大切な人。  それが、――望みだ。  「ネフェルトイリ…俺も、君に言えなかったことがある」 一歩、前に踏み出して、彼は少女の頬に触れた。  「俺は三十歳までは生きられない。早死にする定めらしいんだ。君と結婚しても、すぐ未亡人にしてしまう…。王にもなれないし、都に戻るのだって無理かもしれない。だから、婚約を解消した方が幸せになれると思って…。」  「私は一緒にいたいのです」 涙に濡れた手が、トトメスの手を握りしめる。  「王妃なんて、そんなのはどうだって良かった。少しでも助けになりたいのです。最後の日まで、お側にいさせてください…どうか」  「……。」 間近に、互いの息を感じるほどに、黒い瞳が相手の姿を映す。それは嘘偽りのない、本気の願いだと、トトメスは思った。そのために、それを言うために彼女は、はるばる都からイウヌまでやって来てくれたのだ。  ならば、応えなければならない。己の心臓と、魂に賭けて。  「…判ったよ。約束する、それで、君が笑顔になってくれるなら、きっと迎えに行くから」 ようやく少し微笑んで、ネフェルトイリは静かに少年の肩に腕を回した。微かな花の香り。咲き綻ぶ水蓮のように、美しい蕾は願いを叶え、より一層美しく輝くようになる。  ネフェルトイリの肩越しに、夜と昼の混じり合う藍色の空を見上げて、トトメスは、じっと考え込んでいた。この約束を果たすために何を成すべきなのか。  そしてようやく、一つの答えに思い当たった。  自分の願いは――最初から決まっていた。  たとえ自分はどんな目に遭っても、大切な人たちがずっと笑顔で、幸せに暮らしていける世界だったのだと。  ネフェルトイリは、それから数日だけ滞在して、元来た川路を戻っていった。  イアレトは散々残念がっていたが、あまり長く留守にすることは、後見人である兄の宰相が許してくれないのだという。  「ほとんど押し切るようにして家を出て来たんです。…兄は、驚いていました。だけど、どうしてもトトメス様にお伝えしたかったので」  「うん。…ありがとう、ネフェルトイリ」  「ネフェルトイリ姉さま! またね!」 桟橋まで見送りにやって来たトトメスとイアレトに見送られて、彼女は、晴れやかな笑顔とともに船に乗り込んでゆく。  「それでは、お元気で。…都でお待ちしていますね、トトメス様」 白く水面に泡をたてながら、船が岸辺を離れてゆく。  大きく手を振りながら飛び跳ねているイアレトの後ろで船を見つめるトトメスの耳には、約束の印である片方だけの水蓮の耳飾りが、光っていた。
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