第21話 トトメス王子、東の地平を見つめる人面岩に土下座し、行くべき道を請うの由

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第21話 トトメス王子、東の地平を見つめる人面岩に土下座し、行くべき道を請うの由

 腹は括った、つもりだった。  けれど、いざ西の高台の入り口に立ってみると、やっぱり少し怖かった。  (どうしよう…あんな別れ方したし…絶対怒ってるよな…。) ごくりと一つ、息を呑み、おそるおそる岩の巨像に近付いていく。ちょうど日は昇ったばかりで、東に向けられた顔には斜めに光がさしている。前脚の間にしつらえられた、果物や花を載せた小さな祭壇の前に立ち、トトメスは、ややぎこちなく声をかけた。  「夜明けの地平線のホルス(ホル・エム・アケト)、もう目を覚ましているか?」  『……。』 しばしの間をおいて、低く唸るような声とともに、足元の地面がびりびりと振動する。眼の辺りに光が宿り、じろりと、足元の人間を見下ろした。  (う…やっぱ怒ってる?)  「謝りに来たんだ。カーエフラー王に会わせて欲しい」  『我が主にあれだけの非礼を働いておいて、どのツラ下げておめおめと戻って来たというのか』  「…っ」 トトメスはとっさに、地面の上に膝をつき、額が砂につくほど勢いよく頭を下げた。  「すいませんっ!」 息で砂埃が舞い上がる。土下座したまま、彼は必死で言葉を探した。  「あの時は俺、ほんと、無理だと思ってて。だけど俺…逃げるみたいなことは嫌だ…もしかしたらもう、もっと他に、いい人が見つかってるかもしれないけど、だけど多分、その人は苦労するし大変だと思う。だから、その! 今度は逃げないから、もう一度、俺に戦い方を教えてください!」  『……。』 しん、と静寂が辺りに落ちる。巨像は何も言い返さない。  代わりに、静かな威厳ある声が、すぐ側から聞こえてきた。  「その言葉、真実か?」 はっとして顔を上げると、巨像の向こうから半部透き通るような姿をしたカーエフラー王が、ゆっくりと歩み出してくるところだった。今日は花びらも待っていないし、召使いも、音楽隊も連れていない。あまりに静かな登場で、トトメスはしばし、本物かどうか迷ったほどだった。  岩の巨像が、低く唸った。  『王よ、まだ取り次ぎはしておりませんぞ。そのように御自ら気軽に出て来られては、偉大なる王の沽券というものに関ります』  「良い。余とトトメスの間柄なのだ、今さら体裁を取り繕うものでもあるまい。」 笑いながら、カーエフラーはトトメスの前に立つ。その時になってはじめて、トトメスは、王の姿が透けているだけでなく所々ぼやけ、欠けたようになっていることに気が付いた。  「あの、…陛下、どうしたんですかその格好」  「ふむ? これか。なに、肉体が無ければ余はただの死者であるからな。悪霊でもなければ、時と共に薄れゆくは世のことわりよ。はっはっは!」 相変わらず陽気に笑ってはいるものの、その声に以前のような勢いは無い。召使いたちの姿が無いのもきっと、連れてこなかったのではなく、「来られなかった」のが正解なのだ。輝く太陽の下で重ねる時は、死のことわりを越えて蘇った魂を急速に風化させる。それは神王と呼ばれた存在であっても同じことなのだ。  夏至の日を過ぎてからはや、数カ月。季節は移り替わろうとしている。どれほどの貴重な時間を無駄にしたことか。  「あの時は、…取り乱したりして、申し訳ありませんでした」 地面に膝をついたまま、トトメスは王を見あげて言った。  「今度こそ、役目を果たします。何をすべきかを教えて下さい」  「…ほう。少し見ぬ間に、一人前の男の顔になったな」 微笑んで、カーエフラーは手にした王杓をさっと、西の方角へ向けた。  「良かろう。ではまず、現状の戦況から伝えよう。」  「戦況?」  「そなたと別れてよりこのかた、混沌の攻勢が大きくなってきておるのだ。実際に見た方が早いであろう。船をこれへ」  『御意』 人面の岩が返事するとともに、参道の上を滑るように半透明な船が現れる。以前見た時と同じように、幻のような漕ぎ手や船員が操っている。  トトメスたちが乗り込むと、船はまるで空中を駆けるかのように空に舞い上がってゆく。見る間に小さくなっていく大地に、"聖なる墓所"の岩山が作る大きな三角の影が、長く延びている。  「あの形が何であるかは、知っておるか」  「えっと…はい、太陽柱の先端にあるものと同じ、ですよね? 太陽の光の形をしていて、…輝きを集めるもの、だとか」  「いかにも。太陽の輝きを受け、天と地を結ぶもの、と同時に、西より来る混沌をせき止めるものである。余の時代、秩序の綻びる時が近いことを知った王たちは、あの形をした人工の山を、或いは太陽柱を、この国の北から南の果てまでくまなく築かせた。しかしそれだけでは不十分であった。そこで、これらの墓所が築かれたのだ。――見よ」 カーエフラーが王杓を向けた先、まだ太陽の光の届いていない西の地平線に、黒々と蠢くものがある。  トトメスは、ぞっとした。今まで見て来た黒い靄とは規模が違いすぎる。地平線の全てを埋め尽くす闇は、それ自体が巨大な生き物のように見える。  「あれより生まれしものたちは、この国の中心たるこの地を目指し、日没とともにこの地に押し寄せる。我が兵らはそれを押しとどめておるのだ」  「兵?」  「我が墓所の周囲には家臣たちの墓がある。今はほとんど砂に埋もれて見えぬようになっておるがな。日没とともに蘇り、我が"聖なる墓所"を通じて分け与えた太陽の輝きを使って戦っておる。しかし、肉体なき亡霊である点は余と変わらぬ。使える力には限りがあり、そう長くは持たぬ。今のままなら、冬至を前にしてこの台地まで攻め込まれるであろう」  「……。」 空から見下ろす西の高台は視界の一辺でしかなく、地上からではあれほど巨大に思えた石積みも、地面に張り付いている小山ように見えた。台地の神の身体そのものたる地平線の長さに比べて、人の手で作られしものは、あまりにも小さい。  トトメスは南の方角、川の上流へと視線を転じた。都のある方だ。蠢く黒いものは南のほうまでずっと、広がっているように見える。  「あれはもしかして、この国全体に攻め入って来ているんですか。川の上流のほうにも?」  「おそらくはな」  「都は上流にあります。都では…」 トトメスは、言葉を切った。  「…不幸が続いているというんです。"忌憚の日"に、俺の異母弟が大怪我をしたとも聞きました。兄上も、母上も皆、問題を抱えてしまって…無事なのは父上くらいです。」  「なるほど。しかし、その都には、太陽柱は一つも無いのか? 都ともあらば神官たちが居るはずであろう。名は違えど、太陽の神が守護しているという話では無かったか?」  「…それは」 脳裏に、傲慢不遜なアメンエムオペトの姿がよぎった。それから、都の神官たちが役目を果たせていないというケペルカラーの言葉も。  黙ってしまったトトメスの表情に気づいて、カーエフラーは安心させるように言葉を継いだ。  「なに、案ずることはない。王家の者ともなれば、少なからず天の神々の守護は受ける。そなたの父上が壮健であるならば、その者は自らの身を護れるだけの加護を得ておるはずだ。そなたもだ、トトメス。そなたには、自らの身に降りかかるものを払うだけでなく、他人のぶんまで引き受けて余りあるだけの力があるのだぞ」  「あー、…それ、自分はあんまり嬉しくないやつですけどね…」 苦笑しながらも、トトメスの眼差しは真剣に地平線のほうを見つめている。  大軍と戦う方法なら、訓練所の教官が教えてくれた知識がある。けれど、それは生身の人間を、たとえば異国の軍勢を相手にする時の戦い方だ。  「カーエフラー王、俺には自分の身を護る力はあっても、戦う力がありません。…」  「今はまだ、だ」 見上げると、陽に灼けた頑強な顔がじっと、こちらを見つめている。「本当に、良いのだな?」  「正直、無理だと思ってますよ、今でも。貴方のようにはなれないです。だけど、…きっとこれは、俺がやらなくてはならないことだと思う」 もしもイウヌへ来なければ、何も知ることはなく、砂に埋もれた巨像を掘り出すことも、蘇った古代王と出会うことも無かった。全ての始まりは不運にあった。そしてその不運は、実際には加護の賜物でもあったのだ。  「余の力は、はるか古えの、この国の祖である神々より賜ったものなのだ」 カーエフラーは、静かに言う。  「神代の時代を生きた、天の神々の末裔。余の一族は、その血を引くがゆえに神王と名乗っていた。…余の力を使えるのだ、トトメスよ。千年のうちに薄まってはいようが、そなたにも、どこかで繋がっておるのだろう。それを目覚めさせるのだ。さすれば、そなただけでも戦えるようになるだろう」  「でも、具体的にどうすればいいんですか。陛下みたいに武器光らせるとか、俺一人じゃとても出来ませんよ?」  「ふうむ。具体的にか…そうだな…。余などは幼き時より自然に出来ておった。改めて言われてみると、どうやっておるのかは判らぬな」  「…それ、一般人には絶対無理なやつなんじゃあ…」  「ふっ、そのような顔をするでない。実際に使えておった時もあるのだ。そなたなら出来る。要は、自在になれば良いだけだ。まずは神官たちに聞いてみるのが良いのではないか? まあ、何とかなるであろう。はっはっは!」 豪快に笑いながら、カーエフラーはトトメスの背中をばしばしと叩いた。「さて、また少しそなたの身体を借りることになる。よろしく頼むぞ」  船はゆっくりと地平線に向かって降りて行く。夏よりもずいぶん低くなった太陽は、そろそろ天頂へと差し掛かろうとしている。  (そういえば、俺がイウヌへ来ることになったのも、表向きは神官の修行、という名目だった…。) トトメスは、ふいに出発前に父王に言われたことを思い出していた。  「他にも何でも、気の向くことを始めてみるが良い」 そう言ってくれた時、父は、こうなることを予見していたのだろうか。  岩の巨像のところまで戻って来ると、ちょうどベセクが、トトメスを探しにやって来ていた。像を見あげていた彼は、参道を歩いてくるトトメスに気づいて小走りに駆けて来る。  「どこ行ってたんですか、トトメス様。急に姿が見えなくなったから心配したんですよ」  「また穴にでも落ちてるんじゃないか、って?」 にやりと笑って、彼は後ろの、聖なる墓所の高い石積みを見あげた。「ちょっとね、あの辺りまで行ってみたんだ」  空を飛んできた、などと言うわけにもいかないから、このくらいしか伝えようがない。  カーエフラーの幻の船は、地上からは目にすることが出来ない。乗っている間はトトメスの姿も消えている。それにベセクには、側の巨像がちらちら、こちらを見ていることも気づいていない。  「今日はもうお戻りですか」  「いや。もう少しこの辺りにいるよ。少し一人にしていてくれ。ベセクもゆっくりしているといい。用があれば声をかける」  「そう…ですか? では…。」 軽く頭を下げ、ベセクは離れてゆく。ここのところ主人の雰囲気が変わったことに、少し戸惑っているのだ。一人にしてくれと言い出すことは以前からよくあったけれど、そういう時は大抵、部屋に閉じこもってふて寝をする時だった。今は、どこか遠くを眺めている。  巨像の影に腰を下ろし、トトメスは空に目をやった。  黒々とした亀裂がすぐ近くに見えている。浮かぶ船から間近に見るそれは、地上から見るよりもずっと禍々しい。もぞもぞと蠢いて、まるで、無数の腕が天の女神の青く透き通る身体をまさぐっているかのようにも見える。  『…これから何が起こるのか、余が千年前に体験したことを話そう』 トトメスの中から、カーエフラーの声がする。妙に懐かしい感覚だ。  『始まりは我らの世代より百年ほど前、太陽神殿の予言の巫女が、王国の崩壊を告げたことだった。神代の終わりより千年の時を経て、神々の作りし秩序が綻びつつあるのだと。天地の間を流れる時の歪みが大きくなれば、太陽は輝きを失い、人の世は混沌に沈む。代々の王たちは、試行錯誤を繰り返した。幾つもの塔を建て、太陽柱を建てさせた。天へ届く巨大な階段を作らせた者もいる。しかしそれでは足りなかった。太陽の光が陰ることが多くなり、川の水位が高くならぬ年が続いた。人々の心に不安が募った。そして遂に、その時が訪れた――空が、割れ始めたのだ。そしてそこから、原初の時より姿を消していた、混沌が染み出し始めた』  「今見えているように、…ですね」  『そうだ。人々の心に不安が募れば、その隙間に混沌が入り込む。見えぬ敵は倒すことができぬ。王の威光あれども、人心を束ね不安を消すことは容易くは無かった。そこで我が父、偉大なる王は、太陽のもとへ昇るための聖なる墓所を作ることを思いついたのだ。輝く威容を放つこの装置は、目にするあらゆる者を圧倒するであろう。二十余年の歳月を費やして作られた、あれは――太陽の輝きを奪う者どもを打ち倒し、失われた輝きを取り戻させるまでの時間稼ぎであった。それとともに、天へ至り、真の敵を打ち倒す足がかりともなってくれた。』 カーエフラーの意識は、空に走る亀裂の向こうに向けられている。  『真の敵とは、以前話した、太陽を飲み込む混沌の蛇である。そう、あれは確かに"大蛇"であった。そうとしか見えぬ代物よ。まさに神代の神話にあるがままの姿であった。我が父は――天へ昇り、見事にそれを討ち果たし、そして太陽の一部となったのだ。』  「死んだ、ってことですか」  『いいや。生きながらにして神の一部となったのだ。ゆえに、王の称号には太陽の息子(サァ・ラー)が使われるのだ。太陽となりし王の血脈に連なる子ら、という意味でな。』  「……。」 知らなかった。  ――いや、形ばかりは知っていたが、意味までは深く考えていなかった。神話では、古えの王たちは創世の神の子孫ということになっている。全ての神々の父である太陽、その血脈に連なる神と人間たち。ただ王の肩書に箔をつけるための謂れだと、思っていたのだが。  『混沌の蛇が空にある間は、太陽の運行は妨げられ、時は正常に刻まれぬ。地上には混沌がはびこり、人心は乱れ、守護の神々の力も半減するのだ。現世に出現すれば、一刻も早く叩かねばならぬ。ゆえに余は、再び千年後に来たるであろうその時のためにと、余は、余のために父上と同じものを作らせておいた。そして、その中で眠りについたのだ。』  「じゃあ、本当に、今押し寄せてきているあの黒い霧のようなものは、ただの"前哨戦"なんですね。…その混沌の蛇、というのは、もっと強い…ってことですか」  『その通り。この世の秩序を根底から破壊するほどの力を秘めているのだから、当然である』  「ううっ…。」 トトメスは、両手で肩を抱いて体を震わせた。  「なんか、ぜんっぜん勝てる気がしないんですけど…」  『まさか、やはり止めるなどとは言い出さないであろうな?』  「言いませんよっ! 言いませんけど、駄目でも恨まないで下さいよ。やるだけのことはやりますけど。一応」  『相変わらず、気弱なことだ…』 頭上から、巨像がぼそりと呟く声がする。『我が王よ、本当にこの若者で大丈夫なのですか?』  『うむ! 心配は要らぬぞ。何しろ、この余が見込んだ男なのだからな。はっはっは!』  「……。」 トトメスは立ちあがり、腰の砂を払って日陰から一歩、外に出た。  残された時間は、あと数カ月。カーエフラーの話のとおりなら、もし自分が失敗しても、世界の全てが一瞬にして消え去ってしまうような事態にはならないはずだ。けれど、太陽の光が陰り、川の水位が高くならない時が続く――というのは、それだけで大問題だった。この国の命脈は、まさにそこに掛かっているのだから。そんな年が何年も続けば、いずれ国は崩壊してしまうだろう。  (今でさえ、都では今までになかった不運な出来事が起きている。もしそれが国全体に広がれば、…きっと、酷いことになる) ――そうならないために、自分がいる。
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