第22話  トトメス王子、瞑想の間にて闇の奥に幻を見るの由

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第22話  トトメス王子、瞑想の間にて闇の奥に幻を見るの由

 イウヌへ戻ったトトメスは、真っすぐにケペルカラーのところへ向かった。いつもの如く部屋の扉は開け放たれたままで、トトメスは何も考えずにそのまま中まで踏み込んだのだ。  けれど今日は珍しく、来客がいた。  どこか別の神殿からやってきた様子の神官で、なにやらケペルカラーに挨拶しているところだった。  「あ、…」 神官は振り返り、トトメスを見ると、はっとした様子で頭を下げた。そして、足早に部屋を出て行く。入れ替わるようにして、トトメスは大神官の前に立った。  「すいません。お邪魔してしまいましたか?」  「いいや。もう、帰るところだったので問題はない。まぁ、そこに座りなされ」 言いながら、さっきまで来客が腰を下ろしていたらしい床を指す。床の他の部分には巻物が散らばっていて、足の踏み場もない。こまめに掃除に来ている掃除係のメリラーがこれを見たら、さぞかし嘆くだろう。  「あれは…ここと同じ、太陽神の神官ですね」 腰を下ろしながら、トトメスは去っていった神官の格好を思い出していた。  「ここからもう少し下流のほうにある分社の者だ。神託の件で、この大神殿より伝令を走らせているところなのだ。都からの返信も何も来ず、何の指示もない。このままでは、(きた)るべき日への対処も出来そうにないので、こちらで独自に動くつもりだ」  「世界の終わり――冬至の日、ですね」  「うむ。」 ケペルカラーは頷いた。「古えの王に聞いたのだな。どこまで知っておる?」  「多分、だいたいは。千年前、その時を予言したのは太陽神殿の予言の巫女だったんですよね?」  「うむ…。」 老神官は、小さく頷いた。  「さすがに千年も前となれば、当時の記録はほとんど残っておらん。ただ、主要なところは伝わっておる。…"混沌の蛇が空より降りて来る。太陽を飲み込み世界は闇に包まれる。"…千年前には、その危機は古えの神王によって回避されたという。聖なる墓所より古えの王が蘇る、という伝説が真実であったなら、再び神王によって混沌は封じられるのだろう」  「まあそう、…そのはず、だったんですけどね」  「ん?」 トトメスは、視線を逸らしながら頭をかいた。  「言いにくい話なんですけど、なんか、どうも、カーエフラー王の力だけじゃ足りないらしいんですよね…。」  「……。」  「それで…あの、俺も手伝おうと思うんですけど…なんかこう、修行のやり方とかって、判ったりします?」  「……。」 しん、と沈黙が落ちた。  ややあって、ケペルカラーはわざとらしいほどに大きなため息を吐き出した。  「はあぁあ…。トトメス王子…、神官の修行というものは、一夕一朝(いっちょういっせき)に出来るものではありませんぞ。まさか、ちょっと三日ほど断食して瞑想でもすれば何か特別な力が付くとでも思っとるんじゃなかろうな…」  「うっ。」  「本来なればそれはそれは厳しい鍛錬というものが。見習いは神像磨きに神殿の掃除、書き取り座禅参拝者への奉仕、それから…」  「わ、判ってますよ! 必要なことがあれば、やりますか――ら…」 言いかけて、トトメスはケペルカラーのほうが先に、耐えきれずに噴出したのだ。  「くっくっくっ。ぷぁっはっは」  「――へ?」  「冗談じゃよ。前にも言ったじゃろ。こういうことには"適性と年季"が必要なんじゃ。お主には適性はある。それに、生まれてこのかた、冥界の獣と同居してきた年季もある。ならば難しいことは何もない。わしに任せておきなさい。明日の朝、またここへ来るように」  「はあ…」 信用していいのか、疑った方がいいのか判らない妙な能天気さのある口調だ。トトメスとしては精いっぱい、勝ち目の薄い、見込みの悪い状況であることを伝えたつもりだったのだが。  よく判らないまま笑顔のケペルカラーに送り出された翌日、再び戻って来たトトメスを待っていたのは、メリラーだった。  「今日から冥界の間へ入って貰うぞ。他の者は誰も入れぬようにするから、夕刻まで一人で瞑想するんじゃ」  「入り口には私がおりますから」 と、メリラー。「その…限界になられましたら、遠慮なく申しつけてください。扉を開けますから」  「うーん…瞑想…?」 瞑想の間には、以前、メリラーに連れられて入ったことがある。確かあの時は何人もの神官たちが、車座になって「冥界の書」の一節を唱え続けていた。  「だけど、俺、呪文とか覚えてないですよ」  「呪文はただの切っ掛けじゃ、唱えることは必須ではない。一日ここに座っておれ、それだけで良い。ではな」 ケペルカラーの話はそれだけで、清々しいまでに説明が無い。  それからあとはメリラーに連れられて"冥界の間"まで行き、中に入って、絨毯の上に座るだけだった。  背後で扉が閉ざされ、一人になると、四方から静寂が押し寄せて来る。今日はランプの灯りもなく、香も炊かれていない。無音無臭の世界だ。外の光は全く入って来ない、完全な漆黒が目の前に広がっている。  静かだった。  カーエフラー王の気配もない。この闇の中では、夜と同じで眠っているのかもしれない。  時間の流れも判らない。瞑想と言われても、特に考えることも無いのだ。  (眠くなりそうだな…) 目を閉じていても開けていても同じなのだ。トトメスは思い切って目を閉じると、身体の力を抜いた。きちんと座っているとだんだん尻が痛くなってくるが、これなら、一日持ちそうだ。  ふいにどこかで、ミシッ、と音がした。  慌てて顔を上げるが、当然ながら何も見えない。天井の位置も、壁も、全てが闇の中なのだ。壁には冥界の風景が描かれていたはずだが、その一部さえ判らない。  時間が経つにつれ、微かな不安が首をもたげてくる。まさか、天井が急に崩れてきたりはしないだろうか。暗がりから虫が這って出てきたりはしないだろうか。だんだん息苦しくなってきたような気さえする。ここは…どこだ? 本当に、夕方になれば出してくれるのか?  (いや、待て。落ち着こう) 彼は、大きく一つ深呼吸した。  (大丈夫。――何もない。ただの闇だ。一人で部屋に籠るのは慣れてる) 不安が遠のいていく。あとは、ただ、静寂だけが広がっている。  楽な気持ちで闇の中に座っていると、何もしていなくても、自然と感覚が研ぎ澄まされていくような気がする。目を開けているのか、閉じているのかはっきりしない。そのうち無限の闇の向こう側に、見えないはずの扉が見えて来た。不思議に思って見つめていると、それははっきりとした輪郭を持って、ゆっくりと彼のほうに近付いて来た。門の両脇には守護の翼を広げた女神たちがいる。  いつか冥界の王オシリスを祀る神殿で見た、二女神が守っている門だ。  左右から扉を護る女神たちの横顔は端正で、この世ならざる者の美しさを持っている。怜悧な眼差しは深く澄んで、赤みを帯びた唇や白い腕は、愛しい者を包む慈愛に満ちている。  その女神たちの顔が、ふいに、良く知った二人の顔に変わった。  (ネフェル…トイリ…?) 長い髪と洗練された美貌を持つ、心優しい少女がいる。  (それに、イアレト…?) くりくりした輝く瞳を持つ聡明な少女がいる。  (何で、ここに…) 思わず手を伸ばしかけた時、どこからともなく、花の香りが流れた。  気が付けばそこは、王宮の庭園の中だった。白い薄ぼんやりとした光が頭上から降り注ぐ。二人の少女は、目の前で、東屋の端に腰を下ろして何か楽しそうに話している。  ネフェルトイリが、顔を挙げて、トトメスを見た。そして、以前のように慌てて去っていくのではなく、こちらに向かって柔らかく微笑みかけた。  『約束、ですからね…?』  「――トトメス様、トトメス様」 肩を叩かれる感触と、耳元で呼びかけられる声が、彼を我に返らせた。  「あ、あれっ?」 目の前には、ランプを手にしたメリラーがいる。  「もう、夜ですよ。今日の瞑想はお終いです」  「え、何時の間に…?」 外に出ると辺りはもう真っ暗で、濃紺の色をした夜空には星々が輝いている。  本当に、一日が終わっていたのだ。  「ううーん…。何だか、夢でも見ていたみたいだなぁ」 言いながら、トトメスは 一日中座っていてこわばった体を大きく伸ばした。  「本当ですか? 流石ですね…私など、半日持たずに、あやうく発狂しそうになりました」  「え? 発狂?」  「闇は人の心を狂わせるものなんです。真っ暗なところでじっとしていると、大抵の人は見えもしない幻を見たり、聞こえもしない音を聞いたりするんですよ。あそこに籠った先輩の神官たちが呪文を唱え続けているのも、闇に慣れるまでは、そうしないと正気を保てないからです。」  「へえー。あ、幻なら視たな。すごく…綺麗だった」  「綺麗?」  「冥界の門を護る二女神を視たんだよ。いやー、美人だったな」 がたん!  突然、後ろのほうで、何かが落ちた音がした。  「…え」 トトメスはぎくりとして、思わず肩を竦めた。そういえば、この冥界の間のすぐ後ろには、冥界神を祀る神殿の入り口があったはずだ。  「…女神様たち、聞いておいでだったのかも」  「ま、まさか。はは…」  「ええと。でも、悪口じゃないですからね。大丈夫、ですよ。たぶん」 慌てて逃げるようにその場を離れながら、トトメスは、傍らを行くメリラーに尋ねる。  「それで? 明日はどうすればいい」  「はい、大神官さまからは、しばらく瞑想を続けるように、とのことでした」  「これを毎日か…。まあ、神官の修行らしいって言えばそうかもな。経典の書き取り千回、とかよりは楽だな」  「楽…ですか…」 メリラーは、何故か苦笑している。  「トトメス様は本当に、凄い方ですよね…。」  「図太い、の間違いじゃなくて? あ、そう言えば今日、昼餉を食べてないな。夕餉は何だろう…考えたら腹が空いて来たよ」 足早に神殿の敷地を横切ってゆく二人の姿を、昇り始めた月が、静かに見下ろしていた。  それからというものトトメスは、毎日のように冥界の間へ通った。  それで何が出来るようになるかさっぱり判らないのだが、言われるままにするしか無かった。決まって朝早くから日が暮れるまで、一日中、一人で闇の中に座り続ける。  幻は、確かに一日のうちに何度も現れた。  時に獣や人の形で、時に耳障りな音として、周囲で何かが起きるのだが、トトメスはぼんやりそれらをやり過ごすだけだった。  闇ならば、慣れている。一人で部屋に籠っているのも、よくあることだった。恐ろしげな幻も、実際に寝台の下に棲んでいるものに比べたら可愛いものだ。それに、ここなら自分に悪いことは起こらない、という妙な安心感もあった。  何しろここは「冥界の間」なのだ。冥界で最強の守護獣がついているのなら、恐れるものなど何もない。  「拍子抜けするなな。あんなもんでいいんだろうか」 八日目を迎えた夜、家に戻って遅い夕餉を平らげながらトトメスは首を傾げていた。話を聞いてくれているのはイアレトだ。神官たちに借りて来たという巻物を読んでいるうちに遅くなってしまったらしい。ランプの灯りまで使って、相変わらずの勉強熱心だ。  「瞑想って、己の内側と向き合う修行なんだって神官さんたち言ってたよ。これまでの自分の行いや失敗を見つめなおすことなんだって。兄さま得意でしょ、そういうの。何か失敗したらいっつも、お部屋に閉じこもってひとり反省会してたから。」  「えぇ…。そんなんで修行になるのかなあ…。」  「でも、闇も無も怖くない。でしょ?」 イアレトの瞳が、意味ありげに輝く。  「兄さまは――本当は、他の人より心が強いと思うんだ。だって王宮に居た頃、あんなに皆に色んなこと言われてたのに、気にせず笑ってた。そのせいで、あんまり反省してないんだ、なんて母さまに勘違いされて怒られてたけどね」  「そう、だったかなぁ…。」 マイアが作り、ベセクが火にかけて温め直してくれた汁をすすりながら、トトメスは首をかしげていた。  まだ半年と少ししか経っていないはずなのに、都での日々は、やけに遠く感じられる。それに、いつも笑顔で居られたけではない。それなりに落ち込んで、傷ついて、失敗のあとは愚痴を言いながら部屋でゴロゴロしていた。得るもののない日々だと思っていたあの頃にも、何か、意味はあったのだろうか。  「…そういえばイアレト、今日は一体なんの勉強をしているんだ? ずいぶん難しそうな巻物だな」  「あっ、これ? これはねえ、暦の計算の仕方だよ。面白いよー兄さまもやってみる?」  「うっ…」 以前、カーエフラー王に聞かれた時に全く分からず呆れられたことを思い出し、トトメスはパンを喉に詰めそうになった。だが、出来ないというと兄として面目ない。慌てて、彼はそれなりに知っていそうな顔を取り繕った。  「ま、前に、ちょっとやってみたことは…あるぞ? 例えば、そう、太陽と月の暦の違い、とか…。一年は本当は三百六十と五日じゃなくて、一日の七十分の一を足しただけ余計に多い。だろ?」  「わあ、さすが兄さまね。そう! そうなの。一日の七十分の一を三百六十倍すると、五日が出来て、あと一日の七十分の十だけ余ってしまうの。だからね、それを七回繰り返すと一日がもう一度、出来てしまうのよ。だからそのぶん、暦と日がずれていってしまうの」  「……??? う、うん…?」  「でね。本当は、七十分の一を七回繰り返しても、余りがあってね。太陽が世界を巡る周期が――」  「……。」  「あっ、ごめんなさい。兄さま、疲れてたんだよね。またこんどね!」 巻物を拾い上げ、イアレトは笑顔で部屋に引き上げていく。残された小さなランプの灯りを前に、トトメスは、しばし固まっていたあと、ゆっくりと動き出し、額に手をやった。  (駄目だ…、ぜんっぜんついていけない…。あいつ本当に、数学の女神(セシャト)の申し子かなんかじゃないのか…。) 王宮に連れ戻して、無理やり誰かに嫁がせるなんて勿体ない。もし許されるなら、ここか、どこかの神殿に女神官として所属させるのがいいような気がする。  (落ち着いたら、母上に手紙を書いてみるかなあ。余計なこと言うなって怒られるかもしれないけど…。) 残りの夕餉を平らげてしまうと、トトメスは、ランプを手に立ち上がった。食器は、あとでベセクが片づけてくれるはすだ。  家の中は寝静まり、しん、とした闇が落ちている。  ずっと夜明けとともに目を覚ます生活をしていたから、夜がこんなに暗いことを忘れかけていた。月が明るく輝くことも、夜空に広がる天の女神の身体には、彼女の子供たちである無数の星々が一面に輝くことも。  昼と夜は背中合わせで、表裏一体の分かつことのできないものなのだ。おなじ一つの世界の別の顔。昼が過ぎれば夜が来る。夜があるから昼もある。  日々は過ぎ、――やがて、九日目がやって来た。  「修行は今日で終わりになると思います」 いつものように冥界の間までトトメスを連れてきたメリラーは、そう言った。  「先輩たちもそうでした。この瞑想の修行は、九日目でお終いなんです。もっとも…九日目を終えて無事に出て来た者は、あまり居ないのですが…。」 前日までと違って、メリラーは少し不安そうだった。「己と向き合うことが出来なければ、最後の日は乗り越えられない、と大神官さまは仰っていました。」  「ふうん? でもまあ、やらなきゃ先に進めないんだろ。行ってくるよ。それじゃ」  「…お気をつけて」 穴の中に潜り込み、床に敷かれた絨毯の真ん中に腰を下ろすと、彼は、ぼんやりと闇の奥を見あげた。  (結局、これで何が変わったんだろう…) 正直、これでカーエフラー王と同じような力が手に入るとは思えない。  (だいたいさ…武器が光るって何だよ…。人間じゃないよあれ) 今日で最後だと言われたこともあり、暗闇の中で膝を抱えていると、昨日までは無かった不安が募っていく。  もしかしたらケペルカラーは、楽観的に考え過ぎなのかもしれない。今日が終わって何も起きなかったら、何か別の修行があるのだろうか。期待されて、期待に応えられずにがっかりされるのは、もう…  「無理でしょ、あんたには」 びくっ、となってトトメスは思わず振り返った。闇の中からクスクス笑う声が響いてくる。ネジェムの声だ。  「自分の意思では、何一つ満足に出来たことがない。お前も父上の子だというのに。それでは皆に示しがつかない」 兄、カエムワセトの声。  「どうしてあなたは、いつもそう…」 涙ぐむ母の声。  「トトメス兄上のことはよく知りません。狩りに誘っても来ないので。」 そう言って無邪気に笑う、ウェベンセヌの声。  「あの王子は全然だめだよ。見目は麗しくないし、頭も並みだ。要領が良いわけでもなければ、戦いに向いているわけでもない」 ひそひそと噂する王宮の人々の声。  「陛下も呆れて関わり合いになりたがらない」  「何をやっても失敗するんだ。ティアア様は悪い癖を直そうと、毎日神殿に通っておいでだよ」  「それも、ここぞという時にね。あんなのと婚約させられたら、ネフェルトイリが可哀そうだよ。」 王宮に居た頃は、このくらい何でもないと思っていた。  けれど改めて耳にすると、すべての言葉が突き刺さる。悪評、中傷。イウヌでの暖かな日々と裏腹の、恐ろしい日々が蘇って来る。トトメスは胸を押さえ、その場に蹲った。  胸が痛い。  けれど不思議と、言葉を投げつけてくる人々への恨みや怒りは、湧いてこない。  自分の不甲斐なさが悔しかった。周囲の人々に迷惑をかけてしまったことや、何の言い訳も出来なかったこと。心配をかけ続けたこと。  (俺が何も分かっていなかったからだ。ごめん、ネフェルトイリ。兄上…母上…迷惑をかけてしまって)  ふいに闇が晴れ、薄ぼんやりした光の中に懐かしい、王宮の風景が広がった。俯いていたトトメスは、驚いた顔を上げる。  真ん前に、玉座に腰を下ろし、肘掛に片腕を載せた父が居て、こちらを見下ろしている。  そこは謁見の広間だった。どこかからくすくすと、あざ笑うような声が聞こえて来る。ひそひそ話、こちらに投げかけられる冷たい視線。玉座のすぐ側には青ざめ、やつれたカエムワセトが陰鬱な顔で俯きがちに立ち、その向かいにはティアアが、手扇で半分顔を隠しながらトトメスから目を背けるように立っている。そして一段低い玉座の足元には、片足に添え木をして杖を抱えたウェベンセヌが泣きはらした目で縋りつき、立派な衣装を着て丸々と肥えたネジェムが、かつての端正な顔立ちを失いかけた脂ぎった顔で、くちゃくちゃと何か食べ物を頬張っている。  驚いて、トトメスは変わり果てた王家の一家の姿を見つめた。辛うじて威厳を保っている王を含め、誰一人、幸せそうには見えなかった。一体、これは何なのだろう。幻にしてはあまりにも現実的で――どうして、こんな光景を?  「お前は何故、ここにいるのだ。」 父の重々しい声が、射抜くような視線とともに頭上から降って来る。  「何をしにやって来たのだ、トトメスよ。何一つ満足に成すことの出来ぬ出来損ないのお前に、ここに入る資格があるとでも思っているのか」 唖然として、トトメスはアアレペルウラーを見つめた。確かに見た目はそっくり、そのままだ。けれど、その口から吐き出された言葉は、信じがたいものだった。  「……。違う」  「何が違う。申してみよ。お前は――」  「違う。お前は父上じゃない」その場にすっくと立ちあがり、トトメスは、逆に玉座の上にある男を睨みつけた。「本物の父上なら――アアケペルウラー陛下なら、そんなことは言わない! 父上は、ぐずぐずして自分から出かけることも出来なかった俺に、自分で道を探してみろと言って、信じて送り出してくれたんだ!」 さわさわと、周囲で声が渦巻く。くすくす笑う声や、指さして笑う声が大きくなっていく。けれどトトメスは、ぐっと喉を逸らしたまま玉座と、その周りに侍る家族の姿を睨みつけたまま立ち尽くしていた。  「お前は何者だ」 王の姿をした幻が訊ねる。  「王宮から追い出された、不出来な王子ではないのか? そうでないというのなら、お前は一体何なのだ?」  「俺は、…」 かつて何度も口にして来た、けれどそのたび自分の意味を疑っていた。  けれど、今なら確信を持って言える。  「上下の国の王、太陽の息子(サァ・ラー)、アメン神に愛されし者、アアケペルウラー王の息子。我が生まれ名はトトメス、不運にして幸福なる者、そして、冥界の獣に守護されし者だ!」  そうだ。  自分が何者かなど、もう、…迷わない。   ふいに周囲の風景が、光の粒となって崩れ始めた。王宮の柱が、壁が消え、足元の床が溶けてなくなっていく。玉座も、王と家族の姿も、真っ白な輝きの向こうに飲み込まれる。慌てて手辺りを見回したトトメスは、自分の身体まで光に包まれているのに気づいて、悲鳴を上げた。  「わぁっ?! 手、手が消えて…! 嘘だろ?!」 目の前が真っ白になっていく。身動きが取れないまま、成すすべもなくその中に飲み込まれる――。  「トトメス様! トトメス様、しっかりしてください。」  「…へ?」  「ああ、やっと起きた…。」 目の前にはランプを翳したメリラーがいて、もじもじしながら視線を逸らす。「あの、…よだれ、拭いたほうがいいと思いますけれど」  「んあっ?! い、いつの間にか寝てた?」 あたふたと寝転がっていた絨毯から起き上がり、袖口で口元を拭いた。周囲の壁際には、最初にここへ来た時と同じようにランプが並べられ、壁の浮彫が見えるようになっている。  間違いない。ここは、元いたままの"冥界の間"だ。  まだぼんやりしたまま、不思議そうに壁を見回しているトトメスの前には、ケペルカラーが笑顔で正座している。  「あ、…あの、途中で寝てしまったのはやっぱ…やり直し…ですかね」  「いいや?」 笑顔のまま、老神官は布に包まれたものを彼に差し出した。「試練は、無事、終えられた。さ、これをお手に」  「…はあ、…何ですか、これ?」  「我が神殿にて保管しておった、古えの宝剣じゃ。と言ってもなにぶん古いものでな。つい最近、向かいのメンネフェルの街で打ち直してもらった」 布をほどいて見ると確かに、黄金色に磨き上げられた剣が現れた。腕の半分ほどの長さで、剣というには短すぎ、短剣というには刃が広い。  「神殿に剣って、なんか変ですね…。あ、でも太陽の色だから、そういう縁起物とかですか?」  「ま、似たようなものじゃな。それはお主が持ってゆかれるべきもの。わしらが出来ることはこれだけじゃよ。ほれ、ちょいと振ってみなされ。」  「はあ」 言われるままに軽く振ってみると、先端から微かにきらきらと、光の粒が零れ落ちる。  「……。」 ぎょっとして、トトメスは思わず手をとめた。僅かだが、切っ先のほうが光っている。  「えっ?」  「おおお…」 メリラーは感動のあまり、床に身を投げんばかりだ。「すごい…トトメス様、やっぱりただの人じゃなかった!」  「い、いやいや。おかしいですよねこれ。普通武器って光ったりしないですよね? え?」  「はっはっは、まあ、そうだな。普通はな。お主が普通じゃないだけだな。」 老神官はいつもの調子で、まるで大したことでもないと言わんばかりに陽気に笑っている。  そして、ふいに真面目な調子になった。  「闇の中で己を見出すこと。それが、この冥界の間の試練の意味じゃ。不滅なる太陽の如く、闇の中で一度死に、新たに生まれ変わるという儀式でもある。お主は幻の中で、真の己を見つけたはず。そして生まれ変わったのだ。へと」  「……。」  「ここへ来られた時から、ただの偶然では無いと思っておったよ。冥界の獣を従えし王の御子、天の神々の末裔(すえ)に連なし御方、予言されし生ける鷹神(ホルス)の似姿。――災いを打ち払う者とは、お主をおいて他にはおらん。全ては天の神々の御心のままに、じゃ。」 くしゃり、と深い皺を寄せて笑ったケペルカラーの表情に、つられてトトメスも苦笑した。  「…あんまり期待しないでくださいよ。ここぞという時にドジを踏むのが俺なんですから」  「そして何とか丸く収める、じゃな! 是非とも見せつけてやると良いぞ。お前さんの持ち前の"不運"をな」 暗がりから外に出る時、トトメスは、ふと、幻の中で見た憂鬱そうな家族の姿を思い出していた。  あれは、ただの幻では無かった。  イアレトやネフェルトイリから聞いたそのままの姿だったからだ。今がそうなのか、近い未来にそうなるのか。どちらにせよ、あのままでは玉座の主の未来は暗い。  それを変えられるのは、きっと、自分だけなのだ。
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