第23話 トトメス王子、人知れず初陣を飾り、己の力を試すの由

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第23話 トトメス王子、人知れず初陣を飾り、己の力を試すの由

 陽光を全身に浴びて立つのは、久しぶりのことだった。  実に一週間ぶりの昼の世界。もう夏ほど暑くはなく、川を吹き渡る風が心地よい季節だ。川の水は引き始め、その下から現れた黒く肥えた畑には、早くも麦の種が撒かれ始めているところもある。  「うーん」 大きく伸びをして、トトメスは光に手を翳した。西の高台の、巨像のすぐ側の廃墟に腰を下ろして川の方を眺めている。傍らには、ケペルカラーに貰った剣。それから弓と槍も、実戦用のものを借りて来た。  高台の端にある、古い砂避けの壁の前には、壁に沿って一列に、射的用の的が並べられている。  「あっ、トトメス様。来ましたよ」 準備をしていたベセクが、丘を上がって来る一団に気づいてトトメスに声をかける。馬を引き連れたメンナと、戦車を押し上げて来る彼の元同僚たち。この広々とした台地で走らせてみたい、という名目で頼みこんで、川の対岸の訓練所から借りて来たのだ。  「お待たせしました!」 メンナが白い歯を見せて笑う。  「いま、馬を繋ぎますからね。でも、いいんですか? ずいぶん時間がかかってしまいました。今から走らせていると夕方になってしまいますよ」   「うん。それでいい」 太陽は天頂を過ぎ、西のほうへ傾きつつある。カーエフラーの話では、毎日、夕刻になると西の方から"混沌"が押し寄せて来るのだという。神殿で得たばかりの力がそれらに通用するのか確かめるのが、今回の目的だった。もし、それらにも敵わないようであれば、これから現れる"混沌の蛇"と戦うなど、夢のまた夢になってしまう。  『戦車を使おうとは、思い切ったことを考える。余の時代には無かった戦法だが、確かにあれなら走るよりずっと早い』 頭の中からカーエフラーの声が聞こえて来る。  『戦い方は任せるぞ、トトメスよ。余は力を貸すのみにとどめる。ただしそなたに死なれては困る。どうしようもないとなれば、無理をせず、余に任せるのだ』  「大丈夫ですよ。戦車から落ちるくらいの不運ならあるかもしれませんが、ただじゃ転ばないのが俺なんで。多分その時は、落ちる先が敵の総大将の目の前なんですよ。きっとね」 微かな笑い声。  『ふっ。…普通は在り得ない、と言いたいところだが、そなたなら本当にありそうに思えるな。』 トトメスは傍らに置いた剣を取り上げ、鞘から抜いてみた。何の変哲もない磨き上げられた金属だが、彼が意識を集中させると、カーエフラー王の武器がそうであるように、微かに太陽に似た輝きを帯びる。  「なんか変な感じですよ。陛下の力を借りてない時でも、自分の意思で光ったりするの。まあ便利っちゃ便利なんですけどね、夜中に用を足しに行く時とか」  『……。そなたは、まず自分の力の価値を、もう少し…だな…』 砂混じりの風が、西のほうから吹き抜けていく。  『むっ』 トトメスが背中に冷たい気配を感じるのと、カーエフラーの意識が西のほうに引き寄せられるのが、ほぼ同時。  頭上から、背の高い岩の巨像が重々しく告げる。  『王よ、出ましたぞ。』 トトメスは、側の崩れかけた神殿の壁に駆けあがり、風の向こうに目をこらした。  日の影り始めた空の下、西に沈みゆく太陽が沙漠の岩や窪地を照らし、影が東へ向かって長く伸びている。その中から、無数の黒い靄のようなものが立ち上がろうとしているのだ。砂嵐が湧きおこり、太陽の光を弱めている。その中を霧は、こちらに向かって押し寄せて来る。  周囲の風景が色あせて、雑音が消える。空を飛んでいた鳥の羽ばたきが停止する。  トトメスの見ている前で、高台のあちこちの砂の中から、半透明な兵士たちが次々と這い出して来る。  "聖なる墓所"の周囲に隠された、古代の墓から蘇った死者たちだ。みな武装して、手に弓や槍を握っている。どこからともなく進撃のラッパが鳴り響き、弓兵たちが砂止めの壁の前に整列する。  『弓兵、用意――!』 カーエフラーの朗々たる声が告げ、復唱してゆく。  『うて――っ』 雨の如く矢が降り注ぎ、押し寄せる砂嵐の一部が破れたが、勢いはそれほど弱まらない。弓兵たちがギリギリまで引き付けている間、後ろで槍兵が構え、そのさらに後ろには、盾と剣を手にした分厚い皮鎧の兵が控えている。  沙漠の入り口にある壁を防衛線にして、混沌と古代兵たちは激しくぶつかり合う。  初めて目の当たりにする戦場に、トトメスは圧倒されていた。毎日、夕方になるたびに、人知れずこのような見えざる攻防が繰り広げられていたのだ。ただ話に聞くだけなのと、自分がそこに居るのとでは違う。  けれどこれは、訓練所の教官から聞いた、生きた人間たちの戦いとは違う。既に死者である兵たちは、たとえここで倒されても死にはしない。生き物ではない混沌のほうも、切られたり、突かれたりしても弱って四散するだけで夜の間に回復してしまう。  そして、――この戦場は、実際には千年前の戦術と武器で出来ている。  『日増しに強くなりおる…夏ほど時間の余裕もない。やはり、余らの力だけでは足りぬか』 カーエフラー王が苦々しい声でつぶやくのが聞こえる。トトメスは、ちらと後ろのメンナのほうを見やった。馬車はちょうど、支度が終わったところのようだった。ベセクも、メンナも、彼の同僚たちも、そして馬も、停まった時の中にいる。心棒に繋がれた馬は片足を上げ、手綱は乗り台の上に結ばれている。  「出ますよ、俺」 トトメスが戦車に近付いて手綱を手にすると、途端に馬が動き出した。時のこちら側へ連れて釣られたのだ。とつぜん周囲の雰囲気が変わったので、驚いて目をぱちぱちしている。トトメスはその首を叩いて、安心させてやった。訓練所で何度も戦車を乗り回していたのだ。初対面ではないし、慣れている。  『うむ。では、参ろう』 弓を手に、トトメスはゆっくりと戦車を駆けさせ始めた。本来は二人乗りだ。一人が手綱を操り、もう一人が弓を扱う。けれど今は、自分ひとりしかいない。乗り台から放り出されないためには、身体を支える革の帯でしっかりと腰を固定しておくしかない。  車輪が砂の上でがたがたと音を立てる。地面の上に、細かい石が沢山落ちているせいだ。  (あまり速度は出せないな。…ただ、それでも十分だ) 混戦になっている壁の辺りに視線を固定し、彼は、大きく手綱をしならせ、馬を駆けさせた。そして、近接の剣兵とぶつかりあおうとしていた砂嵐の中に真っすぐ突っ込んでいく。  「どけ! 道を開けてくれ!」 亡霊の兵士たちが慌てて後ろへ下がる。思い切り走らせた戦車が、黒い靄や影を力任せに跳ね飛ばしてゆく。壁際に密集していた敵は急に撤退することもできず、成すすべなく蹂躙され、混乱に陥っていく。  元兵士だった訓練所の教官の言った通りだ。戦車は、実際に敵を倒す数よりも、敵の戦意を喪失させるのに絶大な威力を持つ。  揺れる戦車の上から弓を構えると、トトメスは、訓練で何度もやったように走りながら敵を狙った。矢は微かな輝きを帯び、押し寄せる砂嵐の中に光の軌跡を描く。カーエフラーの意識に体を任せていた時よりも、引き絞る腕が以前よりずっと軽い。自分の身体を自分の意識で使っている時のほうが、意識と動作の間に時間差が生まれないのだ。  突破されようとしていた槍兵の列が勢いを盛り返してきた。壁際のせめぎ合いは、紙一重攻防ではなく、亡霊の兵士たちが余裕をもって押し返せる状態になっている。  やがてゆっくりと時が動き始め、太陽の輝きが赤く、炎の燃え盛るような色に変わった。沙漠を渡る風の気配が変わり、辺りの風景と音が、元のように戻って来た。  亡霊たちは武器を下ろし、一人、また一人と、砂が崩れ落ちるようにして姿が消えていく。今日の戦いが終わるのだ。  トトメスは戦車を巡らせると、速度を落とて通り過ぎながら壁際に建てられた的の幾つかを素早くか射落とした。  それから、ゆっくりと東の端の巨像の前まで戻って馬を止める。時が停まっていた間の出来事を見ていなかったベセクとメンナが、慌てて駆け寄って来る。  「トトメス様、いつのまに戦車を? もう高台の端まで行って来たんですか」  「いま、ご準備したばかりなんですが…」  「軽く一周してきた」 そう言って、彼は帯を外しながら乗り台から飛び降りる。ベセクとメンナは、一瞬で射抜かれた的の列を、驚嘆の眼で見つめている。  手綱をメンナに渡し、高台の端まで歩いていく。一時は高台のすぐ下まで迫っていた大河の水位は下がり、畑と水路の彼方に、きらきらと西日を反射しながら流れている。  『どうやら、その力を扱うこと自体は問題なさそうだな』  「…ええ」  『陽が沈む。余は…そろそろ眠る。では…また…な』 カーエフラーの意識の気配が消えて行く。  トトメスは、空を見上げた。  日が短くなるのとともに、カーエフラーが目覚めていられる時間は減り、太陽の光も弱まっていく。  秋が深まるにつれ、空の亀裂は次第に大きく、そして深くなってゆく。  (少しは戦えるようにはなった。…でもきっと、これではまだ足りないのだろう) ただの人間が、古えの神王と呼ばれたカーエフラーの一族でさえ手を焼いたものに挑むには、この程度の奇跡では足りない。  それからトトメスは何度も高台に通い、幻の兵たちとともに押し寄せる混沌に立ち向かった。太陽の輝きが弱まっていくのと反対に、敵は力を増していく。カーエフラーがそうだったように、蘇る兵たちの魂も少しずつ傷ついて薄れ、夕刻に姿を現す数が減っていく。"聖なる墓所"の力をもってしても、生きた身体のない亡霊たちを長く現世に留めおくことは出来ないのだった。  時は容赦なく過ぎて行き、風に冷たいものが混じり始め、畑にまかれた麦は緑の芽を延ばし始めた。  冬の訪れ。  その年、"黒い土の国"は、普段より早く厳しい寒さに直面することになる。
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