第24話 トトメス王子、天の割れ目より降りくる混沌の姿を見るの由

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第24話 トトメス王子、天の割れ目より降りくる混沌の姿を見るの由

 冬に入ってからというもの、寒さは日増しに厳しくなり、街を行く人々は早めに毛織物の上着を身に着けるようになっていた。  不浄だからと動物の毛の着物が禁止されている大神殿では、神官たちは厚手の亜麻布を何枚も羽織り、サンダルの下に靴下を履いて、ぶるぶる震えながら日々の聖務をこなしている。  老齢の大神官の部屋には、滅多に使われない火を入れた器が置かれ、窓や扉が閉ざされた。うっかり火を倒してしまわないように面倒を見ているのは、下級神官のメリラーだ。  神官たちの宿舎の隣にあるトトメスの仮住まいでも、火の燃えている暖かな台所の周辺は皆の憩いの場になっており、イアレトは台所の隅に椅子と卓を持ち込んで、巻物を広げている。  トトメスは、都から持って来た長袖の上着に身をくるみ、家の前で白い息を吐きながら空を見上げていた。  運動していれば身体は温まるが、休むとすぐに冷えてしまう。陽射しが出れば少しはマシなのに、ここのところ、空には重たく雲が圧し掛かったまま、滅多に晴れ間が見えないのだ。  『天と地の時の狭間が、開ききろうとしておる。間もなく奴が姿を現すぞ』 掠れた、カーエフラーの声がどこか遠くから響いてくる。  冬至の日が近づいている。日が短くなっただけでなく、千年前の魂が現世に留まっていられる時間ももう、残り少なくなってきているのだ。  『全ての準備は整った。今のそなたなら、きっと、に届く』  「……。」 握りしめた手が冷たい。不安でないと言えば嘘になる。でも、以前のように「無理だ」とか「どうせ失敗する」とは言わなかった。出来る限りのことをやってみるだけだ。それで駄目なら、カーエフラーが千年前に備えたことも、自分がこれまでしてきたことも、全てが無駄になる。  目の前を、神官がばたばたと走りすぎて行く。  よその太陽神殿の神官のようだ。隣の建物に駆け込んでゆくから、大神官に会いに来たのだろう。  ここのところ、ケペルカラーのもとを訪れる神官の数が増えている。毎日何人かは血相を変えて駆け込んでくる。詳しくは聞いていないが、下流の村々で流行り病が出ているのだという。それから、あまりの寒さに耐えきれず、家畜が倒れ始めているのだとも。  曇天続きで太陽の見えないことも、人々の不安を煽り立てていた。早すぎる時期にみぞれがちらつき、何か恐ろしいことの起きる前ぶれのようにも思えた。それでも混乱が起きていないのは、前もってケペルカラーが、「今年の冬は凶兆が出ている」と各地の神官たちに告げて回らせたからだろう。  「冬の間はより暗く、不幸が訪れるかもしれない。しかし不滅なる太陽は、必ず輝きを取り戻す。冬至の時が過ぎれば、春に向かって光は蘇る」 今は耐える時なのだ。信じて耐えていれば、必ず太陽の光は戻って来る。  (川の下流は、きっとそれで上手くいく。上流のほうは…、どうだろうな…。) メンネフェルより上流は、イウヌの大神殿の管轄外だ。太陽神殿もあるにはあるが、都の太陽神、アメンの大神殿からの通達の報が力が強い。都にもたらされたはずの神託に何の反応もないところからして、王は、その報せを意味の無いものとして退けてしまったのかもしれない。  (皆、無事だといいんだけど…。) あれ以来、ヘカレシュウからもネフェルトイリからも、他の誰からも手紙は届いていなかった。都のほうがどうなっているのという噂も。寒いこの季節は元々、人の動きが少ないのだ。風も強く、旅をするには向いていない。  (にしても、…寒ッ) 立っているだけで震えて来る。  狭い台所に集まるのも気が引けて、トトメスは肩をすぼめるようにして人の少ない神殿の敷地内へと歩きだした。  神殿の中では冬至祭りのための準備が進められていたが、寒さのせいで参拝者は少ない。  元々、当時は夏至と違って各家庭で静かに祈ることのほうが多い。弱まった太陽の輝きが来年の春、再び輝き出すようにと祈り、寒さに耐えた麦が、春の訪れとともに立派な穂を出すことを願う。冬は太陽にとって「死」の季節だ。迸る「生」を讃え、賑やかに夜通し大騒ぎした夏とは正反対だ。  特に行き先も決めずに歩いていたトトメスは、いつしか、敷地内で一番大きな主神殿の裏まで来ていた。アメンエムオペトを詰問する時にも使われた、九柱神の間がある建物だ。一般の参拝者が入れるのは表の礼拝室までで、普段は裏口は固く閉ざされているのだが、今日は祭りの準備のためか、そちら側の扉が開かれている。  「まったく、お前ときたら! こんなじゃあ、書記の神に面目が立たないだろう。お前の筆は一体、何のためにある」  「すいません…」 何やら上級神官が後輩を叱りつけるような声が響いてくる。何の気なしにトトメスは、ひょいと門の奥を覗き込んだ。  そこは小さな裏庭のようになっている場所で、しゅんとなった若い神官が、丸めた巻物を手にした年かさの神官にこっぴどく叱られている。  「いいから早く書き直せ。紙が勿体ないから、間違えたところだけ切り取って、あとから正しい部分を繋ぐといい」  「はい…。分かりました」 若い神官がすごすごと去っていくのを見送っていた年かさのほうだったが、ふと、視線に気づいて振り返る。  「あっ」 覗き込んでいるトトメスに気づいて、慌てて居住まいを正した。「これは、トトメス様。神殿内で大声を出しているなど、恥ずかしいところをお見せしました」  「いや、邪魔したのはこっちだ。でも、何をそんなに怒ってたんだ?」  「大したことではないのです。見習いが、裁判記録を書き間違えてしまったんですよ」 そう言って、年かさの神官はため息まじりに眉を寄せた。「ここにある九柱神の間は、この州の高等裁判所でもあるのです。九柱の神々が居並ぶ神々の法廷を模している場所で、我が主神ラー様は、この世の最初の秩序の創り手ですので」  「ああ、なるほど。それで裁判記録か」  「それを書き間違うとは、まったく。あとで、神々の書記官たるトト神の像の前で反省の書き取り千回をさせなくては」  「…書記…」 かつて疑問に思いながら今まで忘れていた記憶が、ふいに蘇って来た。  以前、この神殿の奥のどこか迷いこんだ先で、確かに書記の神の像を見たのだった。  (そうか、ここは法廷だから…。神々の審判の場で記録をつけるのは、必ず、書記の神のはずだ) ようやく、あの像がなぜここにあるのかを理解した。それと同時に、今まで自分が暮らしていたこのイウヌの大神殿の中に、自分の名の由来でもある神を祀る場所があったのを意識していなかったことに気が付いた。  「その像、どこにあるんですか」  「え?」  「いえ、…一応、俺の生まれ名の守護神なので、少し拝礼して行きたいなと」  「ああ。そういうことですか」 神官は顔をほころばせ、トトメスに道を譲った。「どうぞ。そこの入り口を入って、すぐ右手の小部屋です」  白い氷の混じった雨が、ちらついている。  火も炊かれていない神殿の中の空気は凍えそうなほど冷たく、石の床は、絨毯の敷かれていない場所は触れるのもままならないほど温度が低い。  真昼にも拘わらず暗い部屋の中に、緑と金の混じる黒い石で作られた像は、以前と変わらずそこに置かれていた。トトメスは、白い息を吐きながらじっと、部屋の入り口からその像を見つめていた。  以前ここに立ったあの時、確かにこの像は話しかけて来た。  自分の望むものが何なのか思い出せ、と厳しい声で迫って来た。  それは逆に言えば、この神は、自分自身でさえ意識していなかった願いを、最初から知っていたということだ。  「あなたは、…何なんです?」 しん、と静まり返った部屋の中に、答えは聞こえてこない。  「トトメスなんて名前は、珍しくもなんともない。生まれ名に付けられる神の名は、最初の守護者ではあるけれど生涯続くとは限らない。…実際、俺はあなたの加護は受けなかった。頭は良くないし文字も下手だし、書物を読むことも好きじゃない。おまけに、あなたの神殿でボヤ騒ぎを起こしたこともある…。それなのにどうして、…俺のことを知っていたんですか」 柱と天井の隙間の窓からひとひら、白いものが部屋の中に舞い降りて来る。朱鷺の姿をした像に嵌めこまれた青緑色の瞳は、じっとこちらを見つめたままだ。  冷気が足元から立ち上って来る。  何気なく、床に落ちた白いものの行方を目で追ったトトメスは、像の傍らに、書類の断片の山があることに気がついた。粗末な壷にぎゅうぎゅうに押し込まれ、陶器の欠片に走り書きの文字を記した覚書がその上に載せられている。  「…これは」 文字は、こう書かれていた。  "誤りを含む書類一式。真実の誓いにかけて、燃やして処分すること。再利用不可" 書記たちは、何か重要な書類を記す時、最後に自分の名と「書記の神の名において、ここに書かれたことは真実である」と宣言するならわしだ。にもかかわらず、重大な誤りがあることが後で判明した場合、その書類は裏面を再利用されることも許されず、灰にして処分してしまわなければならない決まりだった。  そう、虚偽を含む書類は、この世に残されてはならないのだ。  トトメスは、かつて都の知恵の神の神殿の書庫で、裏紙を使って作られた巻物を広げていた時のことを思い出していた。うっかりランプを倒してボヤ騒ぎを起こしてしまったのは、その時だった。  「…まさか、あれは…あなたが?」 見上げた像が、少しだけ頷いたような気がする。  「見てたって言うんですか。ずっと」  「がう」  「わっ」 像の後ろの暗がりから、アメミットが短い尾を振りながらのそのそと現れて、トトメスの足元に鼻づらを押し当てる。この世のものではない獣に温度は無く、指がかじかんでいる今はむしろ、暖かくさえ感じられる。  「がふ、がふっ」  「…うん、そうか。そう…だったんだな」 あの頃は、"不運"の意味を、何も判っていなかった。ただ失敗したのだと思って頭が真っ白になり、慌てふためいて謝って、とにかくやり直そうとやみくもに走り回るばかりだった。自分が引き起こしたことの結果を冷静に見ていれば、そんなことにはならなかったはずなのに。  きっと、何の意味もない、純粋な自分の過ちも沢山あったのだろう。  けれど少なくともその一部は、――多分、本来起こるはずの無かった失敗には、何か、必要とされる理由があったのだ。  王宮で悩んでいた日々が"冥界の間"で役に立ったように、葬祭の儀式での大失敗が自分をこの地へ赴かせたように、これまでの日々も、人生も、何一つ無駄ではなかった。  雲の切れ間から射す薄い光が、小部屋の中に届く。  "お前は望みを叶える。必ず"  「…はい」 頷いて、トトメスは立ち上がった。足元で、冥界の獣が口を開けて笑っている。  身体の奥底で何かが熱く燃えている。弱々しい太陽の輝きよりもずっと、強く。  それから寒さは緩むことなく、大地は白く凍結したままで冬至の日を迎えた。  冬なら雨が降ることは珍しくないが、それでも、今年は多すぎる。冷たい水に打たれて、一部の麦は萎れ始めていた。高齢者や小さな子供たちの中には体調を崩す者も出始めている。陽が射す時間はほとんどなく、一体いつまでこんな寒さが続くのか、神官たちもだんだん不安になり始めているようだった。  景気づけのために、その日、太陽神殿では中庭で、大きなかがり火が焚かれていた。  体が温まるからと高価なぶどう酒も配られて、少しでも皆が元気になってくれるよう、神官たちは震えながら太陽を讃える歌を歌った。  そんな祭りの中を抜け出して、トトメスは、朝から西の高台を訪れていた。  『さすがに、岩の身にもこの寒さは堪えるなぁー…』 巨岩の像は鼻を白く凍らせたまま、いかにも寒そうに顔をしかめている。  「岩のくせに寒いとか、そんなわけないだろ。風邪もひかないんだし」  『何を言う。岩こそ寒い暑いは大事なのだぞ。特に温度差は大敵だ! 急に寒くなったり暑くなったりするとなあ、岩にヒビが入ってしまうのだ! 人間は多少割れてもくっつくが、岩は二度と元に戻らん。あー嫌だ。こんなに霜が貼って、またお肌が崩れてしまう…。』  「そ、そういうものなんだ…。」 憂鬱そうに霜の降りた自分の身体を見下ろしている像の傍らで、トトメスは、雲に覆われて何も見えない空を見上げていた。流石に、こんな寒い日は誰もいない。像の前の供物台も、枯れた花束が幾つかと、乾いたパンの切れ端が置かれているくらいで、何日も人が来ていない様子だった。  静かだ。  風の音以外には何も聞こえない。薄い雲の向こうに微かに見えている太陽の光は、そろそろ天頂に差し掛かろうとしている。  『強い気配を感じるぞ。もうすぐ、そこまで来ている』 と、カーエフラー。既に声は、ほとんど消えかかっている。  『とはいえ、ここしばらく太陽の光を得られておらぬ。あれは…想定したほどには機能せぬやもしれんな』 視線は、高台の奥に並ぶ三角の"聖なる墓所"へと向けられる。夏には太陽の光を受けて眩いほどに白く輝いていたそれも、今は、灰色にくすんで力無く見える。  「しょうがないですよ、それは。やるだけ準備はしてきたんです。」  『…ふっ、そうだな。』 カーエフラーは笑い、トトメスと共に川辺の風景を見下ろした。  対岸の崖に張り付くようにして建つ、イウヌの太陽神殿の白い姿。赤々と燃やされる焚火の煙が、細くたなびいている。ゆったりと流れる川の両岸には、緑の畑と、その間に点在する村々があり、はるか下流の中洲のほうまで見渡せる。  この地域に入り込む混沌は、"聖なる墓所"の防衛線と、太陽神殿の前もっての予言によって、ある程度は防がれている。けれどそれでも、人々の不安や、不幸を嘆く気持ちまでは完全に取り除けない。あちこちの集落に、ぽつり、ぽつりと、迷いこんだ黒い靄がわだかまっているのが見える。昼間にも拘わらず光の射さない、この状態が続く限り、それは増えこそすれ減りはしない。  ゆっくりと過ぎて行く時の中で、何の前触れもなく頭上から冷たい風が吹き始めた。  はっとして、トトメスは傍らに立てかけていた弓を取り上げた。風が空の雲をかき乱し、空が割れてゆく。青い空、――が見えたと思った次の瞬間、そこには、がっちりと太陽の輝きをとらえる黒い顎が現れていた。  丘の下のあちこちから、悲鳴が響き渡る。雲が切れたのに気づいて太陽の光を浴びようと外に出て来た人々が、空を見上げて異変に気付いたのだ。  太陽が、闇に呑みこまれようとしている。  『王!』 巨像が吠えた。  『うむ。行くぞトトメスよ、船をこれへ!』 半透明な船が、砂の上を滑るように走って来る。トトメスは、投げおろされた縄梯子を掴み、看板まで駆け上がって弓を構えた。  『これが最後だ。余も、家臣たちも、残る全ての力をそなたに託そう。――トトメスよ、そなたが頼りだ』  「はい!」 船が空へと駆け上がる。けれど瞳のような形に開いた雲の切れ間は、追い付く前に素早く閉じてしまおうとしている。  間に合わない、と思った時、背後から、大地を揺るがすような咆哮が響き渡った。  東の端に座る岩の巨像だ。初めて会った夏の日のように、激しく体を輝かせ、大地の上で獅子の如く吠えたてている。  『見るがい、これぞ"夜明けの地平のホルス"、日の出とともに力を得る者の真の力なり!』 獅子の方向が地上から風を巻き起こし、船の帆は風を孕んで一気に速度を上げた。雲の切れ間を飛び越える。"聖なる墓所"の頂上すらはるか眼下にあり、天を流れる白い星の川と、地上を流れる黒い水の川とが地平の彼方で一つに繋がっているのが見える。  そこは天の女神の体内、地上から見上げていた、星々の母なる蒼穹の只中だ。  目の前には大きく広がった闇色の裂け目があり、その奥から巨大な身体が川のように流れ落ちて、丸い太陽の輝きを飲み込もうとしている。光は苦しみもがく様に拡散し、見る間に薄れて行く。  「船を近づけて!」船員たちに声を張り上げながら、トトメスは船首まで走った。混沌の蛇、とは聞いていた。確かに蛇のようにのたうってはいるのだが、どこが頭で、どこか尻尾なのかも全然分からない。  「狙う場所が分からない…っていうか、これ、本当に蛇なのか…?」 ずずん、と船に衝撃が伝わって来る。  「うわっ」 振り落とされないよう、慌てて船のへりを掴む。振り返ると、船尾のほうに別の、腕のように見える黒い靄がいた。太陽の残り火を避けるように雲の隙間に隠れながらこちらを伺っている。  『囲まれているぞ、トトメス! 奴に近付く前に、こやつらを何とかせねばならん』  「くっそぉ…!」 光る矢を番え、船尾をとらえて邪魔しようとする靄を追い払う。けれど、そちらにばかり構ってもいられない。蛇のように見える黒いものは、太陽を空の裂け目の向こうに引きずり込もうとしているのまだ。ぐずぐずしていたら、太陽が完全に混沌に飲み込まれてしまう。  『太陽を解放するのだ、トトメス! 余の力は太陽の光の加護を得たものだ。光が強まれば、余の力も増すであろう。たとえ冬至であろうとも、この距離ならば!』  「判りました!」 向きを変えると、彼は太陽にかみついている顎のような場所目掛けて、力を込めて矢を放った。混沌はたじろぎ、ほんの僅かだけ後退する。けれど、それも長くは続かない。  (力が足りない。…いや、矢じゃ無理なんだ。こうなったら、直接!) 腰に手を伸ばし、イウヌでケペルカラーから受け取った剣を抜く。太陽の輝きの色をした刃がきらめく。細い矢よりは、この幅広の刃のほうがずっと、攻撃力は高いはずだ。  彼は躊躇なく、甲板にあった縄を腰に巻きつけ、舳先に立った。  「思いっきり近づけてくれ! ぶつかるくらいで構わないからっ」 雲の切れ間からうっすらと、はるか彼方の地上が見えている。  (落ちたら間違いなく死ぬな、これ…) 一瞬、そんなことが頭をよぎった。いくら何でも、この高さから落ちて助かる加護など、考えられない。  いつも、肝心な時には何か失敗してきた。…でも、だからこそ判っている。途中で縄が切れるとか、攻撃を思い切り空振りするとか、そんな当たり前の失敗は、。  大きく息を吸い込むと、トトメスは、船べりを蹴った。  『待て、トトメス。太陽は燃えておるのだ、生身では…』  「うおおおーっ」 止めるカーエフラーの声も振り切って、彼は、跳んだ。翳した剣が、間近に受けた太陽の光を黄金色に反射する。灼熱の光が髪を焦がし、目の前がまばゆい輝きに包まれる。  驚いたのか、攻撃を避けるつもりだったのか、混沌の顎が一瞬、太陽からするりと離れた。トトメスの身体は太陽と混沌の隙間に滑り込み、何も無い空間だけを輪切りにする。目の前には、太陽の熱で焼ききれた命綱の切れ端が漂っている。  上手くいった。  と思うと同時に、空が回転し、太陽の輝き足元のほうへ移動した。  (ああ、…) 次の瞬間、大地の法則が彼を捕らえた。頭から真っ逆さまに、ものすごい勢いで地上目掛けて引っ張られていく。  落ちているのだ。幾重にも重なった薄い雲が眼前を通り過ぎていく。  (これは…、さすがに駄目、かな…?) けれど一撃を食らわすことは出来なくても、太陽を自由にすることには成功した。その証拠に、空を覆っていた雲は次々と薄れ、長らく光の見えなかった大地に光の筋が降り注ぎ始めている。  頭上には輝きを取り戻した太陽があり、空の切れ目から逃れて天頂を過ぎようとしている。  "聖なる墓所"の尖ったてっぺんが、ぐんぐん目の前に迫って来る。真上から見るそれは、綺麗に四辺の長さの揃った、美しい正方形をしている。あのてっぺんに叩きつけられて死ぬのだとしたら、それは前代未聞の不運だ。  と、突然、落下がぴたりと止まった。  「え?」 頭の下にあった地面がぐるりと回転し、足の下へ。そして目の前に、うっすらと光を帯びた翼が広がっている。  「あれ…?」 彼の右腕と、左腕を、それぞれ一人ずつの女神が支えている。冥界の王の神殿の扉を護る二柱の女神たち。  女神たちが微笑むのと、空から船が舞い降りて来るのとはほぼ同時だった。ふわり、と衝撃もなく船に戻され、トトメスはしばし、ぽかんとしていた。  『トトメス、トトメス!』  「あっ、はい」 カーエフラーの声で慌てて我に返り、空を見上げる。ずいぶん落下したようだが、同時に、倒すべき敵のほうも、ずいぶん低いところまで落ちてきていた。  空の裂け目の広がりが停止している。  川のように流れ落ちていた巨体の、しっぽのように見える最後の部分が、今ようやく裂け目を出るところだ。ようやく全体像が見えるようになった。今なら、確かにそれは"蛇"の姿をしているようにも見える。  ただし、頭の先から尻尾まで、すべて入れると大地の端から端まで届くほどの、桁外れの大きさ、なのだが。  「…ちょっと、大きすぎません? あれ…」  『そうだ。だからこそ、一度あの裂け目から出てしまえば、二度と向こう側に戻れんのだ。』 カーエフラーが言い、そして、高らかに宣言する。  『千年の時、太陽の光の最も弱まる冬至の日。今この時が、奴がこちらの世界に顕現できる唯一の瞬間であるとともに、あの裂け目が最大の時なのだ。これより裂け目は縮小に転ずる。そして太陽は、奴の顎を無事に逃れた。混沌に戻ることも出来ぬ彼奴めは、輝きを増す太陽のもとで弱ってゆく。最大の危機は去ったのだ。これよりは我らが有利なるぞ!』  女神たちの姿はいつの間にか消えている。だが、すぐ側に気配があるのは判る。  見えなくても見守ってくれている。  太陽の輝きが聖なる墓所に白く反射して増幅され、巨大な蛇の身体を焼いている。蛇は声なき声を上げ、身をよじって西の地平線のほうへ後退しようとしている。  『逃がすでない! この丘の上が最も我らに有利な場所ぞ。奴をこの、墓所の輝きの届く範囲に留めさせるのだ!』 船が大きく旋回し、蛇の前に回り込んでいく。船員たちが槍を投げつけ、矢を射って追い込もうとする。けれど、縦横無尽に空をくねる混沌の蛇の身体はとても追い切れない。そしてトトメスも、どこに狙いを定めたら良いか分からずに、やみくもに矢を射ることしか出来なかった。  (早すぎて、船じゃ追い付けないんだ。くそー、戦車でここ走れたらなあ…。) だが流石に、空中を走れる戦車など無い。それに、この船は、カーエフラー王の聖なる墓所に収められていたものなのだ。千年前には戦車は無く、戦車は埋葬されていない。  そしてついに、矢が尽きた。  何か投げられるものはないかと辺りを見回した時、足元に転がっている槍に気づいた。とっさにそれを掴み、船員たちと同じように蛇に向かって投げつけようとしたその時、…槍の穂先が、ぽろりと落ちた。  「……。」 気合を入れて構えたのに、まさかの事態だ。トトメスは渋い顔になって、足元に落ちた青銅の槍先を見下ろした。まさか、こんな時にまで"不運"に見舞われなくてもいいのに。  側には縄も落ちている。拾い上げて槍先を結び付けようかと思ったが、縄の先は帆柱まで延びているようだ。このまま槍を投げたら、帆と繋がったまま刺さってしまう。  …そこまで考えた時、彼の頭の中に、ふいに、ある形が浮かんで来た。  「…あ」 馬にくわえさせたハミから延びる皮ひもを手繰って操る戦車の手綱。そして、馬を繋ぐ心棒。  目の前でくねる黒い巨体のほうを見た。  もしかしたら、これなら――。  彼は素早く槍先を縄で縛りつけると、長い縄をつけたまま、目の前を通り過ぎようとする蛇の身体目掛けて投げつけた。手ごたえは十分。深々と突き刺さった槍が縄ごと引っ張られ、船は、蛇と同じ速度で急速に走り始めた。  『お、おおっ。何だ、これは?!』 船ががくがくと大きく揺れている。一杯に張ったままの帆がたわみ、今にも破れ。  「早く帆を下ろせ! 代わりに、槍を縄に! 柱に繋いで投げるんだ、俺と同じように!」 次の槍に縄を結わえながらトトメスは怒鳴る。半透明な船員たちが、生きていた頃と同じように俊敏に動き始めた。帆柱にかかっている縄を解き、それを槍に付け替えて、空を泳ぐ蛇の身体めがけて投げつける。  二本、三本。  数が増えていくのとともに、蛇の勢いが弱まって、船体との距離が縮まっていく。さながら戦車をひっぱる馬のように、どれだけ走ろうとも、繋がれた後ろの荷物から離れることは出来ない。  トトメスは剣を手に、舳先から蛇の身体までの距離を伺った。今度は、命綱は無い。その代わり、守護の女神たちの翼が側にある。  「行きますよ、カーエフラー王!」 返事を待たずして、彼は宙に飛び出した。翳した剣が混沌の蛇の身体に深く食い込んで、落下が止まる。西からは去り行く太陽の熱と輝きが、足の下からは、聖なる墓所の反射するそれが伝わって来る。雲はもうほとんど晴れ、蛇が隠れられる場所は何所にも無い。  『日没まで時間が無い。陽が沈めば、敵は力を取り戻すぞ。』  「はい、…ここで終わらせます!」 歯を食いしばり、トトメスは、足で蛇の身体――感覚の無い、ふわふわとした雲のようなそれをなんとか挟みながら、幅広の刃を力いっぱい押し込んで、引き上げた。生きた蛇をさばく時は、首を落として背骨に沿って真っすぐ切り開く。首がどこにあるのか判らない以上、こうするのが一番だとトトメスは判断した。  「くっ…」  深く差し込んだ刃の輝きが、黒い塊を切り裂いていく。手ごたえはないものの、切り離された断面が綻び、元の靄に戻って薄れてゆくところからして、効いているのは間違いない。けれど腕は重たく、なかなか思うように刃が進まない。落ちないよう、踏ん張っている足の力もそろそろ限界だ。それに集中力のほうももう、長くは持ちそうにない。それでも彼は、カーエフラーの力に後押しされて、少しずつ、少しずつ黄金の刃を進めていった。  がくん、と足元が大きく揺れた。  「うわっ」 蛇の身体が大きく跳ね上がったのだ。  刃が滑り、放り出されたトトメスの身体を、うねる蛇の尾が打ち付ける。一瞬気を失いかけたが、辛うじて尻尾に腕を回して捕まった。  蛇はほとんど垂直になって、大地に向かって落ちて行こうとしている。尻尾に捕まったまま、トトメスも同じ速度で落ちて行く。  太陽は西の地平線にかかろうとしている。濃く長い影が伸び、"聖なる墓所"の作る三角の影も、大きく大地に広がっている。蛇は、そこを目指しているのだった。  (あの影に逃げ込むつもりか? でも、あそこは…)  『はーっはっはっはっ』 近付いてくる地面のほうから、人面岩の高らかな笑い声が響き渡る。  『愚かなり、混沌の蛇よ! 我が聖所に逃避しようとはぁーっ!』 獅子の咆哮とともに、その体から光放たれる。それと呼応するかのように、地上から無数の矢が放たれた。  高台の上にはいつの間にか、無数の亡霊の兵たちが並んでいる。そう、今は夕刻なのだ。生と死の交わる時間。あれは西から押し寄せる混沌と戦い続けてきた、カーエフラー王の精鋭たちだ。  蛇は慌てて、再び空に逃げようとするが、追いかけてきた船が船体ごと体当たりして力ずくで阻止する。頭上を塞がれ、地上からも攻撃され、身動きの取れなくなった蛇の身体は動きを止め、のたうちまわりながら崩れてゆく。  「カーエフラー王! お願いします!」  『うむ!』 二人は力を合わせ、残る力を振り絞って最後の一撃を蛇の身体に叩き込んだ。刃の先から迸った光が、蛇の身体を引き裂いて、真っ二つに切り裂いた。足場を失ったトトメスは宙に放り出され、そのまま、地上に落下した。  柔らかな衝撃と、舞い上がる砂埃。どうやら、どこか砂だまりの中に頭から突っ込んだようだった。  「…ううっ。ぺっぺっ」 頭を払い、口の中に入った砂を吐き出しながら起き上がった彼の目に、太陽の投げかける最後のかがやきと、空の中で消えてゆこうとしている黒く細長いひと塊の闇の塊が、見えていた。  ほっとすると同時に、身体の力が抜けていく。気力も、体力も既に限界を越えていた。張り詰めていた緊張が途切れて、彼は、砂の上に倒れ込んだ。  (もう、動けない…。) こんなところで眠ったら、朝までに凍死してしまう。目覚めて、街まで戻らなければ。  けれど暗闇は目の前に容赦なく迫り、瞼が落ちた。  あとはもう、何も覚えてはいない。
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