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第25話 トトメス王子、夜明けの地平に岩の巨像と大いに笑うの由
沈み込んでゆくような感覚があった。
それが止まって目を開けた時、周囲には静まり返った薄闇が広がり、頭上には色を失った空が、足の下には、からからに乾いた灰色の砂がある。
(ここは…どこだ?)
聖なる墓所も、岩の巨像も、何も見当たらない。小さな砂丘の連なる沙漠だけが地平線まで続いている。音は無く、光もなく、風は吹かず、暑いとも寒いとも感じない。立ちあがろうとして、身体の感覚が無いことに気が付いた。あわてて自分の身体を見下ろすと、腕も、足も確かにそこにある。怪我も見当たらない。それなのに、何も感じられないのだ。
(……そうか)
空を見上げて、トトメスはようやく気がついた。
ここは、死後の世界だ。
冥界の入り口にあるという、広大な「無」の沙漠。"冥界の間"の壁画でも見た。死せる肉体が葬儀の場で「口開け」の儀式をしてもらい。生きていた頃の感覚を取り戻すまでは、死者の魂はここに留まらねばならない。もし誰にも見つけて貰えないか、儀式を行われずに埋葬されれば、死者は永遠に「無」の世界を彷徨い続けることになる。
砂の上に腰を下ろし、トトメスは一つ、溜息をついた。
(俺、死んだのか。…まあ、予言の通りっちゃそうだけど…なんか、あっけなかったなあ)
自分のいる場所が分かったのに、不思議と焦燥感は湧いてこなかった。意識を失う直前、混沌の蛇の最後のひとかけらが消えてゆくところを見た。戦いは終わった。初めて大役を、最後まで果たし終えたのだ。
生きて帰れないかもしれないことは、薄々、判っていた。
ただの人の身で、古えの神王にも匹敵することを成し遂げたのだ。反動が無いはずもない。全ての力を振り絞って戦った。そうしなければ勝てなかった。
砂の上に座ったままトトメスは、耳飾りに手をやった。
(ごめんな、ネフェルトイリ。約束…したのに)
イウヌで待っているイアレトや、ベセクたち従者。笑顔で送り出してくれたケペルカラーやメリラー。それに、都にいる、懐かしい人々。
帰りたい。
あの場所へ、もう一度。ここには太陽の輝きが無い。冴え冴えとした月の眼差しも、揺れる花も、優しいぬくもりも。
「帰りたい…」
声に出して、想いが漏れだした。胸を押さえ、彼は搾りだすように呟いた。
「俺はまだ、生きていたい」
音の無かった世界に自分の声が響き、それが耳に届いた瞬間、感覚が目覚めた。握りしめた拳の感覚が判る。何も感じなかった身体に熱が宿る。
はっとして、トトメスは立ちあがった。どこかから、何か物音が聞こえて来る。砂の上を走るような音。はっはっという息遣い。
「何だ? 何かいるのか?」
「ととめす!」
「誰だ、呼んでるのは」
辺りを見回しても、何かもいない――と思った瞬間、何か重たい衝撃を脚に食らって、彼は思いっきり、顔面から足元の砂地に突っ込んだ。
「ととめすー!」
肉球のようなものが、背中の辺りを踏んでいる。「みつーけたー!」妙に可愛らしい、幼い少女がはしゃいでいるような声だ。だが、背中にかかる重量は、巨大な重しでも乗せられているかのよう。
「…ぐっ、お、重たい」
「むぅ」
背中の上で何かがぴょんぴょん飛び跳ねている。
「おもたくない! おもたくない!」
苦労して首をひねってみると、背中の上で、ワニの顔に獅子のたてがみを持つ奇妙な獣が、牙の並んだ口を開けてニカッと笑っている。
「お、お前…アメミット?!」
「そう! ととめす、もどる。こっち! こっちこっち」
「戻…? え、ここって、戻れるのか?」
「もどれるよー。まだもどれる。いく、はやくいく」
「わ、判った」
獣は、長さの違う獅子とカバの脚を器用に動かして、先導するように走り出す。トトメスは慌ててその後を追った。砂は時に足を取られそうなほど深く、走っても走っても風景は変わらない。それに、妙に身体が重たくて、少し動くだけでも酷く息切れがする。
先を行く獣は疲れた様子もなく、何度も足を止めては振り返り、早く来い、というように彼を促す。
「はあ、はあ…。お、お前、あの重さでどうして、そんなに…」
「はーやーくー。はーやーくー。」
「わ、判ってるよ…。」
巨大な砂丘を苦労して登り切ったその先に、大きな暗い湖のような場所が見えた。それから、炎に包まれた回廊や、ワニが蠢く沼地。奇妙な形をした上下さかさまの館に、人間ではなく獣でもない姿をした神々の行列。腕の生えた柱が自分ひとりで歩いている。
(これが、冥界…。)
葬祭殿の壁や死者の世界を描いた巻物で見たことはあるけれど、実際に、自分がそこを訪れる日が来ることとは、考えてもみなかった。
「ととめすー、こっち! ここだよー」
「う、うん」
ゆっくり見学している場合ではない。立ち止まりかけていたトトメスは、慌てて冥界の獣の後を追った。
行く手に、黒い石で出来た門がある。
扉は半分開いていて、その向こうは完全な暗がりだ。通り抜けるにはあまりに狭く、身体を横にしなければ、入れそうにない。
「こ、ここ?」
「そうー。くぐる、はやく」
「…わ、判った。」
そうっと片手と片足を入れ、肩を潜らせる。嫌な感触だ。生ぬるい不快感が、悪寒とともに這い上がってる。けれど、我慢するしかなかっちた。足元ではアメミットが、口を開けてにこにこ笑っている。言う通りにしなければ、この世界からは抜け出せない。
(ええいっ…)
思い切って目を閉じると、彼は、身体の全てを扉の向こうに引っ張り込んだ。
気が付くと、薄明りの射す川べりに立っていた。大きな船がゆっくりと、こちらに向かって進んで来る。先端に立ち、手を振っている男は、カーエフラー王だ。驚いて、トトメスは大きく手を振り返した。
「今回だけだ」
はっとして振り返ると、後ろで尾を振っているアメミットの傍らに、形の無いぼんやりとした光のようなものが立っていた。
「人の器に余る力を得たお前には、人として完全な寿命は与えられない。時の管理者たる我にも、そのことわりは曲げられない。…すまないな」
その声には、聞き覚えがあった。それにこの気配も。柔らかい輝きは、月の光だ。
「いえ」
トトメスは、小さく首を振った。
「大事なのは時間の長さじゃなくて、その中で何を成すべきか、だと思います。」
自分の生まれ名の神であり、縁の無かった守護者。時を刻み、人の世の歴史を記録の葉に記すもの。いつかそう遠くない未来、再びここを訪れる時、必ずまみえることになる裁きの神々の一柱。
光に包まれてゆく瞬間、白き翼の向こうで、それは、確かに笑った気がした。
船はトトメスを甲板に引き上げられると、静かに岸辺を離れて行く。
――太陽の船は、生ある者の住まう地上と、死者の住む冥界とを行き来する。
太陽は夕べに死に、夜明けとともに蘇る。
"太陽の如く生きよ、栄えある者よ。東の地平に出現せよ。"
太陽賛歌の始まりに決まって唱えられる言葉のとおり、船は地平を目指す。
行く手には光と熱ある、生者たちの住まう世界が広がっていた。
ゆっくりと重たい瞼を押し開けた時、目の前には、白み始めた東の空があった。
朝日が昇る。
暖かな光が、強張った四肢を少しずつ、ほぐしていく。砂の上に起き上がり、トトメスは、青く澄んだ空と、輝ける太陽とを眺めた。
生きている。
「…夜が明けたな」
顔を上げると、傍らの石の巨像の前で、カーエフラー王が同じ地平の方角を見つめていた。姿は風景が透けるほどに薄くなり、気配も、ほとんど消えかかっている。
振り返って、王は微笑みかけた。
「余の役割は終わりだ。千年の憂いは、これにて晴らされた。あとはそなたら、生ける者たちに任せるとしよう。」
「……。」
別れの時が来たのだ。
トトメスはゆっくりと立ち上がり、王に深く頭を下げた。
「ありがとうございました。貴方は、俺の、もう一人の父上のようだった」
「うむ。余も、かつての生ある日々を思い出して実に楽しかったぞ。」
陽気に笑い、カーエフラーは、初めて会った時の問いを再び、口にした。
「我が息子トトメスよ。そなたは何を望む?」
かつてしどろもどろにしか返せなかったその問いに、トトメスは即答する。
「この黒き大地に、さらなる千年の繁栄を。」
「ははは! それはまさに、"太陽の息子"を名乗る者に相応しい大望であるな!」
嬉しそうに笑い、王はトトメスの肩に手をやった。
「――約束しよう。この余、太陽の息子カーエフラー、黄金の鷹にして心臓強き者、二女神に愛されし者の名に懸けて。この天と地の、あらゆる神々の加護のもと、そなたの王国には光が満ちるであろうと」
太陽の光がゆっくりと、丘の上を撫でて行く。墓所から蘇った兵士たちも、船も、全てが溶けるように消え去ってゆく。カーエフラーの姿もだ。
死者は死の世界へ、幻は無へ。在るべきものは在るべき場所へ還される。
「いつかまた、死者の楽園でお会いできますね。その日を楽しみにしています」
「ああ。余もだ。とびきりの持て成しで待って居るぞ。願わくば、一日も遅くその日が来るように」
砂が零れ落ちるようにして、王冠も、王杓も、姿形の全てが風化してゆく。そして、後には何も残ってはいなかった。
『…ふうむ』
岩の巨像が唸った。
『我が主は冥界へ戻られた、か。…役目を終えた我もまた、眠りに就くことになる』
「でも、これで最後じゃない。あれはまた、千年後に起きるはずだ。その時は、どうすればいい? 君や古代の王さまはまた、戻って来るのか?」
『さあてな。我はこの岩の身といえど、次なる千年まで形を保っておれるかどうか。それにな、次なるあの御方は、その…』
ぐるりと、三つ並んだ"聖なる墓所"の一番端、少し小さい三角の山のほうに目を動かす。
『…だが、まあ、何とかなるであろう! 既に神代は遠く過ぎ去った。今は人の世だ。この世界も、もはやかつてのように閉ざされてはおらぬ。外の世界から来た多くの人間が行き交い、混じり合い、今や見たこともない武器や戦さの技も多くある。――ならば、我らの役目はここまでだ。それで良い!』
「適当だなぁ…。」
苦笑しながら、トトメスは像の側に腰を下ろした。そして、大地を揺るがせながら笑いづ付ける巨像と並んで、一緒になって笑った。
『はっはっは、良い良い! はっはっは!』
空にはまだ、黒い亀裂が残されてはいたものの、それは、もはや広がり行く気配を見せず、何かが出て来るような気配もなく、急速に薄れつつあった。
昨日までの厳しい寒さはどこかへ消え去り、久しぶりの陽光が、春のように穏やかに辺りを照らしている。家の中に閉じこもっていた人々は久しぶりの光に顔を向け、ほっとしたように笑い合う。冬至の祭を終えた太陽神殿では、太陽柱の周りに、また、近隣の参拝者たちが集まり始めている。
日々の平穏が、ゆっくりと戻りつつあった。
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