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第26話 トトメス王子、イウヌの街に別れを告げるの由
冬至の日から時は流れ、気が付けば、ひと月半ほどが経っていた。
春の気配が少しずつ近付いてくる。あんなに寒かったのが嘘のように、今日は家の中にいるのは勿体ないくらいの陽気で、トトメスも前庭に出て、暖かな陽射しを浴びていた。
(あれは、…だいぶ小さくなったな)
空を振り仰ぎ、春霞みの向こうに遠く、青い空を横断するように走っている裂け目を見上げる。
今はもう、その奥から滲みだしてくるような混沌の気配はなく、少しずつ、元通り塞がっていっている最中だ。こちら側に入り込んだものを全て倒せたわけではないだろうが、少なくとも、太陽を飲み込むほどの恐ろしい存在が降って来ることは、もう、起こらない。
あと数カ月もすれば、イウヌへ来てちょうど一年になる。
そうしたら一度、都へ戻ろう、とトトメスは思っていた。ネフェルトイリとの約束もある。それに、兄や母に会って直接、話をしたかった。父にも、報告したいことがある。
王宮や街で向けられる視線も、悪評も、怖くない。笑って返せる自信がある。かつての、失敗に怯えていた自分はもう、居ない。
「ああ、トトメス様、ここにいたんですか」
街へ出ていたはずのベセクが、小走に駆けて来る。後ろには、都で見かける役人の格好をした男が一緒だ。
「都から来た船が着いていて、この人、トトメス様に書簡を渡したいそうなんです。」
「書簡?」
「陛下からです」
そう言って、男はうやうやしく小箱から取り出した巻物をトトメスに差し出した。蜜蝋で封をされ、王からの正式な文書の体裁になっている。
「お返事を持って帰るようにと言いつかっておりまして」
「はあ、…」
家族間の私的な手紙なら、こんな畏まったやり方はしなくてもいいはずだ。
首をかしげながら、その場で巻物を開いたトトメスは、そこに、意外な言葉を見つめて目をとめた。
「帰還命令? 帰って来てもいい、じゃなくて、必ず帰って来いってことなのか」
「内容については何も伺っておりません。陛下のお言葉どおりかと」
「……。」
トトメスは、手紙の内容を何度も読み直した。
"一年の期限よりも早く、今年の葬祭の儀式までには必ず帰還せよ。"
手紙には、そう書かれている。
と、いうことは、今すぐにも荷物をまとめて都へ向かい始めなければ間に合わない、猶予があるとしても、あと一週間かそこら。
(だから、敢えて人を寄越したのか…。)
返答代わりに、使者の乗ってきた船で一緒に戻ってこい、という意味なのだ。
「…内容は承知した。少し時間をくれ」
「畏まりました。私は、宿舎を借りて泊まっております。ご準備が出来ましたら、お声がけください」
役人は頭を下げ、遠望からやって来る巡礼者たちのための宿泊施設のほうへ去ってゆく。
トトメスはため息をつき、巻物を元通り丸めなおした。
「すぐに戻れ、ってことらしい。ベセク、そんなわけだ。俺は都へ戻らなきゃならない」
「え?! こんな急に、ですか」
「父上のご命令だからな。何のためにかは分からないけれど」
ベセクの表情に気づいて、彼はふと、台所へと続く裏口のほうに視線をやった。話を聞いていたらしいマイアが、強張った表情でそこに立っている。
(…そうか。そういえば)
トトメスは笑って、ベセクのほうに目くばせして見せた。
「いい機会だから、正式に結婚を申し込んだらどうなんだ? それで、一緒に来てもらえばいいだろ」
「なっ、」
見る見る間に、青年の顔が真っ赤になっていく。
「そっ、――それは…ええと…」
「都に戻って人を雇い直すのも面倒だし、多分、あっちじゃあ誰も雇われてくれないからな。結婚祝いは出すぞ。あとは頑張れ」
固まっている従者の肩に、ぽん、と手を置くと、彼はにやにやしながら部屋のほうに戻って行った。
都に帰還することは、真っ先に大神官に報告に行った。
「…そうか。お戻りになるか、寂しゅうなるのう」
いつもの雑多に巻物が散らばる部屋で、老人はそう言って心から別れを惜しむように微笑んだ。「あっという間じゃったな。本当に」
「これっきり、ってわけでもないですよ。少なくとも、妹はこちらに戻します。ここの神殿なら、女性の神官もアリなんでしょう? あいつには王宮でお行儀よくしてるより、神殿で勉強してるほうが向いている。父の代わりに、俺が後見人につくと言えば、きっと母上も許してくださると思う」
「ほう。なら、お貸ししているあの家も、残しておいたほうがよろしいかな」
「お願いします。留守中の管理は、こちらに残る使用人のメンナに頼んでおきますから」
去るのは名残惜しかった。ようやく、広い神殿の敷地内の建物の配置や小道を覚えられたところだった。神官たちの顔を覚え、街の市場に馴染みの店も出来ていた。
ここへ来た時は、こんなにイウヌの街を去り難く思う日が来るとは予想もしていなかったのだ。
「"夜明けの守護者"どのにも、挨拶はされるのじゃろう?」
トトメスの去り際、老人は、いたずらっぽい笑みを浮かべて、訳知り顔にそう言った。トトメスは一瞬驚いたものの、すぐに笑顔になって、頷いた。
「もちろん。ずいぶん世話になりましたからね。」
春の近い暖かな光の中、麦は穂を出し、畑は緑にそよぐ。
荷造りをベセクたちに任せ、トトメスは、久しぶりに西の高台へと登った。春霞の中でうっっすらとぼやけて見える、三角に尖った巨大な石積み。村々を見下ろす高台の端には変わらず岩の巨像が、東の地平線を見つめて佇んでいる。以前と変わらないその風景の中、違うのは、少し前までこの辺りに満ちていた不思議な気配が全て消え失せているということだ。
太陽は天頂に差し掛かろうとしているが、トトメスが目の前に立っても像は微動だにしない。唸り声を発することもなく、目を動かすこともなく、ただの岩のまま、沈黙の中にある。
「俺は都に戻るよ、ホル・エム・アケト。いつかまた、…きっと、ここへ戻って来る」
返事が無いのは判っていながら、トトメスは、像を見あげて別れを告げた。
振り返り、白く輝く「聖なる墓所」を見あげる。
偉大なる千年前の王たちの眠る頂きが、静かに彼を見下ろしていた。
* * * * *
このあとトトメスの人生には、まだ、いくつかの冒険と物語が残されている。
東から攻め入った軍勢に対抗しようとするも戦わずして何故か勝ち、異国の姫君と文通する羽目になった話とか。「千年後のために備えるために」と言って都に、それまでで一番高い太陽柱を築かせた話とか。
それから私腹を肥やすアメン大神殿の神官たちとの関係や二つの太陽神殿の存続問題、宰相一族との権力争いもあった。
それが五十年後、権力を持ちすぎた神官たちに嫌気がさし、ウアセトの都を棄ててまっさらな地に新都を築こうとした彼の孫・アクエンアテン王の決断へと繋がってゆくのだが…
――それはまた、別のお話。
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