第2話 トトメス王子、失意のうちに川を下り、太陽神殿へ旅立つの由

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第2話 トトメス王子、失意のうちに川を下り、太陽神殿へ旅立つの由

 悪い夢なら良かったのだが、ひと眠りした翌朝、朝食の真っ最中にそのお達しはやって来た。  「お邪魔しますよ、トトメス様」 にこにこと笑みを湛えて現れたのは、最近王宮で流行りの異国風の長衣を纏った、爽やかな笑顔の青年だ。  「私を覚えておられますか? かつて殿下のお世話をしていた養育係のヘカエルレネフの息子、ヘカレシュウです」 養育係、というのは、要するに家庭教師のことだ。礼儀作法や読み書き、歴史に一般常識まで、王家の子息をどこに出しても恥ずかしくないよう公私に渡って念入りに教育する。貴族としての位はそう高くないものの、今の王、そして次の王となる皇太子候補たちに親子二代に渡って親しく接してきた彼らは、紛れも無く王の腹心の筆頭で、王やその一家と遠慮なく言葉を交わせる数少ない存在だ。  「うん、忘れちゃいないよ。…だけど俺は君の父上の授業はとっくに卒業したし、君も今はウェベンセヌの養育係をやってるはずだろ?」  「ええ、そうです。ですが、今回は陛下からのご依頼なのです。本日は、殿下のこれからの段取りについて打合せにお伺い致しました。」  「うっ」 朝食のパンを口に運んでいたトトメスは、思わず、パンのかけらを喉に詰まらせた。目を白黒させている彼の前で、背筋をぴんと伸ばした若者は、もってまわったような役人口調ながら、きびきびと話を進めていく。  「既に陛下より直接お話されているとのことですが、殿下には、これよりイウヌの太陽神殿へ、"修行"という名目にて赴いていただきます。とはいえ一般の神官たちとは扱いは別ですよ。現地の大神官殿の指示には従っていただくことになりましょうが、修行を無理強いされることはありません。もちろん、都から私物を持っていくことはご自由ですし、王族としての称号や自称もそのままお使いいただけます。それから――」 トトメスは、慌てて口を挟んだ。  「期間は、どのくらいなんだ? 家には戻って来られないのか?」  「陛下は、どれだけ嫌だろうとせめて一年は続けさせよとの仰せです。」  「いち…ねん…。」 呆然となりながら、彼は頭を抱えた。最低でも一年は戻って来るな、ということなのか。  「ああ、いえ。もちろん、たまの帰省くらいは認められるはずですよ。ただ、イウヌは遠いですからね。そう簡単に往復出来るものでは」  「判ってる、判ってるよ。だけど、何で太陽神殿なんだ? 俺の名前は知恵の神(トト)生み出せし者(メス)なんだから、知恵の神の街だって良かったじゃないか」 知恵の神の大神殿のあるケメンヌなら、イウヌよりは都に近い。  ヘカレシュウは、笑顔のまま明快に答える。  「その案もあったようですが、打診したところ都にある分社の神官様に断られたそうですよ。"知恵の神殿には貴重な書物も多数あるので、近付かないでもらえると助かる"と。ほら、半年ほど前、殿下が神殿の書庫でランプを蹴飛ばしてボヤ騒ぎを起こしたことがあったでしょう? あの一件で警戒されているようです。それから都の主神の大神殿からは、殿下が神像を突き倒しかけた事件のことを言われて、丁重にお断りされました。で、冥界神の神殿は――つい先日の、葬祭の儀式での失敗が…」  「うっ…。」  「同じような理由で他の神殿にも断られていまして、明確な断りが無かったのは太陽神殿くらいなものですから」  「うう…判った。もういい、それ以上は、聞いてると悲しくなるからいい」 まさかの出禁。それも、複数の主要な神々の神殿から。  収穫したばかりの新しい麦で作った麦酒も、今日はあまり美味しいとは感じられない。杯を傾けて、彼はどろりとした温い液体を喉に流し込んだ。  「で、…すぐにも出発しろ、という仰せなのか。父上は」  「そうですね。川を下るための船の支度は進んでいます。あとは、トトメス様の身の回りのお支度が済めば、すぐにでも」  「判った。」 空になった杯をとん、と卓の上に置くと、トトメスは腹を決めた。出ていけと言われているのに、いつまでもぐずぐず居座っていてもしょうがない。それにこれは、王からの命なのだ。  立ち上がって、トトメスは部屋の隅に控えている従者のベセクに声をかけた。  「ベセク、適当に荷造りしておいてくれるか」  「かしこまりました。適当にやっておきます。」 彼は心得ている、という顔で頷いた。「何か、追加で入れたいものがあれば後で言いつけてください。」  「それでは、私は港のほうで、出発の準備をしておりますから」 ヘカレシュウは、胸に手をやってお手本のような慇懃な態度で頭を下げると、くるりと踵を返し、まるで壁画に描かれた人物のような格式ばった足取りで部屋から出て行った。  外の庭園からは、鳥の声が響いてくる。  静かになった部屋の中に、窓から差し込む春の陽気な陽射しが明るく落ちている。  「…母上に、挨拶をしてこないとな。」 呟いて、トトメスはため息まじりに天井を見あげた。漆喰で白く塗られた天井には、色鮮やかな青と黄色の格子模様が描かれている。気分は重かったが、受け入れる他にないのだ。  (こんな俺なんだ。どうせ、太陽神殿だってすぐに出禁になって追い出されるに決まってる) そうしたら、都には戻って来られるかもしれない。  でも、そのあとは?  "王子"としてやっていくことすらままならない自分に、果たして、居場所など在るのだろうか?  母と他の王妃たちの住まう後宮は、王宮に隣接している。  中でもトトメスの生母ティアアは「王の偉大なる妻(ヘメト・ネスウ・ウェレト)」の称号を持つ第一位の正妃だから、後宮の中でも一番良い部屋に広々と暮らしていた。  本来なら、王妃と王族の女性たちの住まいは、限られた男性しか立ち入ることのできない、いわば「女の園」だった。けれど現在の王は、それほど厳しく出入りを禁じていない。着飾った高貴な女性たちの華やかな姿があったほうが、王宮の雰囲気も華やぐだろう、というのだ。  そんなわけで女性たちは、ときおり住まいから出ては、王宮の中を出歩いたり、近くの川べりへ舟遊びに出かけたりしている。  今日も、訪ねた母の部屋は空っぽで、留守番の女官からは、「ティアア様は庭園を見に行かれたようです」とだけ告げられた。  きっと、あの良い香りのする異国の花が咲いたかどうか見に行ったのだ。  そう思いながら庭園のほうへ向かっていると、あずま屋のあたりから笑いさざめく楽し気な男女の声が聴こえて来た。大きなお腹をした身重の女性が、トトメスにそっくりな顔をした青年と並んで腰を下ろしている。  兄のカエムワセトと、彼の妻だ。  カエムワセトが顔を上げ、トトメスと視線が合う。振り返った隣の女性ははっとしたように口をつぐみ、反射的に顔をそむけた。  「やあ、トトメス。」 立ちあがって、カエムワセトは大股に弟のほうに近付いてきた。父に似て背は高く、引き締まった体格に逞しい腕を持っている。文人気質でなければ、さぞかし立派な軍の統率者になっただろう、と思わせる見栄えの良さだ。  「聞いたぞ。下流の太陽神殿へ行くそうだな」  「はい、神官に向いてるかどうかは分かりませんが…一応、試してみろと言われたので…。」 答えながらトトメスは、兄の後ろで兄嫁が、僅かにほっとした表情になったのに気づいていた。  彼女が義理の弟を、近くにいるだけで不幸がうつるように思っているのは知っていた。それ自体は無理もないことだし、はじめての出産を間近に控えた今、少しでも不安の種が減るなら歓迎、というところなのだろう。  「今まで色々とご心配、ご迷惑をおかけしました。兄上もどうかお元気で」  「おいおい。何も今生の別れというわけでもなし、どうせしばらくしてほとぼりが冷めたら戻って来るんだろう? 人の噂なんて、そう長く続くものではない。この間の失敗も、悪い噂も、一年も経てばすっかり消えて無くなっているさ」  「だと、いいんですけどね…。」 ぎこちない笑みを作ってから、トトメスは、軽く頭を下げた。  「それでは。母上に挨拶しにいく途中なので、これで」  「ああ。母上なら、さきほど花壇のほうへ行かれたよ。きっとまだそちらにいらっしゃるだろう」 幼い頃からカエムワセトは、何事もそつなくこなす優等生だった。弟が何か酷い失敗をやらかすたびに、それを難なくやり直し、後始末をつけてくれた。両親や家臣たちに呆れられるたびに庇ってくれもした。今回だって、トトメスの大失敗の尻ぬぐいをさせられたにも拘わらず、兄は気にした様子もない。  兄夫婦と別れ、歩き出しながらトトメスは、やっぱり次の王には兄が一番ふさわしいのに、と思っていた。  本人が王になりたがっていないことと、父王と性格が合わないという些細な問題さえ除けば、血筋の面でも、能力においても、誰も、彼が皇太子に指名されることに異を唱えたりはしないはずだった。  色とりどりに咲く花の香りが、風に乗って漂って来る。  女性たちの嬌声と、笑いさざめく若者たちの賑やかな声にふと足を止めると、生垣の向こうの長椅子に腰を下ろし、仲間たちと杯を傾けている、眉目秀麗な少年の姿が目に入った。  ネジェム王子だ。トトメスとは一歳しか違わない。  異国人の血を引く母に似て線が細く、父王とはあまり似ていないが、母方の―― 宰相一家の持つ華やかな雰囲気と気質で若者たちの人気は高く、常に洒落た異国風の格好で、取り巻きたちを引き連れて王宮内を闊歩している。今日も宴の席には、高価な色付き硝子の杯や、異国から取り寄せた高価な酒が並んでいる。宰相一家の抜きんでた財力を背景に、自信たっぷりに気前よく振る舞う、ある意味では王子たちの中で最も王子らしい人物だ。  邪魔をするのも悪い、と何も言わずに通り過ぎようとしたのに、ネジェムは目ざとくトトメスを見つけ、杯を掲げながら陽気に声をかけてきた。  「おや、そこを行くのは噂の主じゃないですか。どうです? 一杯やっていきませんか。」 彼を取り囲む女性たちが悲鳴を上げ、ほろ酔い気分の貴族の若者たちはゲラゲラ笑いだす。  「生憎と、人を探している途中なんだ。また、次の機会に」  「それは残念。」 杯に頬を当てながら、ネジェムは切れ長の瞳を意味深に流してみせた。「楽しみにしていますよ。次の機会があれば、ですが。」  「……。」 むっとしつつも、トトメスは、何も言い返さずにその場を後にした。背後から、口さがないネジェムの取り巻きたちの声が聞こえて来る。  「王子も人がお悪いですよ。あの人、追放されるんでしょう? 次の機会、だなんて」  「これで皇太子指名争いから、晴れて一人脱落というわけですね。カエムワセト王子は王位に興味がないようですし、きっとネジェム様が指名されますよ」  「そうそう。さあ、未来の我らが陛下のために乾杯といこうじゃないか」  「はは、よしてくれ。気が早いぞお前たち」 まんざらでもない様子の弾んだ声からは、得意満面なネジェムの顔が浮かんでくるようだった。  けれど実際、ネジェムが次の王という可能性は十分、在り得るのだった。王位に興味が無く、父にあれこれ指図されるこことを好まないカエムワセトは、指名されても皇太子の地位を辞退するかもしれない。そうなれば、次の有力候補は彼なのだから。  ようやく、母ティアアの姿を見つけた。  侍女たちとともにネフェルトイリを引き連れて、らっぱ型の白い花を覗き込んでいる。既に成人した息子を持つ彼女は既に若くは無かったが、今も化粧の手を抜かず、伝統的な装いで美しく着飾った彼女は、名実ともにこの王宮の「女主人」として相応しい風格を備えている。  トトメスが近づいていくと、優雅な微笑みをたたえてネフェルトイリと話していた彼女の表情にかすかな影が浮かび、ネフェルトイリの表情は曇った。王妃が視線で合図すると、ネフェルトイリと侍女たちは後ろへ下がって母と息子を二人きりにした。  トトメスが足は足を止め、軽く頭を下げてから口を開いた。  「これから出発するので、ご挨拶に伺いました。」 母と話をするのは、葬祭の儀式で大失敗して以来だ。あれから何日も顔さえ見ていなかったことを思い出して、トトメスは少し悲しくなった。  ティアアは、小さな溜め息をついた。下の息子と話をする時はいつも、そうなのだ。最初に溜息、次に小言。  けれど今日は、少し違っていた。  「急な話で驚いたでしょうが、気楽にお行きなさい、トトメス。嫌なら別のことを始めたってかまわない。自由に道を探しなさい。イウヌならば、立場や噂に煩わされることもないでしょう。お前にだって、向いているものはきっとあるはずなのですよ。」  「えっと…?」 普段とはあまりに違う態度に、トトメスは戸惑った。濃い縁取りを施した母の目尻には、うっすらと涙が浮かんでいる。  「母上、俺、べつに勘当されるわけじゃ…ないですよね?」  「ああ、そんな風に思ってしまったのですね。違うのです。わたくしたちは、お前のためを思って…」 言葉が詰まり、ティアアは震える袖口で口元を抑えた。妙な雰囲気だ。まるで、今生の別れのような。  意を決したように、王妃は顔を上げ、じっ、と息子の顔を見つめた。  「――そうですね…お前ももう、大きくなったのですから、隠す必要もないでしょう。都の大神殿にある、月の神(コンス)のお社は知っていますね? 新しい子が生まれたら、長命を祈願してそこで清めの水を受け、余命を占って貰うことも」  「はい」  「お前が生まれた時も、新生児の余命を占う神託を受けたのです。そうしたら――その時、お前は早死にするだろう、と告げられたのです。犬か鰐か河馬に取り憑かれているのが見える、三十歳までは生きられるまい、と」  「……。えっ?」 トトメスは、ぽかんとしたまま母の顔を見つめていた。言われている意味が分からない。不運なだけではなく、早死にする運命だった?  ティアアは涙を浮かべたまま、震える声で続けた。  「身体に弱いところもなく、お前は健やかに育ちました。わたくしも陛下も、占いは間違いだったと思い始めていたのです。でも、幼い頃から在り得ないような事故や事件に巻き込まれてばかり…。それでようやく、あの神託は確かだったと思うようになったのです。神々の定めた余命は逃れられないのだと。それならば、お前を義務で縛ることはするまいと。自由に、好きなように生きて…」  「いや待って、待ってください母上。今の話からすると、つまり、俺は三十歳までに何処かでショボい死に方をするってことですか? たとえば野良犬に噛まれて熱病にかかる、とか、足を滑らせて川に落ちて、鰐に食われるとか、そういう」  「…わたくしや陛下が、どれだけ祈っても、供物を捧げても、お前の不運は変わらなかった…。」  「だから、諦めて残りの人生は楽しく生きろと?」 呆然と視線をさ迷わせた先に、侍女たちに囲まれたまま、心配そうな顔をして立っているネフェルトイリの姿が見えた。離れたところにいるから、彼女たちにはティアアの話は聞こえていないはずだ。  彼の視線に気づいて、ティアアはそっと付け足した。  「この話は、わたくしと陛下しか知りませんよ。他には誰にも言っていません」  「でも、あの…」 言いかけて、トトメスは言葉を飲み込んだ。「…あとで、自分で話します。」  ティアアは頷いて、両手で軽くトトメスの肩を抱き、それから、侍女たちに目で合図をして、花壇の向こうへと去って行ってしまった。あとに残された少女は落ち着かない様子で、視線を様迷わせながら立っている。  相変わらず綺麗な人だな、と、トトメスは素直に感心した。美人ぞろいの宰相一家の中でも、抜きんでて整った容姿で、花盛りの花壇の中に立っていてなお、花たちに少しも負けていない。  妹を正妃にしたい宰相の思惑と、皇太子の指名をめぐる微妙な駆け引きがあったとはいえ、いままでこんな美人と婚約者で居られたことのほうが不思議だったのだ。実際、彼女とは、一度だって釣り合いが取れたと思ったことはない。相手だってきっとそう思っているに違いない。手を繋いだこともなく、話をする時はいつも妹のイアレトを介して、ぎこちなく言葉を交わすだけだったから。  「聞いたと思うけど、俺、イウヌへ行くことになった」  「…はい」 長い睫を伏せたまま、ほっそりした少女は静かに頷いた。所在なさげに、腰の前で重ねた白い手をこすり合わせている。評判の悪い婚約者と二人きりで話をしているところを見られるのは嫌なのかもしれない。トトメスは、早口に本題に入ることにした。  「その、それで…。君は、どうしたい? たぶん俺はもう皇太子に指名されることもないはずだし、ここへ戻って来るかどうかも分からない」  「どう…とは」  「婚約の話だよ。皇太子になれないのなら、俺と婚約してる意味もないだろう? 別の王子にしたほうがいいよ。甥のネジェムじゃあ嫌かもしれないけど、もしウェベンセヌが指名されるなら、年下すぎるけど、あいつは性格は良いからさ」 意外なことに、ネフェルトイリは泣き出しそうな表情で顔を上げた。  「…トトメス様は、そんな風に私を見ておいでだったんですか」  「え?」  「それではまるで、私、王妃になりたいがために婚約を続けているみたいです…。」  「…え?」 違うの? と言いかけて、彼は思わず言葉を飲み込んだ。ネフェルトイリの瞳に、みるみる大粒の涙が浮かび、両手で顔を覆って肩を震わせて泣き出すのが見えたからだ。  「あっ、あのっ…そういう意味じゃ…俺、君がいいようにと思って…別に、そういう浅はかな人間だとか、権力の亡者だとか思ってるわけじゃ…」 通りかかった侍女たちが、眉を寄せて何やらひそひそと話している。  まずい。  このままでは、婚約者に一方的に別れを告げる酷い男の汚名まで着せられてしまう。  「ご、ごめんよネフェルトイリ。その…ごめん!」 逃げるように走り去るしか出来なかった。  花壇の端まで一気に走って、建物のかげに滑り込んだところで、彼はおそるおそる後ろを振り返って見た。心臓はまだ、ばくばく音を立てている。あんな綺麗な少女を泣かせてしまうなんて、それも、喜ばせるつもりで言った言葉でかえって傷つけてしまうなんて。  (そうだよな、そりゃ…。宰相に言われて嫌々婚約してたんだったとしても、言い方ってやつを考えるべきだったんだ。くそっ、馬鹿だな俺は) しかも話そうと思っていた本題すら、結局、言えないままだった。  (でも、それは…まあ、いいや。どうせ俺が居なくなれば、婚約は自然に解消それるはずだ。俺が長生きしようが早死にしようが、彼女にはもう、関係のないことなんだ) それにしても、自分は、ちっとも良いところの無い酷い婚約者だった。  婚約していた間は悪い噂で気苦労をかけ、将来に不安を抱かせて、最後には綺麗に婚約解消することもできずに、ぶしつけな言葉で泣かせて去って行こうとしている。そんな男が王宮一の美少女の、花の盛りの時期を何年も無駄にさせてしまったのだ。どんなに恨まれたって文句は言えない。  沈んだ気持ちのままで、トトメスは、自室へ向かう道を歩き始めた。  わあーっ、と派手な歓声が聞こえて来る。  ふと顔を上げると、王宮の前にある広場のほうで、兵士たちが集まって何かはやし立てていた。馬を繋いだ二頭立ての戦車が引き出され、それを見事に駆っている少年の姿がある。  ウェベンセヌだ。まだ幼いながら同年代の少年たちより体格が良く、馬たちを見事に操って、障害物の間を器用に戦車で走り抜けている。はつらつとした性格で軍人たちの受けは良く、アアケペルウラー王の若い頃に生き写しだと、古参の家臣たちからの評判も高い。  戦車が出発地点に走り返って来ると、そこには、王が笑顔で待っている。  「ふむ、見事なものだ。これだけ乗りこなせるのなら、その戦車はお前専用にしてもよい」  「本当ですか? ありがとうございます、父上!」 少年はぴょん、と戦車から飛び降りて、嬉しそうに父の腕の中に飛び込んで行く。正妃の息子でありながら、トトメスは、一度だってあんな風に父と触れ合ったことは無かった。笑顔で抱きしめてくれた記憶はほとんどなく、あるとすれば、しかめ面で溜息をつきつつ小言を言われるくらい。それでも昨日のように、扱いあぐねた接し方をされるよりはマシだと、思っていたのだが。  父も母も、息子をまっとうな「王子」として扱うことを諦めてしまったのかもしれない。定められた運命を変えることは出来ず、神託のとおりになるしかないのだと。  若くして死ぬ予定の"不運な王子"など、――きっと、ここではもう、誰からも必要とされてはいないのだ。  広場に背を向けて、逃げるように自室に戻って来たトトメスを待っていたのは、主人の戻りを待っていたベセクと、妹イアレトの姿だった。  「おや、ようやくお戻りですね」  「兄さま!」 待っていた駆け寄って来たイアレトは、兄に飛びついて胸に顔をうずめた。  「酷いよ、イウヌへ行かされるだなんて。急だし、遠すぎるよぉ」  「ごめんよ…でも、父上も母上も、俺のことを思って決めてくれたんだ…」  「お手紙書くから。いっぱい書くからね。だから、忘れちゃ嫌だよ?」  「忘れたりしないよ。お前も、身体には気を付けるんだぞ。少しは母上の言うことも聞いて、女の子らしく振る舞うことを覚えないと」  「うう…。」 少女は口を尖らせて、不満そうに鼻を鳴らした。「そういうの言われるから、嫌なんだあ。いいなあ、兄さまは。わたしも王宮の外に出たい…」  「家を出されるのが羨ましいって? 誰にも何も期待されないっていうのも、それはそれで辛いんだけどな」  「期待なんてされなくていいよ。女の子に期待されるのって、いい人と結婚してたくさん子供を産むことだよ? そういうの、向いてないんだもん。あーあ、あたしも男に生まれれば良かったのに…」 トトメスは苦笑しながら、庶民の少年たちのように短く刈り込まれた妹の髪を撫でた。  今はまだこんな風でも、彼女だって、いずれ思春期を迎えれば考えも変わるだろう。それに何といってもイアレトは、王と正妃の間に生まれた、由緒正しい血統の娘だ。本人が嫌がろうとも、両親は形だけでも誰かの妻に迎えさせようとするに違いない。  男の子と違って女の子には、独り立ちせずとも、誰かの庇護のもとで生きることが許されているのだから。  「トトメス様、荷物の準備は出来てます」 頃合いを見張からって、ベセクが横から口を挟む。  「お使いの日用品や着替えは一通り、纏めておきました。」  「ありがとうそれで十分だ。足りないものがあれば向こうで揃えよう。行こうか」  「はい」 荷造りを終えた荷物は、先に船着き場へと運び出されている。部屋の中はとほんど空っぽで、長椅子や寝台など、船で運ぶのが難しい大きなものだけが残されている。  本当に、ここを出ていくことになるのだ。  実感が湧かないまま、トトメスは、見送りに行くと言ってきかないイアレトを後ろに従えて歩き出した。船着き場には、準備万端、長旅に備えて物資を積み込んで、帆を上げるばかりになった船とともにヘカレシュウが待っている。見送りは彼とイアレトだけ。王はもちろん、母も、ネフェルトイリも、そして他の兄弟たちも、港に姿を見せることは無かった。  遥か北にある、川下の太陽神の街へ――  船はゆっくりと岸辺を離れ、桟橋の端ではイアレトが、千切れんばかりに手を振っている。トトメスも船の縁に立ち、手を振り返しながら、遠ざかっていく都の白く輝く建物の群れを眺めていた。  いつかまた、この地を踏むことがあるのだろうか、と思いながら。
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