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第3話 トトメス王子、イウヌの街で新たな日々を始めるも、早々に不運に見舞われるの由
この国の真ん中を流れる川には、急流というものがない。
国の南の端から北の果ての海まで、ただゆっくりと、流れているのかいないのかすら分からないような速度で進んでゆくだけだ。
途中いくつもの中洲を越え、過ぎ去ってゆく川辺の街や村を見ながら、トトメスの船旅は続いた。
そうしてようやく到着した、イウヌの街。
揺れる甲板から下りて地面に足をつけると、トトメスは大きく伸びをした。
「うーん…」
ここはもう、都からは遥かに離れた大河の中心部。都からここまで一本だった川の流れは、この先で何本かの大きな流れに分かれ、網目のようになった支流を経て北の海に向かって流れ落ちてゆくのだ。
船が到着するとすぐ、大神殿から迎えの神官がやって来た。
「ようこそお越しくださいました。我々の長老で、大神官のケペルカラー様がお待ちです。ここからはご案内いたします」
「トトメス様、荷物はこっちで運んどくんで、先に行っててください」
船の上から、ベセクが言う。
「ああ、宜しく頼むよ」
「どうぞ、こちらへ。」
案内についていきながら、トトメスは、白い衣とサンダルだけを身に着けた神官の格好を眺めていた。
太陽神ラーの神官は、都のもう一柱の太陽神、アメンの神官たちに比べると、ずいぶん質素な身なりをしている。華美な装飾品は何もない。それに、都で最近流行りの耳飾りの跡もついていない。織ったまま、ひだもつけていない白い亜麻布は、昼の陽射しの下で眩いほど明るく輝いて見える。
同じ太陽神の神官なのにここまで違うのは一体どうしてここまで違うのだろう、と、トトメスは、微かに疑問を覚えた。
目的地の大神殿は、川べりではなく、少し坂道を上った先にある。
船着き場から続く大通りに人はまばらで、街並も、大都会だったウアセトに比べれば昔風でずいぶん素朴だ。
坂道をのんびり上がってゆきながら、トトメスは、川の対岸のほうを振り返ってみた。西の丘の上は鋭い頂を持つ巨大な三角の岩山が、表面にはめ込まれた磨かれた石の上に太陽の光を反射している。
これこそ、噂に聞く古代の王たちの「聖なる墓」なのだ。
今から千年も昔にこの国を統治した、神に近しい力を持っていたとされる神王たちの築かせた、人の手によって作られたあらゆるもののうちで最大のもの。それは、トトメスの父のような偉大な王ですら、いまだ越えられぬ輝かしい偉業の一つだった。
溜息とともに、トトメスは、三つ並ぶ巨大ないにしえの記念碑を眺めた。不滅にして永遠なるもの。どれだけの年月と人手をかければ、あんなものが作れるものか、今となっては想像もつかない。あれらが築かれ、今立っているこの街の向かいに首都が据えられていた頃には、どんな風景が広がっていたのかも…。
「あーっ」
ふいに、背後で叫び声がした。
「…ん?」
振り返ろうとする間もなく、何か大きなものが回転しながら、どすん、とぶつかって来た。勢いに巻き込まれ、彼はそれと一緒に通りにひっくり返った。
「ぐえっ」
「う、うう…。」
「お父さん!」
首から上だけ動かすと、通りの脇の狭い階段の上から、蒼白な顔をした女性が杖を手に、こちらに向かって駆け下りて来るのが見えた。そしてトトメスの身体の上では、彼に引っかかって老人が呻いている。状況から判断するに、どうやら、足を滑らせて階段から落ちてきた老人とぶつかったようだった。
騒ぎを聞きつけて、通りの住人たちが駆け付けて来る。足の悪い老人を引き起こし、トトメスに手を貸して立ち上がらせる。
格好からして相手が貴族か地位の高い人物だと察した女性は、泣き出しそうな顔で地面に平伏した。
「お、お許しください! …あの、父は足が悪くて、そこの階段で滑ってしまって、それで…!」
そんな風に畏まって対応されるのも久しぶりだ。これが都なら、また「不運の王子」が巻き込まれたと、みんなクスクス笑いながら通り過ぎるだけだったはずだ。
「あー、俺は無事だから大丈夫。身体だけは丈夫だし。それより、おじいさん、大丈夫?」
「はあ、何とか…少し膝をすりむいただけで」
「それなら良かった。足が悪いなら階段には気をつけるんだよ。手すりを使ったほうがいいかも。それじゃあ」
「あ、…」
汚れた腰布も気にせずに、すたすたと神殿のほうに向かって立ち去っていくトトメスを、住人たちは、首を傾げながら見送っていた。
街のいちばん奥に建つ太陽神殿は最初、思っていたよりも小さいように思われた。
けれど門をくぐって中に入っていくと、それは勘違いだったことに気づかされる。表からでは、見えている範囲が狭いのだ。奥の方まで大小様々な建物が複雑に入り組んで、東の谷をびっしりと埋め尽くしている。
階段、坂道、どこに続くのか分からない曲がりくねった参道。
何世代もかけて増改築を繰り返されてきた、歴史ある神殿の中は、まるで迷路のようになっている。
「こちらです」
案内の神官は、入り口できょろきょろしているトトメスを促して、どこかへ通じる薄暗い細道へと入っていく。ここの構造を覚えるのには一苦労しそうだ。慣れるまでは何日かかかるだろう。
「ずいぶん沢山、建物があるんだな」
「太陽神殿ですからね。太陽神様にはたくさんの顔がございます。一日の内でも、朝はケペル、昼はラー、夕べにはアトゥムと、三度お名前を変えられる。分身や別名、宗派によっても、祀り方が違うので」
「へえ…、それで、こんなに沢山の小神殿に別れているのか」
太陽の輝きを意味する柱が立っている広場を通り過ぎ、やがて、行く手にこぢんまりとした、日干し煉瓦で作られた人間用の建物が見えて来た。そこが、神官たちの住まいらしい。建物の前庭には小さな井戸と、雨水を溜める貯水槽があり、側では、一仕事終えたばかりのロバが餌に残飯を与えられている。歴史ある神々の住まいの只中にあって、妙に親しみのある田舎の雰囲気だ。
てっきりそこは下級神官だけの住まいだと思っていたのに、案内の神官は、その建物の前で足をとめた。
「大神官様はこちらにいらっしゃいます」
「ここ?」
「はい。二階に上がっていただければ。」
"大"神官というからには、もっと立派な住まいに暮らしていると思っていたのだが。
言われたとおり二階に上がっていくと、開いたままの扉の奥で、小柄な老人が一人、日なたで膝の上に巻物を広げていた。よく日に焼けたこげ茶色の肌。それに、額や口元に刻まれた深い皺。指は細く節くれだっていたが、手は大きく、力強い感じがする。
「お邪魔します」
「ん」
トトメスが入っていくと、老人は顔を上げ、目の前の座布団を指さした。そこへ座れ、ということだろう。
「お主がトトメス王子か。ふーむ。…」
「……。」
指を顎に当て、まるで値踏みするかのような視線を投げかけた老人の表情が、見る間にほころんでゆく。
彼はほとんど歯の無い口を開けて笑った。
「何じゃ。神に呪われて不運だとか何とか聞いとったが、全然違うじゃあないか。まったく、人の噂ほどアテにならんもんは無い」
「はい?」
「解呪なんぞ要らんな。よしよし。お前さん、ここへ来て正解だったぞい。後はいかようにも、太陽神様が導いて下さるじゃろうて。」
「…え?」
「お前さんの住まいは隣の建物じゃ。わしはいつでもここにおる。あとは好きにするといい」
それだけ言って老人は、再び巻物のほうに視線を戻してしまった。
何が何だか分からない。
けれど、老人は気になることを口にした。
「神に呪われて不運、というわけではない」――?
詳しく聞いてみたかったけれど、今は無理そうだ。トトメスは立ち上がって軽く頭を下げると、巻物に熱中している老神官をその場に残して、部屋を後にした。
新しい住まいは、ベセクがあっという間に整えてくれた。
口は悪いが仕事が早く、有能な従者ではあるのだ。トトメスは、彼のそういうところも気に入っていた。
とはいえ引っ越しはすぐに終わるものでもなく、全ての荷物を片づけて一息つく頃には、もう、夕方になっている。王宮で使っていたものよりずっと庶民的な家具に囲まれて、トトメスは、この街に着いて初めての、ささやかな夕餉をとっていた。
「そういえばトトメス様、到着してさっそく、街ですっ転んだらしいじゃないですか」
主人の杯にビールを注ぎながら、ベセクが茶化すように言う。
「転んだっていうか、人とぶつかったっていうか。階段からおじいさんが落ちてきたんだよ」
「どこも怪我しなかったんですか」
「俺はね。相手は膝を擦りむいたらしいけど」
「相変わらず、トトメス様は身体が丈夫ですよねぇ」
呆れているのか、感心しているのか分からないという口調だ。「いやね、街のほうで噂になってたんで。とんでもない勢いでぶつかったのに、尻もちついただけで何事もなく、文句も言わずに去って行った若い貴族がいたんだとか。あれはきっと大物だとか何とか、評判になっていましたよ」
「評判? 都じゃあ、呪われてるとか不運を呼び寄せるとか陰口叩かれてたのに? この街の人たちは変わってるんだなあ。」
杯を手に、中身を一口飲んでからふと思い出す。
「…そういえば、ここの大神官さまにお会いしたんだけど、その人も『呪われてるわけじゃない』とか何とか言ってたな。ここは皆、ちょっと変わってるのかも」
「まあ、階段から落ちてきた人とぶつかって、どっちも大きな怪我が無かったんだから、運は悪いですが不幸じゃないですよ。両方とも怪我してたら最悪でしたけどね」
「そりゃそうだな」
笑いながらパンをちぎり、鳥肉と一緒に煮込んだ玉ねぎと合わせて口の中に放り込む。王宮の料理と違って香辛料の入っていない、ほとんど塩だけの味だったが、それでもすきっ腹にはずいぶん美味しく感じられた。
「明日からどうされるんですか。神官の修行とか」
「んー…。『あとは好きにするといい』としか言われていないんだよな。とりあえず、この神殿の中を歩いてみることにするよ。どこに何があるのか、まだ覚えられていないし」
迷路のようなイウヌの神殿は、都の広々とした大神殿よりはずっと、探検のし甲斐がありそうだった。
「そういえば、ベセク。急な出発だったのに、ここまでついてきてくれて有難う。助かったよ」
食べ終わった皿を運ぼうとしていたベセクの動きが一瞬、止まった。
「……給料は良いですからね。貰った分は、働きますよ」
ほとんど表情を変えず、ぼそりとそれだけ言って、彼は部屋を出て行ってしまった。
(引っ越しの特別手当のこと、かな…?)
トトメスは首をかしげながら、ベセクの去って行った方角を眺めている。
(あんまり長引くようなら、もう少し給料、上げたほうがいいかもなぁ。というか、いつか都に帰れるかどうかも分からないんだし…)
これからどうなるのか、どうすればいいのかも、さっぱり判っていないのだ。それに、出発前に母のティアアから言われた不吉な占いの結果についても。
「犬か鰐か河馬に取り憑かれていて、三十歳までは生きられない」。
それが本当だとしたら、トトメスは、もう、人生の半分を生きてしまったことになる。けれど、この大神殿の老神官は彼を見て、「呪われているわけではない」と言ったのだ。
果たして母の聞いた占いの結果は、本当に正しいのか。残された時間があと半分しかないのなら、どう生きるべきなのか。
考えていても判らない。月も星も無い夜の暗がりのように、目の前には、しるしの無い茫漠とした闇だけが広がっていた。
翌朝、トトメスは、聞きなれない鐘の音で目を覚ました。
まだ日が昇る前で辺りは薄暗い。けれど東の崖の上のほうには、夜明けの近いことを示す白っぽい明るい色が広がっている。
眠たい目をこすりながら起き出してみると、驚いたことに昨日は見かけなかった沢山の神官たちの姿があった。供物を運んだり、参道を掃除したりと忙しく動き回っている。どこか頭上のほうからは、祝詞を唱える朗誦神官の、朗々とした声が谷間に響き渡っている。世界に熱と光を齎せし"神々の父"なる太陽が、夜を経て蘇り、新たに東の地平に誕生したことを祝う、太陽賛歌の一節だ。
(そうか。そういえば、ここ、太陽神殿だったっけ…)
今さらのように、そんなことに思い至った。ここは太陽神を主神として祀る街なのだから、夜明けが最も忙しい時間なのだ。
「おはようございます!」
頭を綺麗に剃り上げた、見習いらしい若い少年神官が、元気な笑顔で挨拶して通り過ぎていく。
「あ、おはよう…」
若い見習い神官も年配の上級神官も、皆、忙しそうにしている。目が覚めてしまった以上は寝なおす気にもなれないし、今日からここで神官たちと一緒に暮らすのだ。神官の修行はしないにしても、せめて少しくらいは何か手伝おうと、トトメスは、近くを通りかかった神官の一人に声をかけた。
「目が覚めてしまったんだ。何か手伝うよ」
「それなら、そこの礼拝堂の掃除を手伝っていただけますか。箒で砂を掃き出してくれれば構いません。」
「うん、判った」
示されたのは、入り口の門から近い、比較的新しい建物のようだった。太陽神を祀るだけあって中は明るく、大きく開かれた天井で、壁に描かれた色鮮やかな水蓮の模様が明るく浮かびあがっている。トトメスは、床に置かれている香油の壷に気が付いて、それを側の祭壇の端に載せた。
(こんなところに置いてあったら、誰かがつまずいて中身をこぼしそうだしな)
トトメスが箒を手に掃除をしていると、気づいた若い神官が慌てて頭を下げる。
「すいません。王子様にわざわざ手伝っていただくなんて…」
「いいんだよ、何もせずに宿だけ借りるわけにもいかないし」
それに、こうして「手伝わせてくれる」だけでも有難かった。何しろトトメスは、他の多くの神殿から、出入りを遠慮して貰いたいと言われてしまっている身の上なのだ。
「それにしてもここ、掃除だけでも大変そうだよな。広いし、建物も多いから」
「そうですね。ですが、朝のうちに全部終わらせてしまうので、昼からはのんびりしたものですよ。うちの神殿は朝が早い代わりに、午後は日課もほとんどありませんからね」
雑談をしながら掃除を終えると、ちょうど朝餉の時間になっている。太陽は東の崖を越え、神殿の中庭にも、ようやく朝日が届き始めていた。
(ふう。少しは、役に立てた…かな?)
早朝の澄んだ空気のお陰もあって、いつになく気分が良い。
(今日は失敗しなかった。それに、久しぶりに人とまともに話をした気がするな…。)
都では悪い噂が広まりすぎていて、王宮の外でさえ人に避けられ、道を歩けばけばヒソヒソ話が聞こえて来る有様だったのだ。
都を離れて、結果的に良かったかもしれない、とトトメスは思った。
悪い噂もここまでは届いていない。新しい街で、今度こそ普通の人生を歩めるのではないかと、彼は淡い期待に胸を膨らませ始めていた。
朝に出会った若い神官の言った通り、神殿は、午後には静かになっていた。
神官たちの姿はみなどこかに消えてしまい、参拝にやって来る住人たちの姿もまばらで、朝の喧騒が嘘のようだ。それに、トトメスのもとへも誰も訪ねて来ない。この神殿へは、名目上、神官の修行として送り込まれてきたはずなのに、だ。
特にすることも無く、退屈してきたトトメスは、ベセクを連れて街に出てみることにした。
「市が立ってるといいんですけどね。ついでに買い物をして帰れると助かるんですが」
と、ベセク。
「人は多いけど、ウアセトほど店があるわけじゃなさそうだな。…対岸の、メンネフェルの街のほうが買い物は出来るんじゃないか? あっちはモノづくりの神様が主神だ。工房なんかも沢山あると聞くよ」
「対岸に渡ってちゃあ半日がかりですね。そもそも、身の回りのお世話をするのがぼく一人って少なすぎません? もう何人か、人を雇っちゃどうですか」
「うーん、考えておくよ…。」
トトメスは苦笑しながらも、少し真面目に考え込んでいた。
王宮にいた頃は、いくら王子と言えども不運につきまとわれた主人は持ちたくない、と、あまり進んで雇われてくれる使用人は居なかった。部屋を掃除していたら妙な唸り声を聞いたとか、明け方に部屋から出て来る異形の影を見たとか言って、短期間に辞めていく者も多かった。悪い噂を信じ込んでいると、そんな在りもしない幻まで思いつくようになるらしい。今回だって、イウヌ行きに同行してくれのはベセク一人だ。
でもイウヌの街ならば、…まだ悪い噂の伝わっていないここならば、新しく雇われてくれる人も見つけられるかもしれない。
王からは、数人の召使いを抱えても十分に暮らしていけそうなくらいの生活費を支給されている。この先もベセク一人に頼るつもりでないならば、誰か探しても良いかもしれなかった。
イウヌの市街地は、川べりに添って広がっている。太陽神殿のある場所は街の東に広がる高台のほうだから、街までは坂を下りていくことになる。川辺に沿って広がる緑の農地ははるか視線の彼方だ。参道のゆるやかな坂道に沿って広がる屋台や住宅地を横目に見ながら、トトメスは、ここなら毎年の川の増水でも家が沈んでしまうことはないのだろうな、と思った。
この国の真ん中を流れる大河は、夏の季節になると水嵩を増し、堤防を越えて氾濫する。
その水によって畑が潤され、次の植え付けの恵みを保障してくれるのだが、年によって増水の具合は違っている。丁度よいだけ嵩が増せばいいのだが、多すぎ年には市街地まで水が流れ込んで、全てを水浸しにしてしまうのだ。
川辺に近い場所に神殿のあるウアセトなどは、何年かに一度は参道まで水が溢れ、何十年かに一回は、神殿内まで浸水してしまう、という。
けれど高台に神殿のあるこの街なら、神殿が水没することは、たぶん、世界の終わりの日まで無いだろう。
ウアセトには無かった坂道を、川から水をくみ上げて運ぶロバと人の列が通り過ぎていく。その傍らを、高台ならではの涼しい風が吹き抜けていく。
あと数カ月もすれば、春は終わり、増水の季節がやって来る。太陽が最も高く強く輝く、増水期の到来だ。
「お」
通りの端に魚屋を見つけて、トトメスは足をとめた。「へえ、生きた貝とか売ってるぞ。これは海のほうでとれるやつだ」
塩水を張った桶の中に、大粒の貝が小さな泡をぷくぷく吐き出しながら重なっている。
「都じゃあまり見かけないですね。食べられますかね?」
「勿論、食べられますよ。」
店主がにこにこしながら、干物を並べた陳列台の向こうから声をかけて来る。「そこの貝は、ちょうど今朝、届いたばかりなんですよ。桶ごとお買い上げいただけるんなら、お安くしときますが」
「ちょっと味を試してみたいんだよな。よし、折角だし買っといてくれ、ベセク。」
「ええー…まったく、トトメス様も物好きですよねぇ」
ぶつぶつ言いながらも、ベセクは店主と交渉に入った。本来は物々交換で、換金に使われやすい固焼きのパンや織物を使って支払うのだが、手持ちが無ければ信用買いということもできる。手慣れたベセクは、買った荷物を大神殿に届けてくれるよう店主に伝え、支払いは大神殿で受け取れるように手配している。それなら財布を持ち歩かなくてもいいし、重たい荷物を持って坂道を上がる手間も省けるというものだ。
ベセクが交渉をしている間、トトメスのほうは、近くの店をぶらぶらと見て回った。ウアセトの都には無い珍しいものは無いだろうかと思ったのだ。
けれど、海産物や地元産の織物のほかに目立つものは無く、むしろ、異国から入って来た品物が少ないぶん、品揃えは地味に感じられた。ここには貴族街も王宮も無いし、裕福な上流階級向けの需要もあまり無いのだろう。
少しがっかりしたものの、代わりに、この街ならではのものも見つかった。それは、葦で編んだ見事な籠と、洒落たサンダルだ。葦は下流の中洲でよく育つ。都のある、川の上流のほうではあまり採れないのだ。
「いいね、この籠。もう少し大きめのはある?」
「ええ、ありますよ。あの…自宅で使うんですか? それとも贈り物?」
貴族など、こんな店には滅多に来ないのだろう。身なりのいいトトメスを前にして、店番の少女は、少し緊張した面持ちで答える。
「自分用だよ。寝台の枕元に置いておく物入れがないかなと思って」
「それなら、紐で吊るすものはどうですか。二重底のなら、丈夫でいいかも。奥にあるので、取って来ます…少し待っててください」
少女が店の奥へ引っ込んでいくのと同時に、裏庭のほうから犬がひょっこり顔を出した。この家で飼われているものらしい。
「お。おいで、ほら」
トトメスが笑顔で手を差し出すと、犬は、なぜかビクっとなり、目を見開いて尻尾を後ろ足の間に挟み込んだ。そして耳をぺたりと伏せたまま、一歩、二歩、じりじりと後退り、あっという間に家の中に駆け込んでいってしまった。
「…って、何だよ。人の顔見るなり失礼な」
「どうかしたんですか?」
買い物の交渉を終えたらしいベセクが、やって来る。
「いや、犬にめちゃくちゃ怯えて逃げられた。いつものことだよ」
「またですか? 相変わらず、トトメス様は動物ウケが悪いですね」
「ウケが悪いっていうか、人を怪物みたいな顔して見るのは止めてほしいよ、まったく。何がそんなに気に入らないんだろう」
話していた、その時だった。
突然、家の中からただならぬ悲鳴が上がった。
「お母さん! お母さん…」
「?!」
顔を見合わせるや、トトメスとベセクは売り物台を飛び越えて家の中に駆け込んだ。作りかけの籠を積み上げた奥の部屋の入り口に、投げ出された白い足が見えている。年配の女性が倒れているのだ。少女は、必死にその女性の身体をゆすっている。
「どうしたんだ? 転んだのか」
「わ、判らないの…時々、倒れることはあったけど…」
動転した少女は、しゃくりあげながら途切れ途切れに答える。倒れている女性は顔面蒼白だが、まだ息はある。トトメスは、倒れている女性を抱え上げ、楽に呼吸が出来るよう身体を仰向けにしてやった。それから、側にいたベセクに言う。
「ベセク、医者を呼んで来てくれ。」
「分かりました」
ベセクは、犬のような俊敏さで外に駆けだして行く。
「君は、お母さんの手を握って。お医者さんがくるまで呼びかけてて」
「は、はい」
「そこの布を頭の下に敷いてもいいかな? よし、これで大丈夫。意識が戻るといいんだけど…」
ほどなくして、ベセクが医者を連れて大急ぎで戻って来た。少女は母親の側に座り込んだまま、真っ青な顔をして震えている。
「どうですか」
「うーん、持病の発作だろうね。普段はここまでひどくないんだが、寝不足と重なったんだろう」
医者が薬を飲ませると、洗いたての布のように真っ白だった女性の顔に、赤みがさし始めた。ほっとして、少女は母親に呼びかける。
「お母さん、大丈夫?」
「…うーん」
意識が戻ってきたようだ。
「良かった」
ほっとして、トトメスは胸をなでおろした。「それじゃ、俺たちはこれで。先生、あとはよろしく」
籠売りの店を出ると、日は、もう傾き始めていた。
「……。」
ふと、トトメスは何かに気づいたように足をとめた。
「どうしたんですか、トトメス様」
「いや、…」
助かりはしたけれど、あの店にトトメスが訪れた時に店の女性が倒れたのは間違いない。
"不運の王子"。
もしここが都だったなら、店番が相手をしたからその店に不運を呼び込んだのだと、噂されていたに違いない――。
「何でもないよ」
そう、何でもない。これはきっと、偶然なのだ。それに、あの倒れた女性はちゃんと助かった。
精一杯明るい声で、トトメスはベセクに笑いかけた。
「そろそろ戻らないといけないな。今日はあんまり見て周れなかったし、また今度」
夕日は西のほうから射して来る。川の対岸にある三角の岩山は陰になり、赤く染まる空を背景に、まるでそこだけ闇色に空を切り取ったかのように佇んでいる。坂道の上の太陽神殿も赤く染まり、地平線の下の「死者の国」へと沈みゆく太陽を見送っている。西へ沈み夜に死んだ太陽は、翌朝再び東の空から復活を遂げるのだ。それが日々の繰り返し。太陽神の神官たちは日没に太陽の死を悼み、日の出に復活を遂げた太陽の誕生を祝う。
大神殿に戻って来た時、トトメスは、何やら礼拝堂のほうが騒がしいことらに気が付いた。今朝、トトメスも掃除を手伝った建物だ。
焦げ臭い匂いが風に乗って流れて来る。
「どうかしたのか?」
集まっている若い神官たちに近付いて訊ねる。
「ああ、大したことでは無いんですが…ちょっとした、ボヤ騒ぎで」
「ボヤ騒ぎ?」
「いつもは床に置いてある香油壷を、誰かが祭壇の上に置いてしまったらしいんです。それで、目の悪い老神官が腕を引っ掛けて、床に落として割ってしまって。運悪く、ランプが近くにあったもんだから…。」
さあっ、と血の気が引いていくのが判った。香油壷を祭壇の上に置いたのは、トトメス自身なのだ。その記憶は鮮明に残っている。
「えっと…あの、誰も怪我はしなかったのか? 何か燃えたりは」
「ああ、それは問題ありません。火はすぐに消し止められたし、香油が一壷、無駄になったくらいですね」
「…そうか」
ほっとするとともに、彼は、額に手をやた。嫌な脂汗が滲みだしている。
「…トトメス様?」
ふらふらとその場を離れるトトメスの後ろを、ベセクが怪訝そうな顔でついてくる。
「やっぱり、駄目だ。俺はここでも…」
部屋に戻るなり、彼は夕食も取らずに寝室に引きこもってしまった。布をかぶり、寝台の上に丸まって頭を抱え込んだ。
新しい街にやってきた初日からこれだ。外を出歩いただけで不運を呼びよせてしまう。どうせここでも、すぐに噂が立つに違いない。「不運の王子」、近付いただけで何かが起こる厄介者だと。
このまま消えてしまいたい気分だった。
もしそれが叶わないのなら、せめて、二度と目覚めなければいいのに、と。
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