第4話 トトメス王子、自らの失敗を恥じ引き籠った後に開き直りを覚えるの由

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第4話 トトメス王子、自らの失敗を恥じ引き籠った後に開き直りを覚えるの由

 朝が来ても、トトメスは部屋を出てこなかった。  それどころか部屋の内側から閂をかけてしまい、ベセクが扉を叩いても返事も無い。  「トトメス様、トトメス様。いい加減起きてください。もう昼ですよ。」  「……。」  「生きてますかあ? ほんとうにもう。何を不貞腐(ふてくさ)れてるんですか」  「生きてるよ。残念なことに。ああ、俺もう駄目だ…ここでもまた失敗ばかり…もう部屋から出たくない」  「失敗? 何を言ってるんですか。せめてここを開けてくださいよ。お届け物ですよ」  「何だよ、届けものって…。」 ずるずると身体を引きずって、内側にかけた閂を外しながら扉を少し押し開く。寝ぐせのついたひどい顔で覗いたトトメスの目の前に、ベセクが、籠に山盛りの胡瓜(きゅうり)を、ずい、と突き出して見せる。  「…これは?」  「街の人がお礼だって言って届けに来たんですよ。ほら、例の、トトメス様が街に着いた日に階段から落っこちそうになったのを受け止めたっていう人の家族です。」  「お礼…? 階段から落ちるところに、たまたま通りがかっただけなのに?」  「トトメス様にとっちゃあ不運でも、向こうから見れば幸運だったんでしょ。トトメス様がたまたま通りかかってぶつからなかったら、その人は坂道を転がり落ちて、酷い怪我をしてたかもしれない。要は取りようの問題で」  「はあ。ずいぶんと良く取ってくれたもんだね」 ぼそぼそと頭をかいて、トトメスは部屋の奥へ引き返そうとする。「神官さんたちにおすそ分けするか、供物にしてもらってくれ。俺は食欲ないから」  「昨日買って来た貝のほうは、どうするんです? 腐っちゃいますよ」  「……。」 ぱたん、と扉が閉まる。  「適当に処分しといてくれ…」くぐもった声が、閉まった扉の向こうから聞こえて来る。「俺はもう外を出歩いたりしないよ。ここで閉じこもっていれば、誰にも迷惑かけずに済むんだからさ…。」  「やれやれ。これは重症だ」 ベセクはため息をつき、水分を含んだ立派な胡瓜を一本、摘まみ上げた。昨日の外出の何がそんなに主人の気分を損ねたのか、側にいた彼にも分からない。ただ、出かけた先で急病人に出くわしたのは確かだった。それと、神殿でのボヤ騒ぎ。そのくらいだ。  籠に山盛りの胡瓜と、桶に入った貝を前に、それらをどうするべきか考えあぐねていた時、誰かが戸口に立った。  「…ん?」 それは血相を変えた神官と、昨日の魚屋の店主だった。  「ああ、従者どの。丁度良かった、王子はどうされてますか?」  「はあ、今日は奥でまだ寝てますけど」  「お、遅かったか…」 魚屋の店主が額に手を当てる。「すいません、本当に。あんな貝、売るべきじゃなかった…」  「ん? 何のことです」  「この者が昨日売った海の貝とやら、毒を持ってたらしいんですよ。」と、側にいる神官。「近くで赤潮が発生しているのを気にせずに採ったものだとかで、他に売った数人の者が酷く腹を壊したそうでしてね。残りはこちらの殿下が纏めて買い上げていったから、それ以上、被害者は出なかったらしいんですが…。」 ベセクは思わず笑ってしまった。  「なんだ。それなら心配要らないですよ。実はあの貝、まだ料理していなくて、全部ここにあるんで。うちのトトメス様が寝込んでるのは別の原因ですよ」  「何と。本当ですか」 魚屋は桶の中を覗き込み、ああ、と声を挙げて胸を撫でおろした。  「よ、良かった…。まさか王子様に毒を盛ったと思われやしないかと、そりゃあもう、生きた心地もしなかったんでさぁ」  「まぁうちのご主人なら、毒くらい食っても死にそうにありませんけどね」 笑いながら、ベセクは桶の中の貝を見やった。「起きてきたら、トトメス様には貝を食べなくて良かったって言っときます」  「本当に、本当にすいませんでした。もちろん返金させていただきますから…」  「いや、それも面倒だ。だったら別の美味そうな魚を持ってきてくださいよ。今、うちのご主人は新しい街に馴染めなくてちょいとお悩み中なもんで」  「そ、そんなんで構わんですか…? ありがとうございます!」 魚屋は汗を拭き拭き、何度も何度も頭を下げて、付き添ってきた神官に連れられて去って行った。  (まったく、うちのご主人ときたら、肝心なところは何も見ちゃいないんだから) 物音ひとつ聞こえてこない寝室のほうを振り返り、ベセクは、心の中で呟いた。  (…また一つ、不運が幸運を呼びましたよ、トトメス様。) けれどトトメスは、そんな騒ぎのことなどつゆ知らず、浅い眠りの中にあった  何かが、ペロリと顔を舐める。  ふんふんと鼻を鳴らしながら、尾を振って冷たい鼻づらをこすりつけてくる。じゃれついてくるような感覚だ。  (おい、やめろ) けれど、その生き物は止めようとしない。犬のような雰囲気なのに、犬とは違う。妙にゴリゴリした固い肌触りに、生臭い匂い。鋭い爪の生えた前足で突かれると痛い。  (やめろってば。俺に近付くな! お前も、不運な目に遭うぞ)  「…?」 不思議そうに首を傾げ、それが口をかぱりと開けて笑った。長い斑の舌が見える――それに、綺麗に並んだギザギザの歯も、  (おい、やめろ。舐めるな。俺にかまうなってば、眠らせてくれよ。おい…) 舐めまわされ、突きまわされて、たまらずトトメスは目を開けた。  目の前に、窓を閉ざしたままの薄暗い天井が見えている。  「…夢?」 けれど、何かがじゃれついてきた感覚ははっきりと残されている。  寝台の上に起き上がると、彼は頭をかきながら辺りを見回した。ここは確かに、イウヌの大神殿の奥にある、仮住まいの自分の部屋だ。窓も扉も閉めたままだし、当然ながら、他に何か動物のいる気配はない。  辺りはもう薄暗く、夕方になりかけているようだった。  (さすがに少し、寝すぎたか…。) そろりと外に出てみると、ベセクの姿は無かった。卓の上には数本だけ、胡瓜が載っている。街の住人がお礼に持って来た、と、確かベセクが言っていた。残りは言われたとおり供物に持っていったのかもしれない。  胡瓜を一本取って、無造作に塩をまぶして齧りながら、トトメスは、外に出てみた。  勤勉な太陽の船は今日も定刻通り、西の地平へと到達し、青い空をこれから赤く染めながら、暗い死の世界へと沈んでいこうというところだ。太陽の死を悼む神官たちの朗誦の声がどこかから響いてくる。それに混じって、場違いなほどのんびりとしたロバの声も。  振り返ると、井戸の向こうに、最初にここへ来た時に案内された神官たちの住まいが見えた。  (…そういえば、大神官さまはいつでも来ていいと言っていたな) 何故か、足は自然にそちらを向いていた。  言わなければならない、と思ったのだ。  自分がいかに不運を招き寄せてしまっているのかを。ここへ来て僅か数日だというのに、早々に幾つもの事件を引き起こした。きっと都にいた頃と同じように皆に迷惑をかける――そのことを、前もって謝っておきたかった。  それとともに、問いたださねばならないと思った。大神官は、トトメスが「呪われているわけではない」と言ったのだ。では、この不運は何故引き寄せられるのだろう。  これが呪いの類ではないとすれば、一体何なのか。  二階の部屋は、初めて来たときと同じように開かれていた。薄暗い部屋の中、小柄な老人はランプの灯をともし、巻物を書棚に片づけている。  「お邪魔します」 おずおずと入ってきたトトメスを見て、大神官のケペルカラーは顔を皺だらけにしながら、くしゃりと笑った。  「邪魔ではないぞ。そろそろ来る頃かと思っていた。」 腰を延ばしながら向きなおるなり、老神官はおもむろに言った。  「礼拝堂の掃除を手伝ったのは、お主だそうじゃな」 どきり、とした。  「香油の壷が、いつもと違う祭壇の上に置かれていたと聞いたぞ。」 既に、全て知られているのだ。それなら話は早い。この老人にももう、判ったはずだ。  トトメスは項垂れ、溜息とともに小さく頷いた。  「俺が…確かに俺が置きました。すいません。だけど、あの、まさかボヤ騒ぎなるなんて――本当に…」  「はっはっは。」 ふいに、老人は歯の無い口を開けて大声で笑いだした。  「…?」  「はっはっは、あっはっはっは」 意外な反応だった。  「あ、あの。何故、笑うんですか」  「そりゃあな、笑うに決まっておるわ。お主、本当に自分が何をしたのか判っておらんのだなぁ。あー…」床に腰を下ろし、老神官は、肩をゆすりながら愉快そうにトトメスを見上げた。  「あの香油壺が割れた時に、何が起きたと思う。」  「それは…えっと、ボヤ騒ぎですよね?」  「違う、違う。そのお陰で、壺の中に沈んでおった護符が見つかったのよ。でな、ボヤ騒ぎで人が集まって、皆の見ている前で香油の中から拾い上げられたのだ。それは一週間ほど前に無くなった、高位神官の一人が身に着けておったものだった。」  「はあ」  「その一件では、掃除係の見習い神官の一人が窃盗を疑われて、ムチ打たれて反省室に閉じ込められておったのよ。その濡れ衣がようやく晴れたんじゃ。な。」 トトメスは一瞬、反応出来なかった。  だがすぐに、慌てて言い返す。  「いや、それは…。そんなのは、偶然でしょう? 無実の罪ならいずれ疑いは晴れていましたよ。壺が割れて、ボヤまで起きたんだ。確かに早く地下牢から出られたのは、いいことだと思うけど…。」  「ふーむ、全く。お主はどうしても、自分のしたことを悪いほうに取るんじゃな」  「そりゃあ、そうですよ。今まで散々、不運続きなんですよ。俺が道を歩けば鳥の糞が落ちてくるし、買い物に行けば人が倒れる。掃除をすればボヤ騒ぎが起きて、儀式をすれば台無しだ。なんにも良いことなんてない」  「だがそれは、お主ひとり迷惑を被っただけで、他の者には危害は加えられておらんのではないか?」  「え?」  「お主自身が死にかけたとしても、お主のせいで他の者が傷ついたり、死にかけたりしたことはない。そうではないのかな」  「……。」 トトメスは、思わず腕を組んで考え込んでしまった。  「…確かに、…それは、そうかもしれません」  「なら、お主はただ、他の者の不運を代わりに引き受けておるだけなんじゃよ。己の強運と加護を盾にしてな」  「強運? 加護?」  「うむ。本当に神々に呪われて運が悪いのなら、子供のうちにとっくに死んどるわい。死にそうな目に遭っても何ともないのは、実際には護られとるからだ。」 黄色い歯をむき出しにして、老神官はしわくちゃの顔で笑った。  「信じなさい。このわしが言うんじゃからな。まずは己を信じること。そこからじゃよ」  「…はあ」 不思議だ。この小柄な神官の言葉は、今までに出会った他のどの神殿の神官たちよりも心に沁みわたる。  トトメスは老神官の傍らに腰を下ろし、姿勢を正して真面目に聞き返した。  「分かりました、でも…それならどうして、今まで誰もそう言ってくれなかったんですか? アメンの大神殿には何度も祈祷に行ったんです。でも、この不運は運命で、一生付きまとうものだとしか。それに、新生児の余命を占う月神コンスの神殿でも、俺は長生き出来ない、と言われているんです」  「ふうむ。それは神託を告げる神官が未熟だったんじゃろうな」  「未熟?」  「知らないものは見ることが出来ず、理解することもかなわない。神や神意とはまさにそれだ。見えないものを見て、理解し、無知なる者たちに教え導くのが神官の務めなのだが、いかんせん、これには適性と年季が必要でな。」 トトメスは、思わず身を仰け反らせた。  「まさか都の、王のお膝元にある大神殿の神官たちが未熟だとおっしゃるんですか?」  「――ううむ…まあ、…言ってみれば、そういうことになるかのぉ」 歯切れ悪く、まばらな顎鬚を撫でると、老神官ケペルカラーは開いたままの扉の外にちらと視線をやった。誰もそこにいないことを確かめるかのようだ。  それから、真面目な顔をして口を開いた。  「先代か先々代の王の頃から、都には、華美な異国の文化が流れ込むようになった。異文化交流も大事なものだが、過ぎたれば害をなすこともある。それに、多すぎる富と財は、容易く人の眼を曇らせる。…ウアセトの、アメンの大神官たちは、寄進物を受け取って私腹を肥やし、貴族同然の暮らしをすることに慣れ過ぎた。己の職分を忘れ、神に仕えるという職務と真摯に向き合う気持ちが薄れてしまったのだ。それゆえに、神託の言葉を巧く介することも、真意をくみ取る力も衰えたのだろう。神託を歪めるか、一部を切り取って自分の都合の良いように吹聴する酷い者もおると聞く」  「そんな…。都の神官たちが、腐っているとでも…?」  「心当たりは無いのかね」  「……。」 そう言われると、トトメスも言い返せなかった。  歴代の王たちが、都の神殿に莫大な寄進をしてきたことは知っていた。歴代の王たちが繰り返してきた、異国を平定するための戦争によって外敵の脅威は去り、交易によって珍しい品々も流れ込んでいる。それによってどこの神殿も壮麗になり、祭りは年々、派手になる一方だった。王家が行う毎年の葬祭の儀式でさえ、本来なら家族だけでささやかに供物を捧げれば終わりだったはずなのが、今や香油や花がふんだんに使われるようになっている。  それに比べれば、この太陽神殿は確かに素朴で、神官たちも、過剰に着飾っていたりはしない。  ケペルカラーは、言葉を重ねて言った。  「トトメス王子。お主にもいずれ見えるようになる。その時こそ、己が何を成すべきか知ることになるだろう。だからそれまで、己を信じて生きなされ」  「……。」 トトメスは、黙って頭を垂れた。この老賢者の言う言葉がどこまで本当か、それはきっとこれから判るだろう。  けれど、少しは気が楽になった。そうだ。いくら不運を呼び寄せたって、それは自分しか酷い目に遭わせていないのだ。だったら気に病むことはない。もしケペルカラーが間違っていたとしても、自ら呼びよせた不運で死ぬのは、自分一人なのだから。  いつしか、日はとっぷりと暮れている。  戻って来たトトメスは、家の中に見たこともない大きな魚がでんと置かれているのを見つけて思わず戸口で足をとめた。側でベセクが、どう料理したものかと考えあぐねている。  「何だい、それ」  「何って、昨日の魚屋が貝の代わりに持って来たんですよ。一体どこに行ってたんです? いつの間にか部屋は空っぽになってるし、厠かと思って見に行っても居ないし…」  「ちょっと散歩だ。腹減ったな…そういえば、今日は何も食べてないからなぁ。その魚、端っこ切り取って塩で炙ろうよ」  「そんな雑な食い方でいいんですか? 王宮でも見たことないくらいの上物ですよ、これ」  「いいんだよ、新鮮な魚なら焼いただけでも美味いさ。それに、この大きさじゃどうせ一日で食べきれない。残りは明日、厨房に持っていって何か煮込み料理でも作ってもらおう」 言いながら、トトメスは早くも小刀を取り上げて、腹のあたりに切れ込みを入れようとしている。ベセクは呆れ顔になりながら、それでも、主人が食欲を取り戻してくれたので少しばかり嬉しそうだった。  「で、貝の代わりって何の話?」  「それがですね。昨日買い付けた貝が痛んでて…。」 ランプの細い光の下、夜が更けていく。  太陽の沈んだ闇の中、寝台の下の暗がりで、何か四本足の獣がごそごそと動き始めたことに、トトメスはまだ、気づいてはいなかった。
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