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第5話 トトメス王子、古えの王たちの聖なる墓を訪れ、地より響く声を聞くの由
それから数日後、ベセクは、本当に使用人を雇って連れて来た。
一人は溌剌とした少女で、もう一人は体格のいい若者だ。
「宜しくお願いします」
二人は、神妙な様子で新しい雇い主に頭を下げた。戸惑っている様子のトトメスに、ベセクはにやにやしながら言う。
「どうです。募集をかけたらすぐに集まりましたよ。トトメス様のご身分なら、このくらい召し抱えてても悪くないでしょう。」
「うん、まあ…。そりゃあね」
またすぐに辞めてしまわなければ、だけれど。と、口の中でもぞもぞ呟いて、彼は、新しい使用人たちのほうに向きなおった。
「ええっと、それで。君たちの名前は?」
「はい! あたしは、マイアといいます。」少女は、明るい笑顔で答える。「おじいちゃんが助けてもらったそうで、殿下はいい人だって聞いたから」
「ああ、あの時の…。で、そっちは?」
「おれはメンナ。前は兵士をしてました」若者のほうは、低い声でぼそぼそと言う。「運河の警備をしてたんですが、泊りがけの遠出が多いんで結婚を機に辞めました。それで仕事を探してたんです」
「なるほど。それじゃ、マイアは掃除とか家の中の仕事をしてもらって、メンナには力仕事をやって貰おう。二人とも、この街に住んでいるなら仕事は通いでやってもらうことになるな」
「そうですね」
「ベセク、二人に仕事のやり方を教えてやってくれ。俺は少し出かけてくるから」
「わかりました。」
頷いて、二人のほうに向きなおるベセクは、いかにも古参の側近のような顔をして、新参の後輩たちの指導に当たっている。とはいえ、何ごともずけずけ物を言い、主人の意向を聞かずに一人で勝手にあれこれ仕事を片づけてしまうベセクのやり方は、都ではあまり一般的できないのだが。
陽射しは日増しに強くなり、川の水位はずいぶん低くなった。夏至まで、あとひと月を切っている。一年のうちで最も太陽が強く輝く季節。
太陽は天の上に高く輝いている。それなのに、やけに眠たいのは、寝つきが悪くて目覚めがすっきりしなかったせいだ。
トトメスは、ぼんやりする眼をこすりながら、陽射しを思い切り浴びられる崖の上の礼拝所を目指していた。
(何か、変な夢を見てた気がするんだよな…)
ここのところ、ずっとそうだった。
目覚めた時には覚えていないのだが、眠っている間、「何か」に絡まれて…いや、じゃれつかれていたような感覚が残っていた。犬に似た、犬ではない何か。もっとも、現実には、犬どころかあらゆる生き物がトトメスを避けて通るのだが。
(新しい街に慣れなくて、疲れてるのかもしれない。そういえば、ここへ来てからまだ、どこも出かけていないな)
高台にある、神官たちが太陽を礼拝する時に使っている礼拝所の前に立つと、きらめく大河の向こう側――西の対岸に、白く輝くメンネフェルの街が見えた。それと、メンネフェルのすぐ後ろにそびえたつ、三つの尖った石の山も。手前のほうには同じ形をした小山が三つか四つと、神殿の残骸らしきものがある。
古代王たちの墓所だという、人の手によって作られた岩山。
あの辺りにはまだ、一度も行ってみていない。
(使用人も増えたし、ベセクを連れて向こうに渡ってみるのもいいかもしれない)
そう思ったとたん、ぼんやりしていた頭が急にすっきりしてきた。
そうだ。ここでは好きな時にどこへでも、自由に出かけても構わないのだ。
都にいた頃は、人に迷惑をかけたり悪い噂が広まったりするからと、家族は、彼が出かけるのにあまりいい顔をしなかった。トトメス自身も、出かけるたびに何か起きるので、次第に王宮の外に足を向けなくなっていった。ウアセトの街並みは、もう何年も見ていない――けれどもう、そんな生活をしてなくもいい。
(構うもんか。酷い目に遭うのは俺だけだし、噂が立つ前に見ておくものは見ておかないと。)
ケペルカラーに言われた言葉も、後押しをしてくれているような気がした。
明るい太陽の日差しを浴びて、頭も気分もすっきり晴れてきた。
軽い足取りで高台を降り、家に戻ったトトメスは、ベセクをつかまえてにこやかに告げた。
「明日、メンネフェルに行ってみないか?」
と。
水位が下がる季節とはいえ、川を渡るには船が必要だ。
人口の多いメンネフェルとイウヌの間には定期の渡し船が行き来していて、それに乗るだけで簡単に対岸まで出かけることが出来る。明るい日差しにきらめく水面を、葦作りの大きな船は、一度に十人近くを乗せて水面を滑るように進んでいく。中にはロバを乗せて渡ろうとしている者までいる。
ここは、川の上流と下流とが繋がるちょうど中間だ。もう少し下流へ行けば、流れは幾つもの道に分岐する。その手前にある大きな中州を避けるようにして、船は、ほんの僅かな時間で対岸の浅瀬へとたどり着いた。
川の水位の高い季節なら船は街の近くまでつけられるが、水位の低い今は、街からずいぶん手前の干上がった川の端で止まってしまう。メンネフェルまで人の手で掘られた幅の広い水路も続いているが、そこは、物資を運ぶ大きな船や、神殿を訪れる客人たちの船専用なのだ。
船を降りると、目の前に、大きな、真っ白い壁が聳え立っているのが見えた。
白い城壁。かつてこの街の名前でもあった、古い時代から存在する城壁だ。最初に作られたのははるか昔の時代で、その後、何度も作り直されているというが、平和な今の時代では、壁が守るべき敵は人間よりは、堤防を越えて来る川の水だった。
「はぁー、ずいぶん大きな街ですねぇ。あっちこっち工房だらけだ。こいつは見て回るのも大変そうですよ」
ベセクの声は弾んでいる。抑えていても、楽しそうなのが伝わって来る。
考えてみれば彼も、都にいた頃はずっと、「不運な」主人の従者だと陰口を叩かれて、自由に出歩きづらかったのだ。今さらのようにそんなことに気づいて、トトメスは申し訳ない気分になった。
せめて今日くらいは、煩わしいことなく心ゆくまで楽しんで貰いたい。
「それじゃ、好きなだけ見て回って来るといい。夕方にまたこの辺りで落ち合おう」
「えっ、いや。でもトトメス様は…」
「俺は、奥のあれを見て来るから。」
城壁の先に、尖った岩山の先端が聳え立っている。
「ああ、大昔の王様の墓、でしたっけ? あれは、トトメス様の遠いご先祖様になるんでしょうか」
「いやー、多少は関係あるかもしれないけど、さすがに直接は繋がってないんじゃないかなー…ま、先祖かどうかはおいといて、あんな目立つもの、いちど近くで見ておかない手は無いからね。」
「そうですか。それじゃ、お気をつけて。まさか盗賊は出ないと思いますけど、サソリを踏んづけたり、落ちて来た石に当たったりしないでくださいよ」
「はは、まさか…」
笑いながらも、トトメスの顔はわずかに引きつっている。そんな狙ったような出来事が起きるわけがない、と言いたいところだが、いつも何かが起きるのが、彼の日常なのだ。
とはいえ、ケペルカラーが言ったように、――確かに今まで、酷い目に遭うのは自分だけだった。少なくとも、一緒にいなければ、騒動に巻き込まれることもないはずだ。
街の外の高台へ、聳え立つ巨大な岩山の麓へ続く道を辿りながら、トトメスは改めて考え込んでいた。
「呪われて不運なわけではない」、そうケペルカラーは言ったが、不運な目にばかり遭うのは事実だ。それに、「他の者の不運を代わりに引き受けている」と言っても、何もないところで勝手に転ぶのは、誰かの代わりとは思えない。
なぜ自分は、こんな風に、出歩くたびに何か起きるような人生を運命づけられてしまったのだろう。
そこに何か意味があるとすれば、どういう意味があるのだろう。
考えているうちに、いつしかトトメスは高台の端まで登り切っていた。
足元に涼しい影が落ち、顔を上げると、目の前に小さな小山が、その向こうには巨大な、見上げても見上げ足りないばかりの岩山が、ずっしりと聳え立っている。
ぽかんと口を開けたまま、トトメスは、しばらくその場に立ち尽くしていた。高台の下から見上げていた時も大きいとは思っていたが、近付いてみれば、その大きさは桁違いだった。
まだ麓にも辿り着いていないこの場所からですら、既に上のほうが見えない。
太陽にも届きそうなほどの高さに、白い滑らかな石で出来た表面は眩しいほどに光を反射して、それ自体が巨大な光の壁のように見える。おおよそ、人間が作ったものとは思えないほどだ。
立ち尽くしているトトメスの側を、ロバを引いた数人の男たちが通りかかり、陽気に声をかける。
「よお、兄さん。観光かい? ここは暑いだろう。水を一杯、どうかね」
「歩くのは遠いぞ。ロバであの山を一周しないかい。お安くしとくよ」
男たちは、どうやらここへ物見遊山にやってくる旅人相手の物売りのようだった。よく見れば、あちこちに同じようなロバを引いた地元民と思しき人々がいて、しきりと客引きをしている。中には、日陰に敷物を広げて商売をしている者までいる。
何ともはや。ここは、驚くべき神秘の遺跡の麓であるとともに、ここいら一帯の人々の、観光客相手の商売の場でもあるのだ。
けれど、代金代わりに使える持ち物もなく、財布係のベセクもいない今は、先立つものがない。
「今日は遠慮しておくよ。一人で歩いてみたいんだ」
客引きを断りながら、トトメスは、三つ並んだ岩山の、いちばん大きく見える真ん中の山のふもとに向かって歩き出した。そこだけは、高台のふもとのほうに建てられた神殿から続く石の参道の跡らしきものが砂の中に残っており、砂の上よりずっと歩きやすくなっている。
それにしても、暑い。
それに、目の前に見えている巨大な岩山までは、見た目以上に遠い。
「おいおい、そんな調子じゃあ、夕方までに行って戻れないぞ」
側を通りかかった屈強な旅の男たちが、黄色くすり減った歯を見せて笑いかける。
「その格好からして、あんた、貴族様かい。金があるんなら、下僕どもに輿でも担がせたほうがいいんじゃないかい。」
「せめて日傘でもさしな。日が暮れちまったら大変だぞ」
馬鹿にしている風ではなく、下町の住人の軽口のようなものだ、とトトメスは思った。まさか相手も、こんなところを一人でうろついている少年が今の王の嫡男だとは、夢にも思わないのに違いない。それにトトメスにとっても、ベセク以外の誰かにこんな風にずけずけ物を言われるのは妙に斬新で、面白くもあった。
「金がないから苦労してるんだよ。家から追い出されたようなものでね。だから日が暮れて盗賊が出ても、盗られるものも無いよ」
「はっはっ、そいつぁ難儀したな。だがな、ここに出るのは盗賊じゃねぇぜ。サソリでも毒蛇でもねぇ。アレがな、出るのよ」
「アレ?」
「死霊さ」
恐ろしげに声をひそめ、一人が両手で化物のしぐさをしてみせる。
「まさか。麓にあるのは冥界神プタハの大神殿だろ? 死者が彷徨って出て来るなんてそんなこと、冥界神が許さないだろ」
「おうおう、信心深いなぁあんた。嘘じゃないぞ、本当さ。疑うんなら日暮れまで過ごしてみるといい。地面の下から響いてくる声を聞いただの、妙な光を見ただのいう連中は沢山いる」
「ここらは砂の下がぜんぶ大昔の墓なのさ。あのバカでっかい岩山みたいなのも王様の墓なんだろ? 死者も集まるってもんさ」
「気を付けろよ。うっかり墓穴に落っこちでもしたら、生きて戻れんかもしれん。」
トトメスは慌てて足元を見回した。言われてみれば確かに、辺りには、割れた土器の破片やかつて祭壇として使われていたらしい石壇の端など、あちこちに遺物が砂の中から顔を出している。人間のものかは分からないが、白く陽に灼けた枯れ枝のような骨も落ちている。
古い墓を踏み抜いて大昔の死者と夜を明かすなど、考えただけでもぞっとする。
「分かったよ、日が暮れる前には街に戻ることにする」
「ははは、それがいい、それがいい。じゃあな、気を付けて行けよ!」
旅人たちは、ロバを駆って軽快にどこかへ走り去って行ってしまった。
太陽の光は天頂に近付き、辺りにはもう、日陰はほとんど無い。
砂は熱くて火傷しそうなほどだし、目の前にある真っ白に輝く岩山の反射する光が眩しすぎる。これでは、歩き回るのは無理だ。
(どこか、夕方までゆっくりできるところは無いかな…)
辺りを見回すと、砂に埋もれた丸い岩の側に、崩れかけた神殿のようなものがある。屋根はすでに崩れ落ちていたが、それでも少しは日陰がある。
涼しい場所に滑り込むと、トトメスはほっとして冷たい石に背を持たせかけた。いくら不運だといっても、動かずにじっとしている分には、古い墓穴に落ちることは無いだろう。…サソリや毒蛇と出くわすことは、あるかもしれないが。
涼しい風が通り過ぎていく。
遥か昔の色あせた石組みの隙間から、刈り入れが終わったまま次の季節を待っている黒々とした農地と、果樹園の緑が、川に沿って広がっている。その合間に数件ずつ固まって立っている泥で出来た家は、農民たちの住まいだろう。
(こんな風景、久しぶりに見たな…)
汗が引いていくのを感じながら、トトメスはぼんやりと、真昼の陽炎の向こうにゆらぐ風景を眺めていた。
農村の風景はウアセトの郊外でも見られたが、上流のほうに比べてこの辺りは中洲も多く、川幅もずっと広い。空の北のほうは海へと続いているせいか、都から見上げるよりも薄い色をしている。
身体の力を抜いたまま、彼はしばし、ぼんやりと日陰に足を投げ出していた。
と、その時だ。
何か唸り声のようなものが聞こえた気がして、うとうとしかかっていたトトメスは、はっと顔を上げた。
(…何だ?)
声は背中のほう、何もない壁の向こうから聞こえて来るようだ。振動が伝わって来る感じ。砂の上についた手のひらに、砂粒の踊るような感覚がある。
(まさか、地の底から…?)
さっき通りかかった旅人たちの言葉が蘇って来る。
”地面の下から響いてくる声を聞いただの、妙な光を見ただのいう連中は沢山いる”
まさか。
でも、今はまだ真昼間だ。亡霊や死霊なら、…そんなものが本当にいるのなら、だが、日が暮れてから出て来るはず。
きっと聞き間違いだ。頭を振り、トトメスは意を決して立ち上がった。死霊なんて、いるはずも…
そう思いながら、廃墟と化した神殿の日陰を後に、街のほうに向かって歩き出そうとした彼の足元から、くぐもった、低い声が響いてくる。
『…けて、くれ…』
(き、聞こえない! そんなはずない、そんなはず)
『ここ、から…出し…』
「うっ、」
背内を、冷たいものが滑り落ちる。唸り声は次第にはっきりと、足元から響いてくる。
『苦しい…砂が…』
流石に誤魔化すのも限界だった。
「うわあああ!」
彼は、転がるようにして坂道を駆けだした。冗談ではない。真昼間に死霊と出くわすなんて、そんなことは願い下げだ。
息を切らせながらふもとの農村まで辿り着いた時には、汗びっしょりで、そのくせ、全身が恐怖のためにがくがくし震えていた。メンネフェルの街の白い城壁が道の先に見えている。冥界に住まう神、プタハの本拠地にして大神殿を持つ聖域だ。死霊が付いて来ていたって、さずかに聖域の中までは入って来ないはずだ。
そう思いながら、トトメスは疲れた足を引きずって街を目指して歩き出した。
頭上では太陽が、天の高みを過ぎ、西の地平へと向かってゆっくり降下をはじめていた。
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