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第6話 トトメス王子、寝台の下に棲む恐ろしき獣と対面するの由
ベセクは、両手に一杯の買い物をして待ち合わせの場所に戻って来た。
その頃にはトトメスも、冷たい水で喉を潤して少しは落ち着いていたが、砂埃まみれになった衣類までは誤魔化せるものではなかった。
「どうしたんです、その格好。ははーん…さてはやっぱり何かありましたね。穴にでも落ちましたか?」
「だったら良かったんだけどね。」
まさか、古い墓の上をそうと知らずに歩き回っているうちに真昼間から死霊の声が聴こえるようになっただなんて、言えるわけもない。自分でも信じられないし、人に言っても信じて貰えないのがおちだ。
「で、そっちは? そんなに沢山、いったい何を買って来たんだ」
ベセクが抱えていたのは、布に砥ぎ石、鍋敷きに油入れの壷などだ。
「布は昨日、マイアに頼まれてたんですよ。縫物が得意だそうで、トトメス様の使ってる古い上着を新しくしてくれるそうですよ。こっちの砥ぎ石はメンナが希望してたんです。軍で貰った小刀を研ぎたい、とかで。護衛が必要ならいつでもやるって言ってましたよ」
「驚いたな。雇って来たばかりなのに、もうそんなに聞き出したのか」
「仕事をするのに時間は無駄にしないほうがいいでしょ。この街は、いいものが沢山ありましたよ。さすが職人の街ですね。今度はトトメス様も見て回るといいですよ。」
「…うん、…機会があればね」
彼は、ちらりと街の奥のほうに見えている三角に尖った人工の岩山のてっぺんに目をやった。西に暮れようとしている光に背後から照らされて、今はその三角も黒々とした影のようになっている。
旅人たちの言った通り、あの場所は、迂闊に近付いてはいけない場所なのだ。きっと。
「さて、戻ろうか。今からなら日が暮れる前に戻れるはずだ」
川を渡る帰りの船は、同じように日暮れ前に帰り路を急ぐイウヌの住人たちでごった返している。川の上には夜行性の魚を狙う猟師たちの小舟がゆったりと水の尾を引き、西日に照らされたイウヌの大神殿は、崖の上に赤く浮かびあがって見える。
坂道を登り、太陽神殿の奥にある仮の我が家へと帰り着いてみると、留守を預かっていた二人の様子が何やらおかしい。
「どうした? 何かあったのか」
「あっ、お帰りなさい! あの、…こんなことを言うのも何なんですが…その」
待ちかねていた様子のマイアが、言い辛そうにしながら重たい口を開く。「お部屋に…何か、いるようなんです」
「何かって?」
「分かりません。昼間、お掃除しようと寝室にお邪魔した時に、寝台の下に逃げ込むのが見えたんです。てっきり猫か何かだと思って、追い出そうとしたんですけれど、それが…その」
「捕まえられなかったとか?」
「はい、…でも、それだけじゃないんです。あのう…」
「じれったいな。追い出せたのか? まだいるのか?」
しびれを切らしたベセクが、横から口を挟む。
「分からないんです」
「分からない?」
「メンナにも手伝ってもらったんですけど…。」
二人は顔を見合わせ、何とも言い辛そうにしている。
「じゃあ、自分で見てみるよ」
トトメスは、メンナが手にしていたランプを受け取って、寝室の扉を開いた。薄闇の落ちる部屋の中はしん、と静まり返っているが、確かに何やら、ごそごそと動き回るような気配がある。それに、生臭い匂い。妙に記憶にある匂いだ。これは、…この匂いは確か、夢の中で何度も…近くに感じたことがある。
寝台の下を覗き込み、ランプで照らす。
けれど、そこには何もいない。
「どうですか?」
後ろからベセクが部屋の中を覗き込む。
「うーん、何もいないな。きっと…」
そう言った瞬間、トトメスは、寝台の下の敷物の上につけられた大きな足跡に気づいてしまった。
肉球を持つ、大きな前脚…猫とは思えないほどの大きさの…。
「トトメス様?」
「あ、うん。きき、気のせいだろう。気のせい、気のせい」
まさか一日に二度も、”気のせい”と思い込もうとするはめになろうとは。
ランプを寝台の側に置き、彼は、ぎこちない笑みをマイアとメンナに向けた。
「今日はご苦労様。あとはベセクにやらせるから、二人はもう家に帰っていい。」
「そうですか? それじゃあ…」
「失礼します」
ぺこりと頭を下げ、二人は火が灯されはじめた神殿の回廊のほうへ去って行った。ベセクのほうは荷物の整理と夕餉の支度で忙しそうだし、確かめるなら今のうちだ。
すうっ、と大きく深呼吸して、トトメスは、もう一度、寝台の下を覗き込んだ。
(何もいるわけが…ここは神殿の中なんだ、聖域まで悪霊や死霊がついてくるなんて、そんなはずは…。)
暗がりに目を凝らし、かがみこんだ鼻先を、何やら生暖かいものがベロリと舐めた。
「……。」
一瞬にして、思考が固まった。目の前に、――大きな金色の瞳が二つ、じっ、とこちらを見つめている。
「がうー」
間の抜けた唸り声を上げながら、それは、のそりと暗がりから出て来て短い尾を犬のように振った。
長い鼻づら。ワニのような顔。
けれど首から下は獅子の上半身になっていて、ふさふさとしたたてがみが顔と身体のつなぎ目を覆っている。けれど下半身のほうは、獅子の毛の途切れたあたりからむき出しの肌になっていて、後ろ足と尻尾は河馬のようだ。
それは猫でも、犬でもなく、明らかにこの世の生き物とは違っていた。
「ひっ」
近付いてくるその生き物から逃れようとしたけれど、腰が抜けて動けない。
「犬か鰐か河馬に取り憑かれている」。
新生児の未来を占う神官たちはそう告げた、と聞いていた。けれどまさか、それが、全ての要素を含む一体の獣のことだったとは。
(ま、まさか…こいつ、俺を食う気じゃ…。)
けれどそれは、笑うかのようにぱっくりと大きな口を開けて赤い舌と牙を見せただけで、襲ってくる気配は無かった。生臭い、魚を食べたあとのような匂いがあたりに漂う。相変わらず尾をぱたぱたと振りながら、無様に床の上でもがいているトトメスを面白そうに眺めている。
「来るな、来るなよ。よし、よし。そこにいろ」
「ぐううーう?」
犬に「待て」をするように手で合図を送りながら、部屋の隅まで慎重に後退ると、彼はようやくひとつ息をついた。
「何でこんなものが俺の部屋に? ああもう、どうなってるんだこれ。ていうか、これ…何なんだ? どこかで見たことがあるような気もするけど…お前は一体…」
「トトメス様?」
物音に気づいたベセクが、外から扉を叩く。
「何を騒いでるんですか。やっぱり何かいたんですか? ネズミとか?」
「い、いや。違う…けど、えっと」
これは、一体何と呼べばいい生き物なのか。
「入りますよ」
扉が開き、ベセクが顔を出す。そして、壁や天井の辺りをきょろきょろと見回した。
「どこです?」
「えっ、いや、え?」
そこにいるじゃないか、と言いかけて、トトメスは、目の前にちょこんと座って尻尾を振っている生き物に影が無いことに気が付いた。
ランプの光は確かに当たっているにも関わらず、陰影というものがない。しいて言うならば、全体が薄闇の中にいるかのように、灰色の靄がかかって見える。
(もしかして、…ベセクには見えない?)
ごくりと、トトメスは息を飲んだ。
「あーえっと、…天井裏で何か走り回ってたから、きっと大きなネズミか何かだと思う。明日、探してくれればいい」
「そうですか? それじゃ、そうしましょう。夕餉の準備が出来たんで、来てください」
「…うん、判った」
部屋の中に化物を飼っているなんて、言えるわけがない。言ったところでベセクは信じてくれず、ついに気がふれたかと残念そうな顔をして「そうですか」くらい言うに決まっている。
奇妙な生き物がついてこないのを確認して、トトメスは急いで部屋の扉を閉めた。
居間のほうからは、焼いた鳥肉のいい匂いが漂ってくる。
(そういえば、少し前は魚料理だったな)
ふと、トトメスは思い出した。街の魚屋が持って来た、大きくて立派な魚がなかなか食べ終わらずに、毎日少しずつ塩漬けにした切り身を食べていたのだ。
食卓につきながら、ちらと寝室の扉の方を見やる。確か、あの奇妙な生き物は、魚の匂いをぷんぷんさせていた…。
(…まさかな)
タマネギと一緒に煮込んだ鵞鳥のむね肉を頬張りながら、トトメスは、妙に落ち着かない気分になっていた。部屋を出る時にあの獣が中にイメのを確かめたはずなのに、なんとなく足のあたりに生暖かい息を感じるような気がする。そういえば、…寝台の下と同じように、いつも使っているこの座椅子の下にも陰はある。
「ビールのおかわりはいかがですか」
「うん、…頼む」
杯をぐいと干し、パンをちぎりながら、彼はそれとなく足元を見やった。気づいてしまえば、もう、気配を無視することは出来なかった。
――何かが、確かにそこに”いる”。
ベセクがビールの器に手を延ばすために視線を逸らした時、トトメスは、ちぎり取った鴨の脚を一本、足元に落としてみた。その瞬間、赤い舌がさっと椅子の下から伸び、床につく前に絡めとって、素早く引っ込んでいった。
ばりっ、ぽりっ、と骨をかみ砕くような音。それから、満足そうな溜息。
(うう…。やっぱり、居るのかアレ…。)
泣き出したい気分になりながら、トトメスは、おかわりのビールで涙を密かに流し込んだ。ということは、部屋の扉を閉めたくらいでは中に閉じ込めることはできないのだ。
あんな化け物みたいな動物が、一体いつから住んでいたのだろう?
ここのところの妙な夢は、夢ではなくあの生き物にじゃれつかれている現実だったのだろうか。それに、不思議なこともある。夢だと思っていたあのおぼろげな記憶が正しいのなら、危害を加えようというよりは、まるで飼い主にじゃれついているようでもあった。神官たちの告げた、「三十歳まで生きられない」という運命が足の下に隠れている獣にもたらされるにしては、態度が最初から親しげすぎる。
(それにしても、…どんなに頑張っても犬にも猫にも嫌われるのに、まさか化物には勝手に懐かれるとはなぁ)
運命の皮肉、とでもいうべきなのか。考えていても結論は出そうにない。
食事を終えると、彼は溜息をつきながら早々に寝室に引き上げた。当然のように、奇妙な生き物も後をついてくる。そして、トトメスが寝台に横になると、まるで飼い犬のようにその枕の下の暗がりに丸まって寝そべった。
「…はあ。」
何だか、今日は色んなことがあった。
砂漠で地の底から響く唸り声を聞き、家では寝台の下に棲む奇妙な獣と出会った。
(でも、…そうだ。そういえば、王宮に住んでた頃も、寝台の下に何かいるとか騒いで辞めていった使用人がいたなあ。)
あの頃は、てっきり悪い噂を気にし過ぎたために見た幻覚か何かだろうと思っていたが、もしかしたら彼らが見たものは、この獣なのかもしれない。
こんな奇妙な怪物の姿をちらりとでも見たら、誰だって怯えて逃げてしまうに違いない。
「…ってことは、俺の噂の一部は…」
考えているうちに、腹が立って来た。自分の知らないうちに勝手に住み着いて、勝手に悪評を立てるとは。
寝台の下を覗き込んで、トトメスは言った。
「おい、お前。お前のせいで俺は、都で悪い噂をたてられたんだぞ。どうしてくれる」
「…ぐぅう?」
丸まっていた生き物が、ちらと目を上げた。
「部屋に化物が出るなんて、こっちの街でも言いふらされちゃかなわない。お前、絶対に俺以外に姿を見せるなよ。あと、勝手にウロウロするな。いいな」
「ぐわー」
「いや、ぐわーとかじゃなくてだな…判ったか? 判ったんなら頷け」
「……。」
「よし」
どうやら、こちらの言葉はなんとなく通じているようだった。しかしこれでは本当に、まるで飼い犬のようだ。
初めて見た時はあまりに異様な姿に驚いたものの、よくよく見れば可愛らしく…は、ないが、とりあえず愛嬌のある外見くらいには思えるようになった。短い河馬のしっぽを丸い尻の上でふりふり振っているのも、ワニの口を半分開けて涎を垂らしているのも、まあ、まあ、愛嬌の一つだ。
それにしても問題は、これが、一体「何」なのかということだ。
(どこかで見た記憶は、あるんだよなあ…。)
確か、王宮で家庭教師から習った宗教学の基礎知識のどこかにあったような気がする。何かの巻物で、図を見せられたことがあるのだ。主要な神々と並んで、何か別の…精霊か、地方神か、特殊な存在を表した教材の中で…。
寝台に横になって考えこんでいると、容赦なく眠気が襲い掛かって来る。昼間、歩き回りすぎたせいで疲れているのだ。
(明日にしよう。今日まで食われずに生き延びられたんだ、今夜一晩くらい大丈夫だろう。明日、大神官さまに、聞いて…。)
眠りに落ちていくトトメスの寝台の下で、鰐と獅子と河馬をかけあわせたような生き物は、金色の眼を開いたまま、じっと、辺りの気配に注意をこらしていた。
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