第7話 トトメス王子、大神殿の中で神官たちと出会い、使用人たちは住まいの改装を始めるの由

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第7話 トトメス王子、大神殿の中で神官たちと出会い、使用人たちは住まいの改装を始めるの由

 翌朝、トトメスはやけにスッキリした気分で目を覚ました。  いつになくぐっすり眠ったせいか、妙に体の調子がいい。それに、お腹もすいている。  ベセクに給仕されて朝食を採っている最中に、小間使いのマイアがやって来た。それから少ししてメンナも。  「トトメス様、食事が済んだら少し散歩に出て来て下さい。屋根の上を掃除するんで」  「ん…あ、そうか」 そういえば昨日、寝台の下の獣をごまかすために、屋根の上にネズミが出たと言ってしまったのだった。  「ついでに、雨漏りしそうなところもメンナに直させておきますよ。この辺りは、都よりは雨が多いそうなんです。にわか雨でも雨漏りするのは気持ちいいものじゃないですからね」 普通の貴族や王族なら、使用人にそんなずけずけとものを言われたらカチンとくるものだろうが、トトメスは気にも留めない。妙にへりくだられるよりは、必要なことを手短に言ってくれるほうが話が早いと思っている。  「そうか。なら、少し長めに散歩して来るよ」 そう答えて、平然と食事を続けるトトメスに、新参のマイアたちは不思議そうに顔を見合わせていた。  出掛ける前に寝台の下を覗き込むと、あの獣の姿は消えていた。  けれど、かすかな気配がある。きっと、見えないだけでそこには居るのだ。  「いいな、他の誰にも姿は見せるなよ。誰かを脅かしたりしたら困る」 言うことを聞いてくれるかどうかは分からなかったが、念のためにそれだけ言い残して部屋を出た。  夏の日の出は早く、陽射しはほとんど頭上の真上から降り注いでいる。朝の早い神官たちは、もうとっくに日課の仕事を終えたようで、真っ白な石を敷き詰めた参道も、神官たちが使う通用路も、全てちり一つなく掃き清められ、礼拝堂のほうからは香の匂いが漂ってくる。  トトメスは、ケペルカラーに寝台の下に棲む奇妙な獣について相談するつもりだったのだ。  けれど、訪れた神官たちの住まいの二階には老人の姿は無く、代わりに、まだ子供のような若い神官が、足の踏み場もないほど巻物や筆記具の散らかった老神官の部屋をせっせと片づけているところだった。  「あっ」 入って来たトトメスの姿を見るなり、若い神官は気の毒なほど縮み上がり、手にしていたものを放り出して床に平伏した。これにはトトメスのほうが吃驚してしまう。  「えっと…ケペルカラー様に会いに来たんだけど、ご不在かな?」  「はい、大神官様は今は、聖務のために祈祷の間におられます。夏至の日がもうじきですので…本日中は戻られないかと」 なるほど、そういえばもうそんな季節だった。ここは太陽神を祀る神殿なのだ。太陽が最も高く輝く夏至の日には、何か特別な儀式でもあるのかもしれない。  「そうか、それなら仕方がない。戻られた頃に出直そう」  「あ、あの」 引き返そうとするトトメスを見て、若い神官は慌てて、上ずった声で言った。  「…(わたくし)は、…殿下にお礼を申し上げねばなりません。」  「お礼? 何に?」  「私の汚名を注ぎ、疑いを晴らしてくださったことについて、です」 振り返ってトトメスは、きちんと居住まいを正したまま、床から彼を見あげている少年の顔を見つめた。腕や肩にはムチできつく叩かれたような痣が残り、頬はぶたれたあとのように腫れている。――見ているうちに、彼もようやく思い出した。  「もしかして…護符が無くなった件で疑われてムチで打たれた見習い神官っていうのは、君のことか?」   「はい!」 泣き出しそうな顔で、若い神官は床に額をこすりつけた。  「私はメリラーと申します。証拠はなくとも疑われたままで、大神殿を叩き出されるところだったのです。裁きをもたらす太陽の加護をお持ちの殿下のお陰で、私はここに留まることが出来ました。本当に…」  「い、いやいや、そんな、俺は何もしてないし、むしろ余計なことをしただけで」 トトメスは慌てて手を振った。  「要らないよ、そんな、お礼なんて。疑いが晴れたのは、君自身の普段の行いと太陽神様の意思だ。俺のお陰じゃないよ」  「しかし、それでも、私は感謝しております。どうかお困りの際は遠慮なく何でも御申しつけください。」 まるで上位神官にでもするように大仰に頭を下げる若い神官に、トトメスは困ってしまった。期待されても、自分は、その期待に応えられるだけの立派な王子ではないのだ。何もないところで転び、誰にでも出来る役目に失敗する。実体を知れば、すぐに幻滅するだろう。  (そうだな。どうせバレる。…それなら、早い方がいい) ひとつため息をついて、彼は少年に向かって言ってた。  「それなら、こんど神殿の中の案内をしてくれないか。ここは広くて、まだ行ったことのない場所も沢山ある」  「それはもちろん! 喜んでお供させていただきます」 メリラーは、黒い瞳を輝かせて頷いた。  トトメスは、騙しているような気がして少し心が痛んだ。一般庶民が都から来た王の嫡男を案内して回ることなど、そうそうあるものでもない。きっと相手はトトメスのことをいっぱしの王子だと思っていて、光栄だと感じているのだろうが、とんでもない。こちらは王宮を半ば追い出されたも同然の、出来損ないの王子なのだ。  神官たちの住まいをあとに、トトメスは、行くあてもなく大神殿の敷地内を歩き出した。  借りている家のほうは、今ごろ大掃除の真っ最中だろうから、邪魔しないためにもしばらく戻らないほうがいい。かと言って、一人で街に出る気にもなれなかった。出歩けばまた騒動を引き起こすかもしれない。  大門から続く広い参道には、夏の暑さと陽光から身を守るため、布を被った人々が溢れている。  人の列があちこちの礼拝堂の暗がりへ吸い込まれていくのを眺めながら、トトメスは、ふと、すぐ側の小さな神殿の入り口に、獅子が刻まれていることに気が付いた。  (獅子女神? …ああ、大気の女神(テフネト)か。そうか、ここは伝説では"世界の始まり"の場所なんだっけ…) 神殿や墓所で使われる神聖文字の読み書きは、ヘカレシュウの父である、養育係のヘカエルレネフにみっちり叩き込まれたから、一通りは判る。青い色の目立つその神殿は、大気の神シュウと、その妻テフネトに捧げられたものだった。  世界の始まりの地。  この世がまだ暗闇で、混沌の泥の中にあった時、最初に出現した島の上で生まれたものが、世界に光をもたらした太陽だった。  原初の神であり、始まりの存在でもある太陽は、まず大気を生み出し、天と地を定め、そこから次の世代の神々が生まれ落ちていった。  だから世界の始まりの地とされるこのイウヌの丘は、太陽神の住まいであり、太陽神の生みだした数多くの子供たちを同時に祀る場所でもあるのだ。  (太陽とともに世界の秩序は作られた。いつか太陽が永遠に死んでしまう時、世界は闇に包まれ、再び混沌の泥の中に沈んでしまう。…だったっけな。神話の授業は難しくて、あまり覚えていないな) 神殿を辿っていくうちに、彼は、礼拝にやって来ている人々のほとんどが質素な格好をした人々であることに気が付いた。近隣の農村からやって来ているらしく、抱えている捧げものは、自分たちで育てたものらしい、まだ土のついている新鮮な野菜や、この季節に採れる果物だ。川べりで摘んで来たらしい野の花を携えている子供もいる。  ウアセトの都の神殿なら、表門から入ることが許されているのは貴族や裕福な商人だけで、貧しい身なりの者は裏門のほうに回される。表参道には捧げものを売る店が沢山並んでいて、参拝者はそこで売り物の花束やお供えほ盛り合わせた籠を買い、帰りにはお土産に護符や縁起物を買って帰る。それと比べれば、ここはずいぶん違っている。露店はほとんどなく、遠くからやって来た参拝者のための軽食を出す店くらい。土産物に大っぴらに護符を売りさばく神官たちもいない。  (だから、この神官たちはあまり派手な身なりじゃないのかもしれないな…) 以前、ケペルカラーと話したことを思い出しながら、トトメスはそう思った。  今にして思えば、確かに、都の神官たちは派手過ぎたし、裕福になりすぎてもいた。  王族や貴族たちからの寄進物で神殿は潤い、神殿はどこもかしこも派手で、寄進された新しい彫刻がこれ見よがしに立ち並んでした。神官たちも、いつも黄金の飾りを沢山身に着けて、貴族とほとんど変わらない格好をして出歩いていた。当番でない日には、神殿の外で高価な酒やごちそうを口にしていた。  けれどもし、そのせいで本当に、神官としての職務を果たす力が衰えているのだとしたら、…それは、とても恐ろしいことのように思えた。都には、この国を守る主神たちの神殿があるのだ。主要な祭儀は王が司るが、それ以外の日々の祭儀はすべて神官たちがが執り行っている。暦を監理し、神託から吉兆を占い、王の助言するのも、アメン大神殿の高位神官たちなのだ。  その神官たちに力が足りなかったら、一体どんなことが起きるだろう――。  神殿の中庭には、行き交う人々の話し声や、赤ん坊の泣き声、親たちに連れて来られた幼い子供たちが走り回る騒々しいはしゃぎ声など、活気に満ちた雑踏が溢れている。  その気配が、一瞬途切れた。  考え事をしながら歩いていたトトメスは、ふと、かすかな雰囲気の変化に気づいて顔を上げた。それまで周囲にいた参拝客たちが口を閉ざし、苦い顔つきでそっけなく顔を逸らすのが判った。  奥の、主神殿のほうから続く回廊を、数人の神官たちを引き連れた、威厳たっぷりのいかめしい顔つきをした男が、重々しく歩いて来る。腕と肘の上には太い金の腕輪。肩にかけた豹の毛皮の袈裟は、高位神官の印だ。  お供の神官たちに何か早口で告げていた男は、一瞬、トトメスのほうにちらと視線をやり、かすかに眉をひそめた。  が、足を止めることはなく、慇懃に軽く頭を下げただけで立ち去ってゆく。見覚えは無いが、一体誰なのだろう。それに、この神殿の中では他に見ない、都の神官たちと同じような派手な格好だった。  男の姿が視界の端に消えるなり、ほっとしたように、周囲にざわめきが戻って来た。  外からやって来た参拝者たちだけではなく、神官たちまでそうなのだ。近くにいた平神官に近付いて、トトメスは、無造作に訊ねた。  「ねえ、さっき通っていったあの人は誰なんだ? 偉い人なのか」  「ええ、まあ…。臨時に大神官さまの補佐官として就任されている、アメンエムオペト様です。一年ほど前に都から来られたんですよ」 その口調には、敬意や畏怖よりも、不快感のようなものが感じられた。  「都からってことは、この神殿で見習いから修行したってわけじゃないのか」  「そうですよ。王様のご指名で、この大神殿の"管理"に来られたんです。表向きは神殿の財政とか、神殿所領の実態の調査ということになっていますが…噂じゃ、都の意向で、あの人が次の大神官に指名されるんじゃないかって話です。」 そう言って、純朴そうな神官は溜息をついた。  「いくら同じ太陽神だからって、我がラー様とアメンの神では性質が違いすぎます。アメン大神殿の息のかかった人を上に据えては、上手くいくとは思えません…。あ、いえ、王のご命令ならもちろん従いますが」 相手が誰だったのかを思い出し、慌ててそう付け加えると、神官はぺこりとひとつ頭を下げた。  「失礼します。まだ聖務の途中ですので」 逃げるように去っていく後ろ姿を見送りながら、トトメスは首をかしげていた。  それでは、あの派手な神官は、王が、――つまりは彼の父が、何らかの目的をもってこの神殿に送り込んだ、ということなのだ。  そんな噂は都では聞かなかったし、知りもしなかった。いや、政治に直接関わったことも無く、関わらせても貰えなかったから、知りようがなかったのだ。だが、出発前に誰か一言くらい、教えてくれても良かった。自分だけでなく、都の神官もここへ送られて来ているのだと。  (まさか、さっきのあの偉そうな神官まで、俺みたいに何か失敗をしでかしたわけじゃないだろう。次の大神官になるかもしれない人、…か。気になるな) それに、ここの神官たちや、参拝にやって来る村人にまで嫌われていそうな理由も気になった。  優秀そうなあの神官は嫌われ、不出来な自分はやけに好意的に迎えられる。  ここは都とはあべこべの、おかしな場所だ。  参拝客向けの露店で腹ごしらえをしつつ、夕方まで神殿の敷地内をぶらついて戻って来てみると、仮住まいは、見違えるように綺麗に整えられていた。  「わあ、どうしたんだ、これ」 入り口の敷物から、窓の日よけの布まで新しく取り換えられている。トトメスはぽかんと口を開けたまま、戸口から部屋の中を見回した。  「どうです。これなら、王宮の部屋にも負けないでしょう」 ベセクは得意顔だ。  「三人がかりで屋根裏から床下まで大掃除しましたからね。もう、ネズミも虫も心配いりませんよ」  「う、うん…それは、ご苦労様」  「で、あと少し足りないものがあるんですが、買い足してもいいですか? マイアに料理をしてもらうのに調理器具が幾つかと、寝室の窓枠が古くなっているので新しいものに替えたいんです。重たいものはメンナに運ばせます」  「いいよ、勿論。生活費は十分貰っているから、好きに使ってくれ」 都を出る時、少なくとも半年分の生活費はまとめて父王から支給されていたし、母からも少し心づけを貰っていた。どうせこの先、最低でも一年はここに住まなければならないのだ。快適なほうがいいに決まっている。  普通はそうしたことを決めるのは雇い主のほうで、使用人に指図されて金を出すことなど無いだが、日常的なことは実際に取り仕切っているベセクのほうがよく判っているとトトメスは思っていた。それにベセクなら、仕事はきっちりやる。ほかの貴族たちが雇っている使用人のように、使った資金を多めに申告して差額をちょろまかすとか、余分なものまで買ってこっそり自分のものにするとかいう不正は、絶対にやらないと判っていた。  トトメスの同意が得られたので、ベセクは、ほっとした様子で頷いた。  「それじゃ明日、メンネフェルに行ってきます。マイアには留守番をして貰う予定ですが…トトメス様はどうされます?」  「…俺は、ここに残るよ」 トトメスは、歯切れ悪く答えた。メンネフェルはもうこりごりだ。正確には、メンネフェルには何の恨みもなく、その後ろの「聖なる墓所」――古代の王たちの岩山が立ち並ぶ丘のほうにこりごりなのだが、今は、川の対岸には近付く気にはなれなかった。  「そうですか。では、二人だけで行ってきます。ささ、入ってくださいよ。いつまでもそんなところに突っ立っていないで」  「う、うん…」 寝室を覗いてみると、そこも綺麗に整えられ、敷物も、掛け布もまっさらなものに取り換えられている。  そっと寝台の下を覗いてみると、丸くなった例の獣が、気持ちよさそうに前脚にあごを乗せてうたた寝をしている。  はあ、と溜息をついた。  (どうやら本当に、こいつはここにいるらしい…) 夢でもなく、幻でもない。その生き物は、きっとずっと前から気づかれずに近くにいたのだ。神託が正しければ、生まれた時から一緒だったのかもしれない。兄弟よりも長い付き合いだ。  そう思うと何だか、少しは気が晴れる気がして来た。  そうだ。神殿の中で自由に動き回っているのだから、これは悪いものではない。  「おい。これから夕飯だが、お前も食うか?」 声をかけると、ぴくっと獅子の耳が動いて鰐の眼が開いた。口を半分あけて、嬉しそうに笑った。…たぶん。  おそるおそる手を伸ばしてみると、ざらついた鰐肌の鼻づらが掌に触れた。息は生暖かく、気持ちいいかと言われるとそうでもないが、不思議と恐ろしくは感じなかった。  "それ"が何なのかは、知っている気がする。  遠い記憶の中の、たぶん養育係から教わった知識のどこかに、埃をかぶって埋もれている。  沢山の神々を祀る並ぶこの大神殿の敷地内なら、もしかしたら手がかりがあるかもしれない。明日はそれを探しに行こう、と彼は思った。この先もずっと付きまとわれるのなら、正体くらいは知っておいたほうがいい。
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