16人が本棚に入れています
本棚に追加
第8話 トトメス王子、冥界の間で守護獣の名を知り、己の宿命に疑問を抱くの由
朝餉の片付けが済むとすぐ、ベセクたちは買い物のために出掛けて行った。
トトメスのほうも、留守番はマイアに任せて神殿の敷地内の散策に出かけることにした。念のため隣の神官たちの住まいをもう一度訪ねてみたが、大神官のアメンエムオペトは戻って来ておらず、代わりに今日も神官見習いのメリラー少年がそこにいた。
これから神殿の中を見て回るのだと言うと、ぜひお供しますと勢いよく言ってついてきた。
「掃除はいいのかい」
「はい。ひとまず、足の踏み場は出来ましたから」
そう言って、彼は微かに困ったような笑みを浮かべた。
「いくら掃除をしても、大神官さまがお戻りになれば、すぐに元通りになってしまうのです。それでも、何もしないとすぐに蜘蛛の巣が張ったり、埃が溜まったりしますので…。」
「大神官さまは今日も忙しいのか? 何をしておられるんだい」
「見習いですので詳しくは存じ上げませんが、夏というのは、何やら、天からの予言を授かる時なのだとか。」
「予言?」
「『予言者たちのうちで第一の者』。それが、この神殿の高位神官の称号の一つなのです。昔からこの太陽神殿の長は、天変地異や大きな禍いの兆しといったものを、神託として王に告げてきたのだそうですよ」
そういえば、毎年、王宮にやって来る各地の神殿からの使者たちの中には、この太陽神殿からやって来る者もいた。彼らが王に何を告げていたか、内容までは判らないが、確かに最上級の待遇を受けていたのを覚えている。
「神託というのは、都のアメン神殿の神官たちの占う吉兆とは違うものなのか?」
「さあ…、他の神殿のことは分かりません。」
困ったように笑みを浮かべながら、少年は胸の前に指を組んで、しずしずと参道を歩いてゆく。
トトメスと一緒なので、他の神官たちは誰も、見習い神官が持ち場を離れていることを咎めたりしない。それどころか、トトメスのほうに軽く会釈をして道を譲る。王宮では久しく受けていない扱いに、トトメスは妙な気恥ずかしさを覚えた。
沈黙が続くと居心地が悪い。とっさに、彼は相手の得意そうな話を振った。
「実をいうと、俺は神話や各神殿の教義というものに疎いんだ。基本的なところは養育係から習ったんだが、今まであまり興味が無くて。もし良ければ、少し教えてくれないか」
メリラーは、少し驚いた顔になった。
「見習いの私が、ですか?」
「知ってることでいい。俺は神話については素人だし」
「はい…では、少しだけ…」
はにかむような少年の表情は、次第に神官の厳かなものへと変わってゆく。
「いま大神官さまが受けられようとしている神託について、ですが…この世界の創造主でもある太陽神さまは、世界の行く末を知るお方なのだそうです。」
「ほう」
「太陽というのは不滅の存在なのです。夜に死に、朝に蘇る。世界の始まりに最初に生まれたのも太陽で、いつか世界が再び闇に還ったその時にも、太陽だけは再び生まれてきて世界を新しく始めるのだと言われております」
「世界の終わり? そんなもの、本当にあるのか?」
「もちろんですよ。ただ、きっと、ずっとずっと先のことです。…世界の始まりから終わりまでなんて、想像もできないくらい長い時間ですよ。」
それはそうだろう、とトトメスは思った。この世界がいつから在って、いつまで続くのかなど、考えたこともないし想像もつかない。けれど、いつかはこの世界も終わってしまうのかもしれない。そう思うと、微かな不安が首をもたげてきた。
トトメスが黙ってしまったのに気が付いて、メリラーは慌てた。
「すいません、おかしな話をしてしまって。でも、 ご安心ください! いつか世界が終わる時が来たら、真っ先にそれを神から告げられるのは、この太陽神殿の大神官さまのはずです。去年も、おとししも、太陽神さまは不穏なことは何も仰っていないはずですよ。そうでなきゃ、みんなこんな風に暮らしてるわけないですよ」
「まあ、それもそうか。世界の終わりなんて、急に決まるものじゃないだろうし。」
眩しい参道には、今日も参拝の人々が溢れている。太陽の光を象った、てっぺんの尖った針のような形をした太陽柱の周りを、東から西へぐるぐる回っている人もいる。夏のこの季節は柱の作る影も短く、表面に刻まれた、柱を建てさせた王の名前の浮彫も、その上に塗られた彩色も、ほとんど見えなくなっている。
「そういえばこの柱の先端、川向うのあの岩山に似ているよな」
神殿の中庭からは、川の対岸の丘にそびえたつ、「聖なる墓所」の尖った姿もはっきり見えている。
「ええ、元は同じものです。柱の先に乗っている三角形のもの…あれは、空から降り注ぐ太陽の光を象って作られたもので、輝きを集め、その加護を得るものと言われてます。」
「この間、あの高台まで行ってみたんだが、ずいぶん大きなものだった…」
そこまで言って、彼は言葉を切った。――あそこで聞いた唸り声のことを言おうか言うまいか、迷ったのだ。
けれど、にこにこしている少年の赤ら顔を見ていると、恐ろしげなことは言えない気がして、当たり障りのない言葉を続けるしか出来なかった。
「…あまりに大きくて、下に立つと、てっぺんが見えないほどだった。何であんなものを作ったんだろうな、昔の王さまたちは」
「太陽に昇るためのものとも、太陽から降りてくるためのものとも言われます。千年の昔には、死せる王は、太陽と一体化することが出来たのだそうです。昔の人は文字通り、それを空にある太陽のもとまで実際に昇っていくことだと考えたのかもしれません。でも、ここいらの人たちはもう一つ、古い言い伝えを信じていますよ。」
「というと?」
「あの墓所に収められた王たちは、この国に危機が訪れる時、太陽の力を借りていつか復活するのだそうです。」
トトメスは、ぽかんとして少年の笑顔を見つめた。
「死者が蘇る? 幾ら太陽が死と復活を繰り返すからって、そんなこと」
「もちろん、ただの伝説だと思います。でも、不思議と信じたくなるんです。あれは、あまりに大きいから…。私もこの近くの村の出身なのですが、信心深い母などは固く信じていましたよ。いつか何か想像もつかない大変なことが起きるとしても、あれがあそこにある限り、心配する必要はないんだと」
「だけどメリラー、あの墓所と同じ形をしたものは、この国にはほかにも沢山あるんだよ。都の近くにだってある。もっとずっと小さいし、中に誰も埋葬はされていないものだけど…。そういうのには、何も言い伝えは無いんだよ」
「そうでしょうね。私には、あまり難しいことは分かりません。ただ、あれらを造らせた王様たちが、並みならぬ方々だったことだけは分かります」
行く手に、道が地下へ落ち込んでいる場所が見えて来た。案内役のメリラーは足を止め、トトメスに尋ねた。
「この先は、"冥界の間"と呼ばれる地下の瞑想室です。壁画が美しいのですが、見て行かれますか」
「冥界? 太陽神の神殿の中に、地下に通じる場所があるのかい」
「太陽は夜には地下に沈みますから。」
答えになっているのか、いないのか分からない返答だが、少年の屈託ない笑顔を見ていると、細かいところはどうでも良くなってくる。
「折角だし、見て行こうか。ここ、一般の参拝者は入れないところなんだろう?」
「はい。普段は、神官の修行に使われているところなんです。今日も中で先輩たちが読経していると思うので、お静かに…」
狭い入り口を、メリラーは先行して、腰を屈めながら中に入っていく。後に続くトトメスの耳に、奥のほうから響く低い読経の声が、確かに聞こえて来た。地下にある死後の世界を夜の間に通り抜ける太陽が夜明けに復活するようにと祈る、「冥界の書」の一節を繰り返しているようだ。
地下室の中は薄暗く、微かな乳香の匂いが漂っている。
明るい外から入って来た目が暗がりに慣れるまでは時間がかかったが、慣れて来ると、壁に一連の壁画が描かれていることがうっすらと見て取れた。空間の中にあるのはわずかな光だけ。部屋の真ん中には敷物が敷かれ、神官たちが座禅を込んで、めいめいに呪文を唱え続けている。
「邪魔しないよう、壁際をぐるりと回りましょう。」
壁龕の中に置かれた小さなランプの一つを取り上げながら、メリラーが小声でトトメスに囁いた。
「この部屋は入り口から順番に、冥界の様子を描いているんです。ここが入り口の門と沙漠です。その先に火の川や…海や…悪霊たちの住む危険な領域が広がっています」
壁画の浮彫には、見覚えのある神々の姿が並んでいる。春の、あの大失敗をしでかした儀式で使った葬祭殿の壁にも、同じような場面は描かれていた。
背後では、一定の韻を踏みながら呪文を唱え続ける声が続いている。空気の流れのない狭い洞窟の中には人の熱と気配、それに乳香の匂いが入り混じり、だんだん、自分がどこにいるのか分からなくなってくるようだ。まるで本当に、地下の冥界の入り口に立っているかのような錯覚にとらわれる。
「――そして、ここが死者の魂が裁かれる法廷の場面です。」
はっとして、トトメスは顔を上げた。
冥界の中で最も目立つ場所、ちょうど真ん中のあたりにあるという"死者の法廷"の、有名な絵が目の前に描かれている。
奥に座するのは、冥界の王であり裁判長のオシリス神。その両側に立つのは守護の女神、イシスとネフティス。運命の神シャイ。死者の名を記した台帳を手にした記録の神トト。真実の女神マアトと、死者の魂を天秤にかけ罪を測る裁定の神アヌビス。そして、その足元に口を開いて待っているのは、罪人の魂を食らう獣――
ワニの頭と獅子の上半身、そしてカバの下半身。
この世で最も恐ろしい生き物全ての要素を合わせ持つ獣、アメミットだ。
「…ああ」
トトメスの口から、思わず声が漏れた。その瞬間、彼は力を失って床の上に崩れ落ちていた。
そうだ。思い出した。
なぜ忘れていたのだろう。寝台の下にいた、あの獣は…まさに、これではないか。
「だ、大丈夫ですか?!」
メリラーの声が遠のいていく。
「暑さに当てられたのかも。一度、外に出ましょう…足元にお気をつけて…」
そこから先は、よく覚えてはいない。メリラーに肩を借りて、ゆっくりと外に出た。
体中から冷たい汗が拭き出している。
死者の洞窟を模した暗がりから外に出て、太陽の光の熱を浴びても、彼はまだ、ぼんやりしたまま、自分が確かに生きているという実感を持てないでいた。
「冷たい水を持ってきますから。ここに座って待っていてください」
そう言うと、少年は大急ぎでどこかへ駆けだしてゆく。
参道の縁の石に腰を下ろしたまま、トトメスは、片手をあげて空にある輝きに翳した。
肌の透けた部分から、生きている証拠の赤い血の色が見て取れる。
(生きてるよな、俺は…。まさか、今までずっと冥界の獣につけまわされていたなんて…。)
アメミットは、裁きの間で待ち受ける恐ろしい存在なのだ。絵で見たことがあっても、まさかそれが実際に目の前に現れるなどと、ましてや自分の部屋の寝台の下に棲みつくなどと、誰も想像できるはずがない。
けれど、あの他にはない独特の姿は、確かにアメミットそのものだった。絵に描かれているよりもっとずんぐりとして、いやに愛嬌のある動き方ではあるが。
(死者は誰であれ、…たとえ王でも、一度はあの天秤に心臓を乗せられる。そうして、裁定きを受けるんだ。もし天秤が真実の羽根と釣り合わなければ、アメミットが死者の心臓を食ってしまう。魂の宿る場所を失った死者は、死後の楽園で暮らすことは許されず、忘却の暗がりで消滅してしまう…)
大きく息を吐き、トトメスは両手で顔を覆った。
(そんなものに、生きているうちに出会ってしまったら、どうすればいい? あいつは俺が死ぬのを待ってるのか? いや、まさかな。アメミットがいるのは死者の法廷なんだ。いくら俺が人に迷惑ばかりかけてきたっていっても、裁判もなしに罪人にされることは…)
正体が分かっても、結局、なぜ自分にくっついているのかは謎のままだ。
やはり、大神官に相談してみるしかない。
そう思いながら立ちあがりかけた時、トトメスの耳に、微かな人の話し声が聞こえて来た。
「まったく、一体いつまでこんな辺境の田舎で暮らさねばならんのか。陛下もとんだ人選をされたものだ」
「まあまあ、そう仰らずに。」
苛立ったような男の声と、それをなだめるような別の声。「陛下」という言葉が聞こえたので、トトメスは咄嗟に物陰に身を隠した。王宮にいた頃の癖なのだ。王族の噂話になると、そこには大抵、自分への悪口か揶揄が含まれているものだったから。
やって来たのは、あの、豹の毛皮を肩にかけた威厳たっぷりの神官、アメンエムオペトだった。別の神官と話しながらこちらへ向かってくる。
「ウアセトより出向させられて、はや一年だ。老いぼれの大神官めがそろそろ冥界へ下りそうだからという話だったのに、一向にそのような気配もなく、引退する気も無さそうではないか。太陽神殿の統一という話はどうなるのだ」
「焦っても仕方ありますまい。――とはいえ、いずれは対処せねばならぬ話です。この国に、権威ある太陽神は一柱で良い。他の神がアメン大神に匹敵するなどという状態のままでは、都の大神殿の権威にも、ひいては王のご威光にも関わりますからな」
「そうだ。そのためには、二つの神の習合に対抗するあの老いぼれを何とかせねばならんのだ。あれさえ居なくなれば、ここの神官どもは烏合の衆だ。都からの令には逆らえん」
("習合"? …つまり、一つにしてしまうのか? …太陽神を?)
物陰にひそめたまま、トトメスは眉を寄せた。
確かに、このイウヌの主神である太陽神とは別に、都の大神殿の、今やこの国の主神であるアメン神も太陽なのだと言われている。
太陽は一つしかないのに太陽の化身である神が別々にいるのはどういうことなのか、彼は、今まで不思議に思ったことも無かった。そこに不都合があるとも認識しておらず、ただ、そういうものだと思っていたのだ。
けれど厳密な教義にこだわる神官たちからすれば、それは我慢のならないことなのかもしれない。
世界を創造した"始まりの神"がラーであるならば、アメンの神は、あとから生まれた太陽神になってしまうからだ。
「かつては権勢を誇ったとはいえ、今のこの街は大きいばかりのただの田舎街よ。神殿も農民どものたまり場になって威厳の欠片も無い。
「ごもっともで。しかし今は辛抱の時です。あの老いぼれが予言をしくじれば…。」
足早に歩いていく神官たちの話し声が、急速に遠ざかっていく。
それと入れ替わるようにして、メリラーが水差しを手に駆け戻って来た。
「あれ? 殿下、そんなところで何をなさっているんです。」
「あ、いや…ちょっと日陰に移動してただけだ。」
メンナの差し出した水差しを受け取って、乾いた喉に水を流し込む。考え事をして熱を帯びた頭も、冷たい水のお陰で少しすっきりした。
「そういえば、メリラー。都かにやって来たアメンエムオペトという神官がいるだろう」
「…はい」
一瞬にして、少年の表情が強張った。
「あの人は、ここでは恐れられているのかな?」
「そうかもしれません。何かと厳しく、都ではこう、あるべき規律はこう、と言いつけられますので。それに…その、…私をムチで打ったのは、…あの方ですので」
「えっ」
では、メリラーが無くした護符の元の持ち主というのは、あの着飾った派手な神官だったのか。
確かに、あの男は普段から、落としそうくらいに護符をじゃらじゃら沢山つけている。
「それは悪いことを聞いた。忘れてくれ」
「い、いえ」
「それじゃ、そろそろ戻ることにするよ。今日はあちこち案内してもらえて面白かった」
水差しをメリラーの手に返し、トトメスは、少年神官と別れて仮住まいのほうに向かって歩き出した。背後に、心配そうなメリラーの視線がこちらに向けられているのを感じながら。
ケペルカラーが戻って来るならきっと夕方だろうと思っていたのに、老人は、家に戻る途中の井戸の前に立って何か考え込むような顔をして空を振り仰いでいた。
手には空になった水桶があり、足元には、水たまりが出来ている。腰布から雫が垂れているところを見ると、井戸からくみ上げた水を頭から被ったらしい。
驚いて足をとめたトトメスに気づいて、ケペルカラーは振り返って、くしゃりと笑みを浮かべた。
「おや、トトメス殿下か。どうされたのかね」
「ご相談したいことがあったんですが…水浴びですか? こんなところで?」
「ここしか水場が無くてのぅ。気持ちがよいぞ。身を清めるついでに洗濯も出来る。それに、頭もスッキリするんでな」
笑いながら桶をひっくり返すと、老神官は腰布の裾を絞りながらその上に腰を下ろした。替えの衣装に着替えるのではなく、身に着けたままで乾かすつもりらしい。なんとも無精なやり方だが、今のこの季節なら、小一時間もすればすぐに乾くだろう。
「それで? 相談、とは。」
「はい、…」
ケペルカラーに近付いて、トトメスは言った。
「…実は、俺には…冥界の獣が憑いているらしいんです。」
「ほう。どういうことかね」
「寝台の下にアメミットがいたんですよ。寝室だけじゃない、食事をしている時には居間の椅子の下にも隠れてました。俺にしか見えないみたいで、普段は寝てるだけなんですが、時々、寝ている時に顔を舐めまわされることがあって…。」
「ほっ、ほっ。そいつは面白い」
ケペルカラーは膝を叩いて愉快そうに笑っている。
「神々でさえも扱いに手を焼く、かくも恐ろしき冥界の獣を飼いならす人間が居ようとは!」
「ちっとも面白くないですよ。」
吃驚して、トトメスは慌てて言った。
「あいつのせいで都じゃあ、部屋に得体の知れないものが出るとか悪い噂も立てられたし、俺は寝不足になったし、それに、…」
「それに?」
老人は黒い目を向けて、重ねるように尋ねる。
「他に、何か悪いことはあったかね」
「えっ…いや…」
「それなら、悪くはない。ほんのちょっとした悪戯じゃろ。大目に見てやることじゃな。」
「えぇ? そんな――だって、あれは冥界の獣なんですよ? 心臓を食べてしまう恐ろしいやつなのに…」
「そうでもない。」
膝の上に手を置いて、ケペルカラーは真面目な顔になった。
「アメミットというのはな、本来は死者の守護者なのだ。罪人を裁くとともに、正しき者の魂はどこまでも安全に旅をさせる。闇に住まう、いかなる悪霊も手を出せぬ、冥界最強の守護獣よ。お前さんはそいつに気に入られとるんじゃろう? ならば、何悪いことはあるまい」
「だけど、何で寝台の下に?」
「眠りというのは、死と同じ状態だからじゃ。何も見えず、聞こえていない。お主が寝とる間、アメミットが護ってくれておるおかげで、悪さをするようなものは何も近づけん、というわけだな。ふむ。しかし、神々の加護を受けた人間は多く見て来たが、アメミットの加護を受けた生者など、わしも初めて見たぞ。こりゃあ、都のひよっ子神官どもじゃあ分からんはずじゃわい。」
最初の衝撃が収まっていくのと同時に、トトメスにもようやく、少しずつ理解出来始めた。
「――つまり、俺が生まれた時に母上が聞いた"犬か鰐か河馬に取り憑かれている"というのは、悪い意味ではなくて…アメミットに守護されている、という意味だった、ってことなんですか?」
「まあ、そうじゃろうな」
「それじゃ、三十歳まで生きられない、という神託は? 俺の不運は一体、何なんですか。守護獣がついているのに失敗続きで、都を追い出されまでしたんですよ」
「ふうむ。それに答えることは、今のわしには出来んよ。だがな、そのお陰で、お主はこの街へ来ることが出来た。それは、悪いことだったかね?」
「それは、…」
――悪いことでは、無かった。
少なくともここでは、皆に冷ややかな視線を浴びせられて影口を叩かれることも、人の目を気にすることも無い。
自分の不運に少し前向きになれたし、知らずに今まで憑いていた獣の存在を知ることが出来た。
「ならば、己の道は己で探すがよい。答えを見つけられるのは、お前さん自身だけなのだから。」
「……。」
「はあ、それにしても、今年は妙なことばかりじゃな。」
判ったような、判らないような顔をして立ち尽くしているトトメスから逸らした視線を空に目を向けて、老人は、まるで独り言のように呟いた。
「太陽神さまのお言葉は今までに無いものじゃし、聖なる墓所では大地の唸り声とやらが住民の悩みの種になっておるとか。そして我が大神殿には、世にも珍しい冥界の守護獣を連れた王子がおる。はてさて、面妖なことばかり起きているが、一体全体、これはどういう繋がりなのやら」
「そんな、人を珍獣みたいに言わないでくださいよ」
「冗談じゃよ。しかしな、天の大神たちの定めた運命には、必ず意味がある。ことが起きる前にその全てを理解することは、ちっぽけな人間にはどだい、無理なのじゃ。わしらはただ、天命に従うのみ」
「……。」
軽く頭を下げ、トトメスはその場を後にした。
けれど彼は、しばらくしてから気が付いた。
ケペルカラーの言ったのと同じようなことを、都を出る前に父王と話をした時にも言われたのだ。
『人には誰しも、生まれ持ったものがある。』
『お前は何か、この王宮の外で己の道を探すべきだろう』
あの時、父が言わんとしていたことは、もしかしたら――。
あの言葉の意味は、どうしようもない不肖の息子を突き放す意図ではなかったとしたら?
家に戻ると、台所のほうから香ばしい、いい匂いが漂ってくる。
奥についている小さな台所を覗いてみると、少女が鼻歌を謳いながら、かまどの前に座って扇で風を送り込んでいる。どうやらパンを焼いているところらしい。
「え…きゃあっ」
視線を感じて振り返ったマイアは、トトメスが覗いているのに気づいて、真っ赤になってかまどの前から立ちあがった。
「ああ、邪魔してごめん。いい匂いだったから、つい。」
「そ、その。ここにある食材は、自由に使っていいとベセクさんから言われていたので」
もじもじしている少女の手元の卓の上には、小麦粉を練った跡と、いくつかの香辛料の壷が置かれている。
「胡麻があったので、練り込んだらいい香りになるかもしれない、って…」
「へえ。確かにいい匂いだ。うまそうだね、焼けたら味見させてほしいな」
「あ、それなら、こちらに先に焼いたものがありますから」
少女は、掌ほどに丸めた焼きたてのパンを載せたかごを差し出す。トトメスは、ひとつを手にとってかぶりついた。口の中に、少し焦げた香ばしい胡麻の香りがぱっと広がる。しゃりしゃりとした歯ごたえも良く、なかなかの出来栄えだ。
「いかがでしょう…?」
「うん、すごく美味い! これなら、立派な料理人としてやっていけるぞ」
緊張していたマイアの顔が、ぱっと明るく輝いた。
「あ、ありがとうございます」
「もう一つ貰っていくよ。それじゃ、邪魔したね」
これなら、日々の料理はベセクではなく彼女に任せたほうが良さそうだな、とトトメスは思った。
それにしても、偶然とはいえ良い使用人が見つかって良かった。今まで都で雇ったことのある使用人といえば、主人が見ていない時は何とかして隙を見つけてはサボりたがるくせに、給料だけは熱心に要求してくる者ばかりだったのだから。
パンを手に部屋に戻ると、寝台の下からワニの鼻づらが半分突き出しているのが見えた。
寝台の下を覗き込むと、当たり前のような顔をして冥界の獣がそこに寝そべっている。
今となってはもう、驚きも恐れも無い。
気づいていなかっただけで、この獣は、生まれた時からずっと側にいたのだ。そしてケペルカラーの言った通りなら、今日までずっと、知らないうちに彼の身を護ってくれていたのだ。
不運なくせに妙に運が良く、死んでも不思議な目に遭いながら、今日まで無事でいられたのも、そのお陰なのだろうか。
(…でも、どうしてこんなものが、俺に?)
見つめていると、獣がひくひくと鼻を動かし、うっすら目を開けて彼のほうを見た。
「食うか?」
鼻先にパンを差し出してみるが、興味ないとばかり再び目を閉じてしまう。
「何だよ。パンは嫌いか。お前、肉にしか興味が無いんだな。」
持って来たパンを口の中に放り込みながら、彼は寝台の上にごろりと横になった。夕餉まではまだ時間があり、ベセクたちも戻って来ていない。部屋の中は静かで、どこかから鳥の声が聞こえて来るくらいだ。
天井を見あげながら、トトメスは考え込んでいた。
ここへ来てからまだひと月足らずだというのに、その間に、ずいぶん色んなことが起きた。
恐ろしい怪物だと思っていたものが守護獣で、不運だと思っていた出来事が実際には不運では無かった。今まで自分が信じていたものは全て、間違っていた。
そう気づいたとたん、トトメスは急に落ち着かない気分になってきた。「己の道を己で探せ」。簡単に言うが、自分は一体、何をすればいいのだろう。
「出来損ないの王子」であることを疑わなかった彼にとって、それは、初めて直面する「自分は一体"何者"なのか」という、根本的な疑問だった。
最初のコメントを投稿しよう!