33話(完)

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33話(完)

スヴェンとキディの結婚式はある晴れた日に執り行われた。 「出なくて本当にいいの?」 「連中の結婚式見て何が楽しいんだ」 「招待状もらったんだろ、不義理じゃないか」 「ンなのスルーだ馬鹿らしい」 「俺は見たかったな……」 「母さんも……ねえ、やっぱり出席しない?教会にトレーラーハウス乗り付けるから。あ、ひらめいちゃった!新婚さんに車を貸すから、後ろに缶から括り付けて一周したらどうかしら?きっと盛大よ!」 母がさも名案を思い付いたというふうに手を打ち合わせ、「冴えてるね母さん!」とピジョンが指を弾いて同意する。やっぱり俺の家族は馬鹿しかいない。 「余計なことしたらぶっとばすぞ、バレたらうるさくてかなわねーからこっそり出ようとしてんのに」 クインビーの企みが暴かれ、それを阻止したスヴェンは一躍町のヒーローに祭り上げられた。 本来なら式を挙げる資金など逆さにしても出ないが、町で唯一の小さな教会が、救世主とその婚約者のために厚意で場所を貸してくれることになった。善行は詰んでおくものだ。 先日までピジョンが静養していた宿屋の前には、ちょっとした人だかりができている。主にスワローを見送りにきた娼婦たちだ。どの娘も一張羅のドレスでめかしこんでいるのは、このあと姉御と慕うキディの式が控えているから。 「スワロー行っちゃやだあ、今度は私としてくれるって約束したのに!」 「アンタがいないとさみしくなるよ」 「元気でね。くれぐれも体に気を付けて」 「聞いたよ、あのヒモが漸く重い腰を上げたのってアンタの後押しがあったからだろ。キディ姐さんの事はみんな心配してたんだ、傍から見りゃぞっこん惚れてるのはまるわかりなのに、アイツがぐずぐず先延ばしにするもんだからじれったいやら腹立たしいやら……」 「オンナの純情弄ぶなんて最低!姐さんはアラフォーの崖っぷちなのに!」 「ねえ、もうちょっといてもいいんじゃない?あと一週間、ううん半年、なんなら一年でも!スワローがいてくれたら心強いし……正式に用心棒になっちゃえばいいじゃん」 「ロータスタウンにずうっと住む気はない?町の人たちもすっごい感謝してるんだよ、キマイライーターと一緒に坑道で大冒険したんでしょ?クインビーを倒せたのはスワローたちのおかげだって、その噂でもちきりよ」 茶髪に赤毛に黒髪に金髪、褐色に白い肌に黄色い肌、さまざまな髪と瞳の取り合わせの若い娼婦らがスワローを取り囲み、口々に称賛を浴びせる。熱烈な接吻と抱擁、ある者は別離の辛さに号泣しある者はケツをさわりある者はリップ音も派手に頬にキッス、揉みくちゃにされた本人は早くもウンザリ顔だ。 よそもの。はぐれもの。はみだしもの。トレーラーハウスで流浪する一家は、町の住人と常に一定の距離をおいてきた。だからこそ、こんなふうに温かく送り出されるのは初めてだ。 内向的な自分と違い、弟が社交的な性格なのは知っていたが、若く可愛い女性たちにちやほや持て囃され、交代で抱きしめられる光景には嫉妬と羨望を禁じ得ない。 「キディ姐さんも寂しがる。スヴェンはどうでもいいけど」 「スワローいなくなるとさびし~~もっと遊んでよ~~~」 スワローと腕を組んでわざと巨乳を押し付け、甘ったるく媚びる。そんな女たちを鼻で笑い、スワローが首を回してこりをほぐす。 「気が向いたらまたくる。それまでさよならだ」 「「ええ~~~!!」」 抗議の合唱をしれっと受け流し、片手を振って去っていく後ろ姿に、諦めきれない女たちが総出で追い縋る。 「行きたいとこあるの?」 「何か目的あるの?わたしたちと遊ぶより大事なこと?」 半ばなじる調子の他愛ない質問に、スワローは立ち止まり、シャツの内側に潜った鎖を引っ張ってドッグタグを取り出す。太陽の光を弾いてきらめくタグに唇を触れさせ、振り返る。 「ああ」 彼の背に群がる娼婦らが息を呑む。きっぱりと肯定したスワローの顔には、彼女たちが初めて見る表情……年相応に無邪気で、少しだけ照れくさそうな、はにかみ笑いが浮かんでいた。 風に吹かれたタンブルウィードが道のはてまで転がっていく。涙と洟水を啜り上げる娼婦たちに背を向け、軽快な小走りでピジョンのもとへやってくる。 「おかえり色男。……ぶっちゃけちょっとは未練あるんじゃないの?」 そう付け加えたのは、なにも嫉妬じゃない。兄の疑惑にスワローは飄げて肩を竦め、「行くぜ」と顎をしゃくる。スタジャンのポケットに両手を突っ込んだ弟と並び、モッズコートを翻して車へ急ぐ。 母はすでに運転席にすべりこみ、エンジンを温めていた。 段差を飛び越えて中へ入ろうとした背に、おっとり間延びした声が被さる。 「いよいよ出立かね」 杖を携えたキマイライーターがいた。白くなめらかな毛並みは、明るい太陽の下で見ると一層輝いて美しい。共に死地をくぐった伝説の賞金稼ぎに、スワローはぶっきらぼうに呟く。 「アンタは結婚式でんのかよ」 「でたいのは山々じゃが仕事が控えておっての。さる大物賞金首が3マイル離れた地で目撃された、急ぎそちらへ飛ばないと」 「冷てェな、おんぶしてやった間柄だろ」 「ハードスケジュールなんですね」 「ホームスイートホームがまた遠のいたよ。早く愛しの妻に会いたいのじゃがね」 スワローが茶化し、ピジョンが同情する。両極端の反応を示す兄弟を面白そうに見比べ、神妙に居住まいを正し、口を開く。 「賞金稼ぎになると言ったね」 「ああ」 「明日死ぬかもわからぬ危険な仕事じゃよ」 「知ってる」 「親の死に目に会えぬかもしれぬ。賞金首の遺族に恨まれて復讐されることもありえる。実力重視、弱肉強食、食物連鎖のハードな業界……ある意味この世界の縮図じゃな。弱者は徹底的に搾取され、虐げられる。警戒すべきは敵のみに非ず、同業者にも十分な注意が必要じゃ。蹴落とし、出し抜き、裏切り……自らが利益を得る為なら身内をも犠牲にする、そんな人格破綻者の巣窟じゃよ」 「その筆頭がアンタってわけ?」 ビーの囮にされた恨みは忘れていない。鋭く切り返すスワローの横で、ピジョンは「ひょっとして」と腑に落ちる。 「俺達に……それを教えようとして?」 自分たちは、このひとに試されたのではなかろうか。 これが一番最初の試験だったのではなかろうか。 賞金稼ぎになるための基本の基本、第一の試練。キマイライーターの言う通り、賞金稼ぎの世界は冷徹非情だ。賞金首を捕まえる為なら平気で同業者を見捨て、切り捨て、使い潰す……もしこれからスワローとピジョンが目指す場所が、そんな人間のクズの吹き溜まりだとしたら…… 憧れのキマイライーターに騙されたと知れば、途方もなく無謀で馬鹿げた夢を諦めるかもしれないと、彼はそこまで読んだのだろうか。 いや、こうも考えられる。 スワローとピジョンに何も知らせず踊らせたのは、純粋に彼らの身を案じたから。スワローはいい、肝が据わっている。囮を任されてもきっと問題なくやってのける。だが自分は?あの場に残ってもスワローに同行しても、どっちにしろ足手まといだ。 それでも憧れの人に命じられれば……囮になって敵を引き付けろと直々に頼まれたら、気張ったはずだ。気張りすぎて空回り、失敗する光景が目に浮かぶ。最悪スワローまで巻き込んでいた。 キマイライーターの洞察力と観察眼は一流だ。坑道での短い会話とやりとりで、ピジョンの性格傾向を完璧に把握し、最も効果を上げる絵図を引いた。 好奇心がもたげるも、実際に聞くのは憚られて口を閉ざす。 ピジョンの目の色で内心を悟ったか、山高帽の庇に手をやって、さりげなく表情を隠す。 「さてはて、人生には数奇な出会いがあるものじゃ。君達ともお別れじゃね。もし本気で賞金稼ぎをめざすなら中央へくるといい、まあ……牧歌的とはいえんが、刺激的で飽きのこない場所じゃよ。保証人の件もクリアできそうじゃしな」 「もういっちゃうの?途中まで送りましょうか」 「気持ちは嬉しいがそれには及ばんよ」 運転席を離れた母が、息子たちの後ろから親切に持ちかけるのを、キマイライーターはやんわり辞退する。 杖の切っ先を目で追えば、少し離れた場所に二頭立ての立派な馬車がとまっている。 「残念、もっとたくさんお話聞きたかったのに。伝説の賞金稼ぎの武勇伝を本人から生で聞けるなんて、このさきの人生絶対ないでしょ?運転中の眠気覚まし効果バツグンよ!」 「失礼だよ母さん……!」 「えーピジョンだってホントは聞きたいくせにィ」 不服そうに唇を尖らす母の背中を押し、運転席へ追い返そうとするも、母が急に振り向き戸枠に手をかける。 「子どもたちを助けてくれてありがとう」 「なあに、逆にこちらが世話になったよ」 どちらからともなく手をさしのべ、固い握手を交わす。親愛と信頼の滲んだ動作。母は美しくタフに笑い、老紳士の新たな旅路を祝す。 「どうかお元気で。あなたとあなたの愛する奥様に幸運を」 「お嬢さんも元気で」 「あ、あの、俺とも握手を……」 ガチガチに緊張しまくったピジョンが、シャツの裾で何度も手汗を拭い、おずおずとさしだす。「お安い御用じゃよ」とキマイライーターは微笑み、ピジョンの手を丁重にとる。 「やった……生握手……!」 有頂天の兄の襟首を引っ張り、車内へ無造作に放り込んで、代わりにスワローが前にでる。 キマイライーターと少年の目線が絡み、空気が帯電したような緊迫を帯びる。 スワローは戸枠に手をかけ乗り出すと、ピジョンと母が聞き耳立ててないのを確認後、疑心と怒りを孕んで問いかける。 「……あの時、なんで殴らなかった?」 「何の事かね」 「しらばっくれんな。ビーをぶっ倒したあと……」 もどかしげに唇を引き結び、戸枠を拳で殴る。 「死体に唾を吐いた」 キマイライーターが肩を竦める。 「……賞金稼ぎを長くやっておれば、死体への冒涜はいやでも見慣れる。相手は鬼畜外道、凶悪無比な大量殺人者。大勢の遺族や犠牲者の恨みを買っておる。直接的には被害を被らずとも、報道で犯行の詳細を伝え聞き、嫌悪と怒りを募らせる大衆は多い。君のしたことは感心はできんがかわいいものじゃ。気分が悪くなるから具体例は伏せるが……」 「引き回し。切断。屍姦。晒しもの」 「……あるいはさらに惨い。まだ息のある賞金首が、犬に食われたこともあった」 賞金首に人権はない。 他者の人権を剥奪すれば自分の尊厳も剥奪される。 賞金稼ぎに狩られたシリアルキラーの末路は悲惨だ。怒り狂う民衆によって、死体が酷い凌辱を受けるのは日常茶飯事だ。スワローもそれは知っている。似たケースは雑誌で腐るほど見た。 「君たちが彼女に受けた仕打ちを思えば、あの程度で済ませて慈悲深い」 「兄貴が死んでたらあんなもんじゃすまなかった」 「だろうね」 後悔はない。 罪悪感もない。 本音を言えば、なまぬるい。 もし止められなければスワローはナイフを抜き、苛烈な復讐心に突き動かされるがまま死体を切り刻んでいた。末期の恐怖と絶望に濁った琥珀の瞳を抉り抜き、腹をかっさばいてヴィクテムを取り出していた。 砂だらけで這い上った。ビーは死んでいた。最初に唾を吐いた。キマイライーターは哀しげな顔をしたが、止めなかった。スワローが吐き捨てた唾は、ビーの顔にぺちゃりとはね、右頬を汚した。続いて肩口と頭を蹴った。コイツがピジョンにしたこと、坑道でなにされたか、本人が頑なに証言を拒んでもいやでもわかる。 死者への冒涜? 知るか。 死体を凌辱? 上等。 俺は正義の味方なんかじゃねェ、町を救った英雄でもねェ、そんなものには断じてなりたかねェ。 悪魔になりさがってもかまうもんか。 このメスガキは一度死んだだけじゃ死に足りない、一回殺されたくらいじゃまだ足りない、それだけの事をピジョンにしやがったのだ。 「アイツが邪魔しなきゃ……」 「だからじゃよ」 「あァん?」 「君を止めるのはワシの役目ではない。そういうことじゃ」 キマイライーターは静かに目を閉じて回想する。 あの時、実際にナイフを抜きかけたスワローの肩を掴んだのはピジョンだ。 頭から爪先までボロボロで、砂と擦り傷にまみれた酷い有様で。 ピジョンは弟の肩を掴んで制すと、糸が切れたようにビーの傍らに跪き、モッズコートの裾を持って唾を拭い、顔や手足の汚れを丁寧に浄めていく。 それが済むや沈痛な面持ちで十字を切った。 ビーの仕打ちはまだ覚めない悪夢の如く脳内で荒れ狂っているだろうに、その魂のひとかけらの善良な部分をすくい上げて天に還そうとでもするように美しく哀しい情景だった。 その間スワローはナイフを握りこんだ手に力を入れて抜くのをくりかえし、憎悪と憤怒と殺意を混ぜこぜにした苦い葛藤に顔を歪めていたが、最後にはとうとう刃を引っ込めた。 彼がいざナイフを収めるまで、嫉妬に狂うスワローが兄の背中ごとビーを刺し貫くのではないかとキマイライーターは疑っていた。 この兄弟は歪んでいる。 歪んでいるからこそ、美しい。 「スワロー、出発だよ。あぶないからドア閉じて」 ピジョンが口を出し、スワローが渋々首を引っ込める。 「達者でな」 「もう二度と会いたくねェ」 「次会う時までに気持ちが変わっておるのを祈るよ」 「言ってろジジィ」 憎まれ口を叩いてドアを閉める。 車のエンジンが嘶き、排気ガスを勢いよく吐きだして走り出す。後に残された娼婦一同が別れを惜しんで手を振り、キマイライーターが便乗して杖を振る。 「さよならー」 「絶対帰ってきてねスワロー、約束だよ!」 「今度きたときはいっぱい抱いてー」 「なんならお兄さんも一緒にー」 「俺も!?」 その言葉にピジョンが動揺、窓から顔を出す。 キマイライーター達の姿が瞬く間に遠ざかって点となり、やがて見えなくなる。 母は前を向き、ご機嫌にハンドルを回す。 「いいひとたちだったわね」 「うん……」 ピジョンがしんみりと膝を抱え、しんきくさい沈黙に尻がむずがゆくなったスワローは、勝手にラジオをつける。 つまみをひねって適当に合わせた局では、ちょうど音楽をやっていた。 舗装の悪い道をガタゴト飛ばす車内に陽気な曲が流れ始める。 開いた窓から吹き込む風が涼しく、だらしなく伸びたスワローの髪をかきまぜる。ピジョンがキャサリンを膝に抱き上げ、窓の外を見る。 「教会だ。スヴェンさんたちじゃない?手を振ってる」 スワローは目もくれない。ピジョンは伸びあがって「やっぱりそうだ」と手を振り返す。キャサリンがうるさく羽ばたいて啼き喚く。 窓の外にはこぢんまりした、いかにも田舎臭い教会が建ち、礼拝堂の階段からきちんと無精髭をあたって髪を撫で付けたスヴェンと、新郎に手を引かれドレスの裾をたくしあげたキディが下りてくる。 「スワローてめえっ、式は今日だって教えたろーが!恩人に何も言わずオサラバとかどんだけ薄情だよ、一緒に死地くぐりぬけた仲だろーが!」 その言葉に堪忍袋の緒が切れる。 スワローは即座に跳ね起き、窓から落ちそうに乗り出して怒号する。 「るっせえ、だれが恩人だ!貸しはあっても借りはねェ、何が哀しくてテメェらの招待受けなきゃいけねーんだ、こちとらそこまで暇じゃねェ!」 「減るもんじゃなし出てくれたっていいじゃない!アンタたちなら最前列に座るの許すよ!」 「一生に一度のキディの晴れ姿じっくり見てくれ、な?」 「この人のタキシードもキマってんだろ、真人間に生まれ変わったみたいで目頭が……」 「オイオイ、涙は指輪の交換までとっとけよ。爺さんがたんまり弾んでくれたから、一番たけェの奮発したんだ」 「あんたってひとはホント……」 スヴェンとキディが人目も憚らずいちゃこらしはじめ、ハンドルを握る母が「ごちそうさまね」と微笑む。 「幸せの絶頂だね」 「ヤニ下がって見ちゃいられねェ」 スワローは大きく舌打ち、勢いよく腕を振り抜く。 「うおっと!?」 長大な放物線を描いて手の中に飛びこんできたライターに、新郎が目をまんまるくする。 「てめえパクったな!?」 「ちゃんと返したぜ」 「お幸せに!」 「アンタたちもねー!」 キディがブーケを持ったまま盛大に手を振って、ライターを取り戻したスヴェンが苦笑い。 スワローもつられて笑い、キャサリンが祝砲さながら一際高い声を響かせる。 純白のタキシードに身を包んでしゃちほこばったスヴェンと華やかなフリルで飾り立てたドレスを纏うキディは、お似合いのカップルだった。 仲睦まじく寄り添う新郎新婦に見送られ、濛々と砂煙を蹴立てて走り抜けたトレーラーハウスにて。 窓枠から外へ両腕をたらし、気持ち良さそうに風を受けるピジョンのもとへ、羽音の唸りを立て一匹の蜂が飛来。 「うわっ!?この野郎どっから沸いた、しっしっ!」 「大丈夫だよスワロー、コイツはミツバチ。人を襲わないから安全」 自分以上にびびってパニクるとばかり思っていた兄が、冷静沈着に落ち着き払って諭し、人さし指を立てる。 蜜蜂は暫し上空で旋回していたが、誘われるようピジョンの指先にとまり、透明な翅を休める。 腰抜けと侮っていた兄の度胸に驚きを隠せないスワローをよそに、痛みを秘めた優しい眼差しで蜂を見詰め、ピジョンは囁く。 「脅かされると針を立てるのは、ヒトもハチも一緒だよ」 瞬間、スワローの脳裏にひとつの可能性が閃く。 もしコイツが、ビーの死に際に逃げ出し群れからはぐれた一匹だったら…… 「……フェロモンに引かれてやってきた、のか?」 「え?」 ピジョンの体内から完全にフェロモンが抜けきってなければ話だ。 一人納得する弟に変な声を返すピジョンの指から蜂が飛び立ち、険しい岩山が聳える青空のはてへまっしぐらに去っていく。 インディアンの聖地と言い伝えられた岩山へ、たった一匹になって帰っていく姿を手庇を作って見送り、唇を動かす。 「make a beeline for.」 beelineは一直線の意。 蜂が巣へ一直線に飛んで行く様子に由来する諺で、目的地に向かって最短距離で急いで移動することをさす。 クインビーはもういない。でも、蜂は元気に飛んでいる。自分がいるべき場所へと一直線に―…… 今度こそだれにも捕まらないように。 迷わず巣に帰れるようにと、ピジョンは祈る。 「あ」 半弧を描いて突如として滑空してきたツバメが、だしぬけにくちばしを開け、パクリと蜂をひと飲み。 「ああ~……」 たったいま目の当たりにした食物連鎖の悲劇に、絶望的に呻くピジョン。 兄の隣にひょいと腕をかけ、目線の行方を追って晴れた青空を仰いだスワローが、太陽に透けたジンジャエールの髪を揺らして嘯く。 「知ってっか?ツバメはハチを食べるんだ」 ……血も涙もない。 どこか遠くでコヨーテが一声吠えた。
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