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「あ……」
奈月は足を止めた。
秋のゆるやかな風が人知れず通り過ぎる。川沿いの砂利道には、鮮やかな花などは咲いていなくて、ただ冬支度をし始めた緑の葉が足元に点々とこびりついていた。
しかし、そんな寂しい11月の地面なんかどうだっていい。今奈月の目に映っているのは、驚くほど澄んだ空だけなのだから。
奈月はおもむろに制服のスカートのポケットから瑠璃色のスマホを取り出すと、レンズのマークのアイコンをタップした。そして青い空をとらえようと、スッと腕を伸ばして頭上に掲げる。
先ほどまで裸眼で直接見ていた空との間に、厚い板が一枚差し込まれた。だからと言って画面が歪んでいるわけではないが、カブトムシを虫かごを通して見るように、絵画をガラスを通して鑑賞するように、視線の先の空だけ切り取られたような、作為的で不思議な感じがする。
別にそれが嫌だという感じはしない。むしろその空が特別で愛おしくなってくる。いや、JKは愛おしいなんて表現は使わないか。ここはカワイイが適切だろう。ボキャブラリー貧困時代における伝家の宝刀、「カワイイ」万歳。
そういえば、写真は一瞬を永遠に変えるものだと誰かが言っていた。
古の雅な方々は多くの美しい『空』を詠んだ歌を残したが、写真の存在を知ったら羨ましがられるだろうか。
パシャッ
耳馴染みのあるシャッター音を響かせて空が保存される。この日の空はデータとして、奈月のカメラアプリのクラウドの中に閉じ込められたのだ。空が雲の中に保存されているのはなんだか滑稽だが、これで万が一スマホが水没しても別の端末から見ることができる。
(けっこういい感じじゃない? センスあるかも)
奈月はとりたてほやほやの写真を自画自賛した。
さすがにプロと並べたら月とスッポンだが、素人のレベルなんてこんなものだろう。手ブレもなく、クリアな青空がおとなしく収まっている。
しばらく眺めて満足し、電源を落とした奈月は、もう用はないと言わんばかりに無表情でスマホをポケットに滑り込ませると、再びてくてくと帰り道を歩き始めた。
「ただいまー」
家の中は静寂に包まれていて、バタンと玄関が閉まった音だけがやけに目立つ。奈月はそそくさと鍵をかけて、自室へ直進した。「ただいま」と言ったが、両親も弟も留守だ。返事は返ってこない。
パチンと部屋の電気をつけて、カバンを適当に放り投げる。床に置かれたクッションを上手くよけながらクローゼットを開け、ハンガーに制服をかけて、もこもこのルームウエアに着替えた。これで帰宅ルーティーンが終了する。
「ふぅ」
プリーツスカートのポケットから回収したスマホを、ソファーにしなだれかかりながら両手で挟んだ。高校に入学してからようやく買ってもらえたので、奈月はまだまだ片手で操作できない、スマホビギナーなのであった。
真っ先に起動させてのは、昨日友人の麻友の指南でいれたつぶやきアプリだ。世界中の人とつながることができて、その日起こったことや、趣味の話など、なんでもつぶやくことができる。マイページ、という場所には『まだ投稿はありません』の文字が浮かんでいる。時間の関係上、『なつき』という麻友が二秒で決めたハンドルネームで、背景もアイコンもフォルダーにあった良さそうな風景写真にしてある。
別に早く投稿したかったわけではない。放課後の学校で初期設定を行っていたために、どちらかというと早く下校しなくてはならなかったのだ。
もうすぐ下校時間、というときに「奈月につぶやきアプリをいれよう」という話になり、先生と放送委員の下校アナウンスに急き立てられるように急ピッチで作業は行われた。
(まあ、まだそこまで思い入れもないし、このままで全然いいんだけどね)
奈月は体勢を起こして、『新しい投稿をする』のボタンに触れる。どんなものを初めに投稿するのかは決まっていた。
奈月は顔にかかる髪を払いながら、写真フォルダーの一番上の写真を選択する。無加工の空の写真。さっき撮ったものだ。
それからぽちぽちと短い文章を人差し指で一文字ずつ打って、ざっと確認してから投稿する。
『はじめまして! 空を撮ることが好きです。よろしくお願いします』
『なつき』と書かれたヘッダーの下に、写真がと短文が付けられた初投稿の作品が並ぶ。奈月はじわじわと暖かい喜びを覚えた。小さいころにはゲームのカードやプロフィール帳集めにはまっていたが、それらの最初の一枚が手に入ったワクワク感ととてもよく似ている。
(明日土曜日だし、公園にでも行って二つ目の投稿でも考えよっかな)
奈月はふーっと息を吐くと、スマホの電源を落とした。同時に目もつぶってソファーに再び体重をかける。
世界の誰かが見てくれるんだろうか。自分が綺麗と思った景色に共感してくれる人はいるんだろうか。たとえ共感してくれなかったとしても、奈月だけのものにしてしまうのはもったいないから、とにかく人と共有できたら嬉しい。
手のひらサイズの今を切り取った写真。それは電波に乗って、じきに海の向こうへぷかぷかと運ばれていくのだろう。
徐々に眠くなってきて意識が遠のいていく。今日は体育があったので疲れていた。少しくらい眠ってもいいだろう。
しかし、突然ピコンと音がして、奈月は驚いて目を見開いた。慌てて画面に目を落とすと、ロック画面に『いいねとコメントが来ています』という通知が来ていた。
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