パート3 新しい空き家

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6  朝の光が射していた。  ぼんやりと、見慣れた天井を眺めていた。見覚えのある木目。蛍光灯の紐が、まっすぐ垂れ下がって僅かに揺れている。ベッドの上で首を回し、部屋を見た。ローテーブルの上の母親のミシン。スケッチブックが入っている段ボール箱。窓からは光が射し込む光の中を、無数の埃が舞っていた。  どこか遠くで、工事をしているような、何かを解体しているような、耳障りな音が鳴っていた。  それ以外は静かだった。冬の朝。窓が結露して曇っているのが見える。部屋は冷えていたが、ベッドの中は暖かだった。ずっと毛布にくるまっていたい。少し小さく感じるベッドで、手足を折り曲げて、横になっていたい。でも、階下から家族の朝のざわめきが聞こえてきている。テレビの音が、聞こえていた。  観念して起き上がり、伸びをして、立ち上がった。蛍光灯から垂れた紐が頭に当たって、ゆらゆらと揺れた。歩き出そうとして、床に糸車がいつか落ちているのに気づいた。私はそれを拾って、母のミシンのそばに置いた。  部屋を出て、階段から下を覗くと、朝ごはんの匂いが漂ってきた。トーストの焼ける匂い、フライパンで焼ける卵の匂い、じゅうじゅうと油がはぜる音。テレビの、朝のワイドショーのことさらに明るい声が聞こえてくる。家族の、朝の匂いと音。日常の音、生活の音だ。私はそこから、自分から遠ざかってしまったのだけど。  心の安らぐ匂いと音。まるで暖かい毛布のような。でも、同時にどこか遠くの方で、工事の音が鳴っているのも続いていた。一定の間隔を置いて、杭を打ち込むような音が響いてくる。  かーん、かーん、かーん……と。  まるで、世界を端から解体していっているような。  私は階段を降りていった。踏み板が軋む。明るい窓が遮られて、暗い影が落ち、急な明暗の変化に目がくらんだ。目を瞬かせながら階段を降りて居間に出ると、朝の柔らかな光の中に、家族が揃っているのが見えた。  お母さんは卵を載せたお皿を運んでいた。お父さんはインスタントコーヒーの瓶から、粉をスプーンでコップに運んでいた。テレビがついていたが、誰もきちんと見ていない……というのが、いつもの光景だった。若い女子アナウンサーが、高い声をあげていた。瞬間、私の目には時間が止まって見えて、家族の日常の1シーンを写した写真を見ているような気がした。  逆光の射す光の中に、無数の埃が舞っていて。  古い時間の閉じ込められた、色あせた古い写真のような。 「おはよう」とお母さんが言った。「朝ごはん、食べるよね?」 「……うん。ありがとう」 「コップ取ってきな。ついでにコーヒー、いれてやるから」とお父さんが言った。  私は台所へ行って、食器棚からコーヒーカップを取って、テーブルへ運んだ。お父さんは黙って受け取って、粉を入れ、ポットからお湯を注いで私の分のコーヒーを作ってくれた。 「ありがとう」  何か、違和感があった。何か大事なことを忘れているような。でも、思い出せなかった。  私は奥の和室に目をやった。瞬間、畳の上にベッドが置かれている不自然な光景が目に浮かんだが、すぐに消えた。和室はいつも通り、きれいに片付いていた。 「おばあちゃんは?」と私は聞いた。  誰かが答える前に気配がして、おばあちゃんが玄関に続く廊下から、居間へと入ってきた。 「おや、おはよう、聡子」とおばあちゃんが言った。「あとで玄関を見てごらん。赤いシクラメンが咲いてるよ」 「……そうなんだ」  おばあちゃんは居間を通り過ぎて、和室へ入っていった。ゆっくりだが、しっかりとした足取りだった。 「お母さんも朝ごはん食べてくださいね」 「ああ、ありがとうね」  テレビではレポーターが、大盛りのラーメンに驚いて、大げさに驚いて見せていた。テレビ画面に表示された時刻表示が、今戻った気がする。私はコーヒーを一口飲んで、手元のカップを見た。  味がしない。  かーん、かーん、かーん……  窓から射す光が強くて、居間の光景は白く飛んで見えていた。まるで、薄い半透明の膜を被っているような。どこか奇妙な非現実感。  コーヒーカップを置いて、私は立ち上がった。 「もう帰るのか?」 「ゆっくりしていけばいいのに。せっかく、久しぶりに帰ってきたんだから」 「うん……でも、いろいろとやることがあるから」  やることって何だっけ。頭がぼんやりと霞んで、いろんなことが思い出せない。私は立ち上がって、居間から廊下へ歩いていった。ふと振り返ると、居間の光景はまた時が止まって、写真に戻っているように見えた。  玄関の方を見る。かーん、かーん、かーん……と、世界を解体する音はそこから響いていた。  玄関の引き戸の曇りガラスの向こうに、人影が見えていた。長方形の影が、ガラスに渡されている。音とともに、引き戸がガタガタと揺れていた。廊下に立ってそれを眺めていた私は、やがて理解した。外から、板を玄関に打ち付けているのだ。  誰も出入りできないように、この家を封印するように。  私をここから、出さないように。  外から、空き家を閉じている。  私はもう、帰れない。どこにも帰れない。ここが私の家なのだ。  私は居間に戻った。廊下から居間に入ると、そこには誰もいなかった。暗がりの中、埃だけが積もった無人のテーブルが見えた。部屋は冷蔵庫のように冷え切り、死んだ時間の匂いがした。それは、空き家の光景だった。  目を閉じ、また開くと、家族の光景が戻ってきた。お父さんがテレビを見ていた目をこちらに向け、お母さんもトーストを置きながらこちらを見た。奥の和室で立ち上がったおばあちゃんが、優しく微笑みながら私を見ていた。 「よかった」とお母さんが言った。「ゆっくりしていくのね」 「……そうね」と私は言った。「ゆっくりしていこうかな。別にやることもないしね」  みんなは優しく微笑んで、私を受け入れてくれた。長らく感じたことのない安らぎを、私は感じた。すべてを大人に委ねていた、子供の頃の安心感。とっくに失って、忘れていた感覚だ。  安心すると、私は急に疲れを感じた。 「朝ごはん、食べないの?」 「うん……でも、あとで。少し休むよ」 「疲れた?」 「うん。少し休んだら、戻るから」  もう一度居間を出て、私は階段へ向かった。私が視線を背けると、背後で居間が無人に戻る気配があったけれど、私は振り返りはしなかった。  階段を登り、私は自分の部屋に戻った。落ち着く場所だ。ずっとそこにいた場所のように、繭に包み込まれるように、部屋は私にとてもよく馴染んだ。  私は窓の方へと歩いていき、窓の前に立って、ガラス越しに外を見た。  通りを見下ろすと、玄関に釘を打っていた人影が、仕事を終えて離れるところだった。男が、持っていた金槌をホームセンターの袋に戻している。男を追いかけるように、女が玄関を離れて通りに出てきた。二人肩を並べて、玄関の仕事ぶりをチェックするように眺めている。声は聞こえなかったが、言葉を交わす二人は楽しそうだった。  男が背を向けて歩き始め、女が窓を見上げた。  目が合った。女は私だった。  女は私を見上げて一瞬ハッとした表情を見せ、それから軽く微笑んだ。唇が動き、何かを私に語りかけたが、何を言っているのかは聞こえなかった。別れを告げたのかもしれない。私は黙っていた。  男に……慶太に促され、女は振り返った。そして、通りを歩いていった。慶太は一度も窓を見なかったし、女ももう振り返ることはなかった。  去っていく女の後ろ姿を見ながら、私は思った……あの私は誰だろう。  私の顔をして慶太と話し、自由を得てここから立ち去っていく、あの私の中身はいったい何なのだろう。  あの女は慶太に……あるいは大塚に……これから何をするつもりなのだろう。  私が世界に解き放ってしまったものは、いったい何なのか……。  わからないね、と私の中で聡子が言った。でも、いいじゃない。私たちにはもう、関係がないんだから。  そうだ……私たちには関係ない。あそこはもう、私が属する世界じゃない。決して破れない半透明の膜の向こうにあって、行き来することはできない世界だ。  私が属するのはこちら側の世界……聡子と一緒に、永遠に家にいる世界。  ここも、心の中だろうか。自分自身の心の中に、自分で築いた新しい空き家。だが、ここが現実の実家でも、私の心の中の世界でも、どっちだったとしても関係ない。私はここから、出られないのだから。  誰かが空き家を、壊してくれない限り。  そして、あれが空き家を壊すことはないだろう。せっかく人の世界で生きる自由を得たのだから。  あれが何であるにせよ。あれが、世界に何をもたらすにせよ。もう私には関係がない。  私たちには。私は振り返り、懐かしい自分の部屋を見て、子供の聡子が楽しそうに、スケッチブックを持って部屋を走り出ていくのを見送った。階段を駆け下りていく足音が聞こえる。子供時代の家族が、聡子を迎えるだろう。夏休みさえも、ここには消えずにちゃんとある。ここでは、記憶にあるものはすべて消えずに残っているのだ。  永遠に変わらない、安息の世界。私は満足して、のろのろとベッドに戻った。毛布にくるまって、また長くとりとめのない夢を見るつもりだった。  私はベッドに横たわった。  手足を折りたたみ、毛布を固く体に巻きつけて。  不安のない世界で、私は目を閉じた。  おやすみ。 <完>
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