パート1 空き家の子供

1/6
61人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ

パート1 空き家の子供

1  誰でも、子供の頃の特別な場所があるものだ。私の場合、それは「空き家」だった。  近くに、ずっと誰も住んでいない家があった。奥まった路地に面していて、古い木の塀や格子戸は半ば崩れ、隙間から覗く庭には深い草薮が生い茂り、そしてその庭には異常な程に大きな木がそびえ立っていた。  誰も切らない楠の大木は伸び放題に伸びて、神社で見るような巨木に成長し、遠くからはそれ一本でこんもりした森のように見えた。空き家の建物は、その木の茂みに隠されて外からはほんの部分部分しか見えなかった。傾いた板壁。黒く変色した雨戸。隙間から雑草が生えた、ひしゃげた瓦屋根。そんな日本家屋の廃屋が見えるかと思えば、別の角度からは洋風の建物の二階の窓が見えた。空き家の建物は周囲の家々をいくつも合わせたくらいの大きさがあって、和洋折衷の不思議な作りになっていて、角度によってまったく違った印象に見えるのだった。空き家の敷地全体が茂みが落とす大きな影の中にあって、昼でも常に暗がりに沈んでいた。  変哲もない住宅街の中、明るい昼の日差しの中を歩いていても、その角を曲がって路地に入ると、急な暗さが落ち明らかに温度が下がって、たとえ真夏でも背中がぞくりとするのだった。まるで海や川で泳いでいて、不意に冷たい水のたまりに入り込んでしまって、寒気に襲われるのに似ていた。  今から十五年前、私が十一歳の少女だった夏。もう少しで永遠に囚われるところだった空き家から、かろうじて逃げ出した夏の頃には既に、そこは長いこと放置されたままだった。まるでそこだけ時間が止まっているような、長い年月が積み重なった澱のようなものが、楠の落とす影の中に淀んでいた。  あの夏から十五年が経ち、私が大人になっても、路地の空き家はあの頃と変わらない佇まいのままでそこにあった。  私はそう思い込んでいた……今年になって、久しぶりに実家に帰ってみるまでは。  大学進学を機に、私は家を出て、離れた街で一人暮らしをするようになっていた。卒業後もそのままその地で就職し、実家からはますます足が遠のいた。実家に帰るのはせいぜい年に数回。何かの用事にかこつけた親からのしつこい呼び出しに根負けして、顔だけ見せに帰るだけだ。それでも帰るたびに、私はぶらぶらと歩いて空き家を見に行って、それがあの夏と変わらずそこにあるのを確かめていた。  今回の母からの電話は、いつもと少し様子が違っていた。祖母が入院することになったので、家にいるうちに一度会いに来いと言う。入院の理由は癌だそうで、言外には死ぬ前に会っておけという含みがあった。  十一月半ばの日曜日、私は実家に帰った。今回の帰宅はお正月以来、一年近く振りだった。  久々に見る実家の玄関は、なんだか妙に古びて見えた。玄関の周りに並べられた植木鉢やプランターの植物が、すっかり枯れてしまっているのが原因だと、やがて私は思い至った。つまり、祖母が植木の世話を焼くのを止めてしまったということだ。  玄関の格子戸はずいぶん前からレールが歪んでいて、引き開ける時にギシギシと軋んだ。この家自体がずいぶん老朽化して、空き家の印象に近づいているな、と私は思った。  父は居間でテレビを見ていた。母は祖母のいる和室にいた。居間に隣り合った、仏壇のある和室は以前から祖母の寝る部屋だったが、今はそこに見慣れない介護用のベッドが運び込まれていた。畳の上に大きなベッドが置かれているのは変な感じだ。  祖母はそこに横たわっていた。痩せて、隙間の多い寝間着を着たその姿は異様に存在感が薄く、既に幽霊になってしまったように見えた。 「前に来た時は元気だったのに」  コートを脱ぎながら、私は母に囁いた。 「前って、もうずいぶん前じゃないの」  と母は言った。 「なかなか帰ってこないから」  私からコートを受け取って、母はそれを運んでいった。私はあらためて、祖母のベッドに向かった。 「おばあちゃん」  私は呼びかけた。 「久しぶり。元気? 体の調子はどう?」  祖母はしばらく反応もせず、向こうを向いたままだった。私が重ねて「おばあちゃん」と呼びかけるとのろのろと首を回し、焦点の定まらない目で私を見た。 「どちらさまですか?」  と祖母は言った。 「忘れたの? 聡子。あなたの孫だよ」  少し動揺しながらそれでも笑顔を作って、私は言った。  祖母はしげしげと私を眺め、それからつまらなそうな表情をまるで変えないまま、 「知らない人」  と言った。 「聡子だってば!」 「知らない人」  と祖母はもう一度言った。そして、またのろのろと首を回して、向こうを向いてしまった。  私は後ろを振り返って、「知らない人だって」と言って笑った。母は訝しげな表情で見ていた。 「おばあちゃんぼけちゃったの?」と私は聞いた。 「そうみたいねえ」  母は言って、首を傾げた。 「そんな、認知症って訳でもなかったんだけどねえ」  そっぽを向いて動かない祖母を見下ろして、私は胸がざわざわするのを感じた。 「滅多に会わないから忘れちゃったのかな」 「忘れちゃったってことは、ないでしょうけどね。まあ、調子が悪いんでしょ。日によって調子の波があるのよ、おばあちゃんは」  居間でテレビに向かっていた父が、思い出したように不意に言った。 「そういえば、空き家が潰れたよ」 「えっ?」  不意を突かれて、私は固まってしまった。父はテレビに背を向けて、私の方に向き直った。 「聡子が気にしてた空き家があっただろう。もうずいぶん長いこと、ほったらかしになってたところ。あんまり長いことそのままだから、これから先もずっと同じような気がしていたけどね。この秋に突然重機が入って、あっという間に壊して、きれいに均してしまったよ」 「本当に?」  私は呆然としていた。 「建物は何も残ってないの?」 「ああ、何もない。きれいさっぱり、更地だ」 「それで、跡地はどうなったの?」 「さあ、マンションでも建てるんじゃないかな。今はまだ何もないけど」  私は記憶の中の空き家を思い描いた。大きな楠の影の下にあって、ジャングルのような荒れ果てた庭に囲まれ、崩れかけた姿を隠していた空き家。それがすっかり消えてしまって、更地になっているなんて、私にはうまく想像できなかった。  細かで静かな、冷たい雨が降っていた。私は傘をさして、空き家を目指して雨の町を歩いた。  空き家は、私の家から二区画離れた場所にあった。住宅街のことだから、近いものだ。ゆっくり歩いても三分もかからず着いてしまう。  この辺りはもともと入り組んだ住宅街で、道路の幅は狭く、交通量も少ない。私が子供の頃から比べると、ずいぶん高齢化が進んでいる印象で、活気の少ない町になっていた。通りを歩く人も滅多にいない。こんな冷たい雨の日にはなおさらだった。  空き家は、そんな道から更に折れた、車の入れない狭い路地に沿ってあった。周辺には、年季の入った古そうな家が建ち並んでいた。傷んだ板壁や埃の染み付いたモルタル、それに古めかしいデザインのタイル飾りが昭和を感じさせる。どれも空き家と同じくらい古そうだが、大きな違いは生活感があることだ。お年寄りが聞いているのだろう、やけにボリュームの大きなテレビの音がどこかの家の中から漏れ聞こえている。  路地に入る角には、古い倉庫があった。赤錆びたシャッターがいつも降りていて、誰かが使っているのを見たことがない倉庫だ。これも、十五年前から既に古びて、誰も使っていないように見える倉庫だった。空き家の一部なのかと思われたが、しかし空き家が更地になった今になっても、倉庫は壊されてはいなかった。  倉庫の角に立ち、私はしばし立ち止まった。これまでと変わりなく、狭い路地がそこから奥へと続いている。路地に沿って左手には倉庫があり、その奥が空き家の敷地だ。路地の右手には家が建ち並んでいるのだが、その家々はどれも揃って、路地には背を向けている。玄関は反対側の通りに向かう側にあって、路地側はどの家も裏側の、飾り気のない壁があるばかりだ。不思議とどの家にも窓がなくて、まるで空き家の方を向くことを頑なに拒んでいるかのようだ。  路地の途中までは舗装されていたが、途中からは今時珍しい舗装のない土の道になっていた。その舗装のない区間に面して、空き家の敷地になっている。空き家の前を過ぎると、また舗装が復活する。つまり、空き家の前に当たる部分だけ、取り残されたように舗装されていない訳だ。本当に、そこだけ時が止まっているようだ。  私は片手に傘をさしたまま突っ立って、見えているものと記憶との、微妙な齟齬を感じていた。空き家の敷地はまだよく見えなかったが、それでもはっきりと空気が変わっているのがわかった。ただでさえ狭い道をより狭苦しく感じさせていた、空き家の高い塀が消えていた。この辺り一帯に消えない影を落としていた、巨大な楠の木も消えていた。雨だから明るいというわけではなかったが、それでもなんだか拍子抜けするような、ぽかんとしたあっけなさを私は感じていた。  私は路地へと入っていった。倉庫に面した舗装は手入れがされず荒れていて、ひび割れに沿って雨水がちょろちょろと流れていた。  あの夏以来、私は何度もこの場所に来ていたが、その度に感じていた圧迫感、強烈な磁場のようなものが消えていた。私は抵抗なく、路地を先へと進んでいった。  何か特別なものを感じさせる気配は、何もなかった。私はあっという間に倉庫の横を通り抜けてしまった。舗装の消えた路地に面して、がらんとした何もない空間が開けていた。  私はかつて空き家の門があったあたりに立って、四角い更地を眺めた。少し盛り上がった砂利混じりの地面が、向こう側の家の裏壁まで続いている。左手は倉庫の後ろ側の壁、右手は高い金網のフェンスで終わっている。その向こうにある二階建てマンションの敷地との間を仕切るフェンスだ。地面は水はけが悪いようで、あちこちに大きな水溜まりが出来ていた。ところどころに雑草が生え、一旦伸びてまた枯れて、なにやら汚らしい塊になっていた。枯れていない草木は根を張り地を這うようにつるを伸ばして、雨に濡れていた。がらんとした空き地の端から端までを見渡して、私はその狭さに驚いた。こんなに狭い敷地だとは、思ってもいなかった。周囲の住宅に比べたら広い。何軒分もの広さがある。それでも、記憶の中の空き家はもっと広かったのだ。それこそ、探検してもし尽くせないジャングルのような印象があった。  それがどうだろう。左手の倉庫から右手のアパートまで、手前の路地から奥に隣り合った家の裏壁まで、一目で見渡すことができた。奥の、それまでまったく見えていなかった裏壁は、ちょうど三軒分が見えていた。たったそれだけの広さだったなんて、私には信じられなかった。あの頃は、ちょっとした公園くらいに思っていたのだ。  傘を片手に路地の前に立ち、私はしばし息を整えた。記憶の中の印象があまりにも強過ぎて、今目の前に見ている光景は現実感を欠いていた。木がないせいだ、と私は思った。この場所を常に覆い尽くしていた影が消えて、何やら拍子抜けするような明るさがあった。雨の降る中でさえ、記憶の中の光景よりずっと明るかった。  それでもなお、敷地の中に足を踏み入れるには、若干の勇気を要した。私は一つ深呼吸して、路地から踏み出して空き家の敷地である更地の中に入っていった。  それはあまりにあっけなくて、私には現実感がなかった。かつては、正面の門にあたる場所からも、中に入ることはできなかった。門の引き戸は釘を打った板で封じられていて、誰も開けることはできなかったのだ。門はひどく歪みひしゃげていて、板がなくても開けることはできなかっただろうけれど。  完全に閉ざされた塀の向こうは広い庭で、放置された草木が好き放題に繁殖し、濃厚な緑に覆われていた。そして、はびこった草木の向こうに、古く朽ち果てた空き家が、低く横たわるようにして、あった。  今では、あれほど生い茂っていた草木もきれいさっぱり消え失せて、ただがらんとした空間があるだけだ。遮るものも何もなく、簡単に奥まで歩いていくことができる。そのあっけなさが、気持ち悪かった。  泥の水溜りを避けて、私は足元に気をつけながら前へ進んだ。見る限り、建物の基礎のようなものは一切残っていないように見えた。木材やブロックなどの残骸も見当たらない。あの大木の楠も跡形もなく、切り株も残っていない。何もかも根こそぎ壊して持ち去ってしまったようだ。  傘を片手に敷地の中央あたりに立ち、私は周囲を見回した。記憶の中の空き家の大きな存在感と、この場所の一目で全体を見て取れる狭さとは、釣り合いがとれない気がしてならなかった。  冷たい風が吹き抜け、私は身震いした。ここにはもう何もない。もう帰ろう……と思った時に、私は声を聞いた。  おかえり。  子供の声だ。女の子の声……。  私はその場に立ち尽くした。全身が硬直していた。傘を持つ手に力が入り、気がつくと痛いほどギュウギュウと傘の柄を握りしめていた。  落ち着いて、と私は自分に言い聞かせた。恐る恐る、周囲を見回す。さっきと同じ、ただ静かに雨が降りしきるだけの空き地。三方を壁に囲まれ、路地にも、フェンスの向こうに見えているマンションの廊下や奥の家の二階の窓にも、誰もいない。ここにいるのは私だけだ。だから今の声はきっと、私自身の中から出てきたものなのだろう。  私の記憶の中から、聞こえてきた声。  それは私にとって、懐かしい声でもあった。あの夏、十五年前の夏に、空き家の閉ざされた暗闇の中で、繰り返されていた声だから。  あの暗闇の中に永遠に囚われた、空き家の子供の声……。  おかえり。  また聞こえた。今度はさっきよりはっきりと。さっきより近く、ほとんど息がかかるほどのすぐ近くで囁かれたように。  慌てて後ろを振り返る。誰もいない。ただ、土と水たまりが見えるだけ。  そんな……と私は思った。空き家は壊され、もう跡形もないというのに。空き家の子供は、建物と一緒に消えたんじゃなかったのか。  私は動こうととしたが、ブーツの足が思うように抜けない。いつしか柔らかい泥がねっとりと絡みつき、私の足を引っ張っていた。強引に力を入れると転んでしまいそうで、私は慎重にバランスを取りながら、片足ずつ前に進めようとした。  ようやく、右足が地面から離れた。まだしも乾いて硬そうな地面を探して、その足を下ろした……はずだったのに、下ろした右足はさっきよりも深く、ずぶずぶと泥に沈み込んだ。私は両手をぐるぐる回してバランスを取り、思わず傘を落としてしまった。  開いた傘が、泥の上に逆さまに落ちる。どこからか、少女がくすくすと笑う声が聞こえた。  笑い声。私に会えて、私と遊べて嬉しいとでも言うような。  おかえり……  ……おかえり……  声は前からも後ろからも聞こえた。まるで、私の周りをぐるぐると回っているように。  不意に、私は気づいた。私が今立っている場所が、本当だったら空き家の閉ざされた建物の、ずっと奥まったところに当たることに。  建物が建っていた頃なら、そう簡単には入っていけなかったところ。  そして、一旦そこまで入っていったら、出てくるのはとても難しい……深い完全な闇に閉ざされて、場合によっては、ずっと出てこられないところ。  そんなところだった場所に、私は立ってしまっていた。  絶対にもう二度と、そこに立つことはないと思っていたのに。  私は目を閉じ、深く呼吸して、気持ちを落ち着けようと努めた。十数えてから目を開けて、体の平衡を取り戻す。それから顔を上げ、ほんの十メートルほど向こうに見えている路地の方を向いた。  なんでもない距離だ。あっという間に出ていけるはずだ。  空き家の子供なんていない、と私は自分に言い聞かせた。かつていたかもしれないにせよ、今はもういないはずだ。空き家はなくなった。子供は、空き家に属する存在だ。空き家の暗闇の中でのみ、かろうじて存在をとどめていた空き家の子供は、家と共にこの世から消えてしまったはずだ。  片方ずつ慎重に足を上げ、私は前に進もうとした。だが、まるで何かのトラップに踏み込んでしまったみたいに、私の足はぬかるみに固定され、引き上げようとすると強い力で引っ張られるのだった。ネバネバした粘土質の土は、まるで強力な糊のように、ブーツに絡みついていた。強引に足を引き抜こうとすると、ブーツが脱げそうになった。裸足でここから帰らせる気か。どろんこの足で、十一歳の子供みたいに。  苦い笑いが、私の口から勝手に漏れた。それに呼応するように、後ろの方から嬉しそうな笑い声が聞こえた。思わず、私は肩越しに振り返った。  そこに、子供がいた。  雨に煙る空き地の向こうの端、裏に面した三軒の家の中央の、染みの浮き出た裏壁の前に。  不自然な体勢で振り向いているから、はっきりとは見えない。だがギリギリ視界の端っこに、こっちを向いて立っている小さな姿が確かに見えた。  痩せっぽちの、女の子だ。あの夏の私と、同じくらいの背格好。薄い半袖のTシャツ、青いデニムのスカートの、いかにも夏の小学生らしい格好。雨の中俯き加減で、傘もささずに立っている。それなのに、雨に濡れている気配がなかった。  子供はまっすぐに私を見ていた。私を見ているのに、その表情は暗がりに沈んでよく見えない。  また声が聞こえた。  おかえり……  待ってたよ。  笑い声。私が帰ってきて、本当に嬉しくて仕方がないと言うような。  私は息ができなくなった。空き家の恐怖、暗闇の恐怖が、私の心臓を掴んで絞った。あの暗闇に、戻されるのは絶対に嫌だ。  必死で力を込めたけれど、粘つく粘土に絡みつかれたブーツは持ち上がってくれなかった。もう一方の足で踏ん張ろうと力を込めたら、そっちの足もずぶずぶと地面に沈み込んでしまった。  まさか、ただの水たまりが、そんなに深いはずはない。  でも沈む。沈んでしまう、泥の中に。  何かが泥の底にいて、私の両足を掴んで引っ張っているようだった。強い力が、私の両足を捕まえていた。私はずるずると、泥の中に引き摺り込まれようとしていた。  私は悲鳴を上げようとしたが、吸い込んだ息が足りず、パクパクと口を開け閉めすることしかできなかった。自分自身の悲鳴の代わりに、子供がくすくす笑う声が聞こえた。いたずら好きの子供が、いたずらが成功して嬉しくて仕方がなくて笑う声。  バランスを崩して、私は背中から泥の水たまりに倒れていった……倒れ込んだところで、誰かの腕が背後で私の体を受け止めた。  反射的に、振り解こうと私はもがいた。 「落ち着いて!」と男の声がして振り返ると、いつの間にか近づいていた大柄な男が、倒れそうな私を受け止めたのだった。彼は黒い傘をさしていて、片手で私の体重を支えるのに苦労していた。 「ほら、ここに体重をかけて。ゆっくり足を抜いて」  気がつけば、私の右足を引っ張る力は消えていた。彼の体に体重をかけて、私はなんとか泥に掴まった足を引き抜くことができた。堅い土の上に移動して、じたばたしていた辺りに目をやると、それはただ表面が踏み荒らされた浅い水たまりでしかなかった。足もとを見ると、ブーツの汚れもせいぜいくるぶしあたりまでだった。  それから、私の目はおずおずと奥の黒ずんだ壁の方……子供の姿が見えた方に、吸い寄せられた。半ば予期していた通りに、そこには誰の姿もなかったし、誰かがいたような形跡もなかった。  そのままぼんやりと壁を見ていたら、やんわりと肩を押されて、自力で立つように促された。支えてくれた男に、そのまま体重を預けたままでいたのだ。私は慌てて、礼を言おうと向き直ったが、彼はふっと目を逸らすように離れて行った。部屋着らしいトレーニングウェアを着ている。スポーツマンであるような、がっしりとした体格。足元はスニーカーで、すっかり泥にまみれてしまっていた。  黙ったまま背を向けて歩いていった彼は、水たまりに落ちていた私の傘を拾った。何度か振って、内側についた雨水を払ってから、彼は振り返り、私に傘を差し出した。  傘を受け取るために近づいて、私はようやくそれが誰かに気づいた。 「慶太くん?」  小学生の頃より太って筋肉もつき、全体に巨大化していたが、よく見ると確かに面影があった。空き家に隣り合うアパートに住んでいた、慶太だ。今でもそこに住み続けていたのか。 「平井か」と慶太は私の苗字を言った。  私は傘を受け取り、彼にありがとうと礼を言った。慶太は目を合わせなかった。彼はさっきまで私が見ていた、壁の方を見ていた。 「そこに何かいたのか?」と慶太は聞いた。 「見なかったの?」と私は聞き返した。 「何も。ただ家の窓から、水溜まりの泥にはまってじたばたしてる女を見ただけだよ。思わず助けに来たら」言いながら、慶太は顔をしかめた。「お前だったんだ」 「子供がいたのよ。空き家がなくなったから、あの子も一緒にいなくなったかと思ったのに」 「子供?」  慶太は私をじろりと睨んだ。 「そうか、あいつはやっぱりまだいたのか」 「私を捕まえに来てた。もう少しで、捕まるところだった」 「そうか。そうだろうな」  慶太はふうと溜め息を吐き、それから僅かに口の端を歪めて笑った。 「捕まればよかったのに」 「え?」  私を見ている、慶太のとても冷たい目。黒い傘をさして立っている慶太までの距離が、遠いものであるように思えた。 「ちくしょう」  と慶太は言った。 「どうして、思わず助けちまったんだろうな。黙って見ていればよかったのに。お前が、あいつに捕まるところを」  私は何も言えなかった。慶太にそんなふうに言われるのも、仕方がないのだとわかっていたから。  慶太は踵を返して、雨の中をアパートの方へ歩いていった。私を拒絶するような黒い傘が、僅かに揺れながら遠ざかった。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!