パート2 夏の空き家

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5  夕方、二階の自分の部屋で、聡子はスケッチブックを一枚一枚、丹念に見直してみた。最初の日に描いた絵と今日の絵だけでなく、他の絵にも影が隠れていることに聡子は気づいた。  スケッチブックの二枚目。一日目とほぼ同じアングルで、水彩で書き直した絵だ。洋館の二階の閉じた窓。ほぼ黒く塗りつぶした枠の中に、聡子は他より黒の濃い輪郭を作っていた。これを見るだけではただ偶然の濃淡にしか見えないが、今日目にした子供の背丈や大きさを思い出してみると、その輪郭を描いたとしか思えないのだった。  次のページをめくる。少し横に場所を移動して、洋館の側面を見上げるアングルだ。二階の窓は斜めになってほぼ見えない。画面の大部分は、雨戸が閉じられた日本家屋の軒下部分が占めている。  窓が描かれていないのだから、影もないはずだ。ほっとして次をめくろうとしたところで、伸ばした手が止まった。  長年の雨風に晒され、あちこち表面が剥げた雨戸。屋根の重みに耐えかねて歪んだ柱。その結果できた雨戸と雨戸の間の隙間に、向こうから覗き込む影が、いないか。  気にしていないうちは、なんでもないただの影にしか見えなかった。一旦そう思って見ると、今度はそうとしか見えなくなった。聡子と同じくらいの背丈の子供が、歪んだ雨戸の向こうの闇に佇んで、隙間から少しだけ顔を出して、外を覗いている。  いや、やっぱり気のせいか。先入観を持って探すから、なんでもない影に意味があるように見えてしまうのだろうか。どっちなのか、聡子にはわからなくなってしまった。  次のページをめくる。これも同じように、平屋の部分を主に描いている。雨戸の隙間を目で追っていくと、いた。今度の影は、雨戸のすぐ内側にしゃがんでいて、低い位置から外を覗き見ているように見える。まるで、かくれんぼでもしているみたいだ。  そういえば、夢中になって絵を描いている時に、どこか遠くで声が聞こえたような気がする。気のせいだと思った。自分の頭の中で、ただ想像しただけの声なんだと思った。  まーだだよー……  もーいーよー……  違う違う、気のせいだ。連想ゲームのように、勝手に広がってしまう想像のせい。あるいは夏の暑さのせい。  いーれーてー……  あーそーぼー……  聡子が知らない間に、既に遊びに巻き込まれていたのだろうか。  自分一人しかいないと思っていたあの空き家に、実はもう一人、闇から出てこない子供がいて、影からずっと聡子を見ていた。あの庭に座って、夢中で絵を描き続けている間、ずうっと。何十年も放置された黴臭い空き家の中にいて、光も射さない闇の中で、誰かが来るのを待ち続けていた子供。空き家の子供。  ふと背後に気配を感じて、聡子は振り返った。自分の家の自分の部屋で、あの子が見ているはずはないのだが。つい、周りをきょろきょろ見回してしまう。  一人でいられなくて、聡子は部屋を出て一階へ向かった。  台所では、パートから帰ってきたばかりのお母さんが、夕飯の用意をしていた。お父さんはまだ会社から帰らない。聡子は聞いた。 「おばあちゃんは?」 「たぶん外の植木のところじゃない?」  お母さんは野菜を切りながら答えた。  聡子は玄関へ向かおうとしたが、お母さんは包丁を置いて向き直った。 「ちょっと待ちなさい」 「なに?」 「あんた、今日もまた出かけてたでしょ」 「出かけてたけど。絵を描きに行っただけだよ」 「ここのところ毎日でしょ? 宿題はどうしたの?」 「宿題は毎日やってるよ。帰ってからちゃんと」 「本当に?」 「本当だってば」  聡子が憤慨すると、お母さんはするっと話題を変えた。 「で、毎日どこで絵を描いてるのよ」 「どこって……」  聡子は思わず言葉に詰まった。「どこでもいいでしょ」 「何よ。答えられないの?」 「緑地とか。あちこちだよ。いつもそうでしょ?」 「ふーん」  お母さんはいかにも信用しないふうに眺め、聡子のイライラは募った。 「あんたねえ、夏休みだってのに、友達と遊んだりしないの?」  お母さんは言った。 「毎日一人で絵ばっかり描いてないで、友達と遊んだらどう?」 「……いいじゃないそんなの。別に私がどうしようと」 「あんたのこと心配してるのよ、お母さんは」  聡子はうんざりした。やっぱり部屋にいればよかった。 「今のクラスに馴染めないの? 何か嫌なことでもあった?」  お母さんがそう聞いてきたので、聡子はびっくりした。 「そんなんじゃないよ! どうしてそんなことを言うの?」  聡子は大きな声を出した。 「大声出さないで。違うんならいいのよ」  お母さんは言って、ぷいっと目を逸らしてまな板に戻った。 「私はただ、ちょっと気になっただけだから」  聡子には、言いたいことがいっぱいあった。私はただ、絵を描きたいだけだっていうこと。絵を描きたいことと、友達がどうのということには関係がないこと。たとえ、本当にクラスが好きじゃないんだとしてもだ。それに、お母さんは本当は、自分で言っているように聡子を心配して言ってる訳じゃないんだっていうこと。  でもうまく言葉にできないので、聡子は黙っていた。  言いたいことを言ってしまって、お母さんはまた野菜の下ごしらえを続けた。聡子はそんな背中を見つめ、言いたいことを言葉にできない鬱憤を感じていた。早く大人になりたい、と聡子は思った。大人になったら、言いたいことを全部きちんと言葉にできるはずだから。今は思いを呑み込んで、聡子は玄関に向かった。  おばあちゃんは玄関の外で、表に並べた植木鉢にホースで水をやっていた。 「手伝うよ」  言って、聡子はおばあちゃんからホースを受け取った。 「ああ、ありがとね」  おばあちゃんは腰を叩いて伸びをした。夏の夕方、太陽はようやく沈みかけ、強烈な西日を通りに投げかけていた。聡子とおばあちゃんの影が、路上に長く伸びた。  水やりを続けながら、聡子は聞いた。 「ねえ、おばあちゃん。空き家のこと、知ってる?」 「なんだって?」 「ほら、お寺の手前の路地に空き家があるでしょ。古い板塀に囲まれて、やたらと大きな楠の木があるところ」 「ああ……梶井さんの家ね」 「梶井さん?」  聡子はびっくりした。 「あそこには、梶井さんって人が住んでたの? それっていったいいつの話?」 「そうねえ、もう十年……二十年? 二十年くらい前に、空き家になったんだったかねえ。あそこは今でも空き家のままなんだっけ?」 「うん。荒れ果ててるよ。家は崩れそうだし、楠はやたら茂ってるし、庭は草ぼうぼう」 「なるほどねえ……嫌なことのあった家だからねえ。誰も住みたがらないんだろうねえ」  聞こうと思っていた核心にいきなり触れたので、聡子はびっくりした。 「おばあちゃん、それ本当?」 「ちょっと、さっきから同じところばっかり水やってるよ。もっと万遍なくかけなくちゃ」 「あ、ごめん」  慌てて、聡子はホースを動かした。 「ねえ、嫌なことがあったって本当? 梶井さんの家で何があったの?」 「いや、それが、よくわからないんだけどね。とにかくいろいろと不幸があって、バタバタっとよそへ引っ越して行ってしまったの。ほとんど夜逃げ同然って話だよ」 「夜逃げってなに?」 「普通に引っ越すんじゃなくて、逃げるように慌てて引っ越してしまうこと。夜に逃げるから夜逃げ」 「おばあちゃん、梶井さんのところには子供がいたんじゃない? 小学生くらいの子供が」  おばあちゃんは少し驚いた顔をした。 「うん、確かに女の子がいたよ。ちょうどあんたくらいの歳の頃で、死んでしまったけど」  どきん、と心臓が跳ねた。聡子の声は小さくなった。 「死んだの?」 「さっき話した不幸っていうのが、その女の子が死んだことなんだよ」 「どうして死んだの? 病気? 事故?」 「事故……っていう話だったよ。階段から落ちたとか、なんとか。でもね……」  おばあちゃんは聡子の顔をじっと見つめた。言おうかどうしようか、迷っているみたいだった。聡子が真剣な表情を崩さずにいると、やがて話を続けた。 「その頃には、別の噂があったよ。女の子は梶井さんに殺されたんだって噂がね」  聡子は息を呑んだ。 「殺された? 自分の親に殺されたの? お父さんとお母さんのどっち?」 「噂だからね。でもまあ、お父さんの方だろうね。悪い噂があったのは、梶井さんのご主人の方だったから」 「お父さんに殺されたの?」 「嫌な話だけどね。それ以前から、ずっと近所の噂はあったんだよ。梶井さんのご主人が、まだ小さい娘に辛く当たってるって噂がね」  聡子は目を丸くしておばあちゃんを見つめた。おばあちゃんは声を低くして話した。 「昔のことだから、親が子供をぶつのはよくあることだったけどね。それにしても、梶井さんのところはやり過ぎだって話だったよ」  聡子の脳裏に、空き家で聞いた子供の声が蘇った。窓から見下ろす白い顔も。その裏にこんな生々しい話があるなんて、思ってもみなかった。 「でも、あくまでも噂だよ」  おばあちゃんは言った。 「たぶん、本当のことじゃないんだと思うよ。警察が梶井さんのところに来ることもなかったし、ただ引っ越していっただけだったからね」  聡子はぼうっとしてしまって、ホースの水は足元に流れっぱなしで大きな水溜りを作っていった。おばあちゃんは黙ったまま、聡子からホースを取り上げ、蛇口をひねって水を止めた。  強い西日が射していた。昼間よりも強烈に、照りつけるような黄色い光が真横から射していた。聡子とおばあちゃんの影は、長く長く伸びてずっと向こうの通りまで届いていた。  幽霊の噂がある家には、ちゃんと幽霊が出るに足るだけの事実があった。これは、幽霊が本当である証拠であると言えるんだろうか。  それとも、違うのか。そうじゃなくて、そういう凄惨な過去が実際にあったから、幽霊が出るという噂が立つのか。 「どうしたんだい?」  とおばあちゃんは聞いた。 「あの家がどうかしたのかい?」 「おばあちゃん、私、その子の幽霊に会っちゃったかもしれない」  私は言った。 「殺された子の幽霊かい?」 「うん。あの空き家の……近くで。絵を描いたら、その中に子供の影を描き込んでしまってた。自分でも気づかないで、描いてたの。それに、いれて、あそぼ、って声も聞いたし、窓から覗く白い顔も」  だんだん、聡子は不安になってきた。 「おばあちゃん、私呪われちゃうってこともあるのかなあ? ねえどう思う、おばあちゃん?」  おばあちゃんはホースを片付け、西日に目を細めた。 「呪いねえ。おばあちゃんはそんなことはわからないけどね。でも、別に聡子はその子に恨まれるような覚えはないんだろう?」 「そりゃそうだよ。二十年前なら、生きてる頃は私の生まれるずっと前だし。幽霊に恨まれる筋合いもないよ」 「だったら、別に怖がることはないだろうよ。幽霊だって、恨みもない人を手当たり次第に呪ったりはしないでしょうよ」 「それはそうかも、しれないけど」  それでも聡子が不安そうにしていると、おばあちゃんは聡子をじっと見つめて、 「おいで」  と言って、家の中に入っていった。  聡子は後を追いかけた。お母さんのいる台所を黙って過ぎて、おばあちゃんの部屋へ向かう。居間の隣にある、仏壇のある、和室だ。おばあちゃんは居間と和室を仕切る襖を閉めた。  聡子を畳に座らせると、おばあちゃんは箪笥の引き出しを開けてなにやら探し始めた。 「何を探してるの?」 「ちょっと待って……あったよ」  引き出しから取り出したものを、おばあちゃんは聡子の前に差し出した。畳の上にぽつんと置かれた、小さな赤い袋。 「お守り?」 「阿呆らしいと思うかもしれないけどね。持っておくといいよ」 「うん。ありがとう」  お守りが効くのかどうかはわからないが、おばあちゃんがまともに取り合ってくれたことが、聡子は嬉しかった。お母さんでは、こうはいかない。お父さんだって、たぶんまずは疑ってかかるだろう。 「その女の子の幽霊は、聡子に何か悪さをしたのかい?」  とおばあちゃんは聞いた。 「ううん、別に。ただ離れて見てるだけだよ」 「それなら、そんなに怖がることはないと思うよ。その子は、きっと寂しいんだろうよ」 「不幸な死に方をしたから?」 「そうだね。殺されたとしても、そうじゃなかったとしても、若くして死ぬのは不幸だね」 「それなら私、遊んであげるべきなのかな?」 「さあ、それはどうだろうね」  とおばあちゃんは言葉を濁した。 「生きた人間と幽霊とでは、所詮住む世界が違うからね。あんまり不用意に交わるのは、よくないことなんじゃないかねえ」 「そうなんだ」 「って言っても、おばあちゃんは幽霊を見たことはないけどね」  言って、おばあちゃんは笑った。 「でも、たぶん幽霊なんてものは、実はそこら中にいくらでもいるんじゃないかねえ。死ぬ人がいっぱいいるんだから、幽霊もいっぱいいなくちゃ、おかしいやね」  おばあちゃんは天井の方を見上げた。仏壇の上、おじいちゃんの写真が見下ろしている。 「おじいちゃんの幽霊は見えないの?」  と聡子は尋ねた。 「残念ながらね。でも、たぶん見えなくても見守ってくれてると思うよ。大方の幽霊は、いい幽霊なんじゃないかねえ」  聡子は頷いた。畳の上のお守りを取り上げる。  おばあちゃんは言った。 「大概は、ね。中には悪い幽霊も、いるかもしれないけど」  聡子は手に持ったお守りをぎゅっと握りしめた。
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