パート2 夏の空き家

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7  聡子は夢を見た。今から二十年前、空き家がまだ空き家ではなかった頃の夢だ。  白い壁に赤い屋根。二階の窓ではカーテンが風にそよいでいる。平屋の雨戸は開け放たれ、風鈴が微かな音を立てる。畳の上には小さな木馬があって、僅かに揺れていた。古いおもちゃだ。ピンク色のペンキがあちこち剥げて、木の地肌が見えていた。  まだ空き家ではない。まだ廃墟ではないけれど、この家自体がどこか古びて、ペンキの剥げた木馬のように感じられた。花柄の壁紙はまだ健在だけれども、継ぎ目の部分が浮いてきて、不恰好な波が生じている。箪笥や食器棚の木目は黒ずみ、戸棚には埃が積もっている。  破れた障子はそのままになっているし、振り子時計は止まっている。決定的な荒廃はまだやってきていないものの、家全体が少しずつ、空き家へ向けての坂を下り始めた、そんな印象があった。  夢の中で、聡子はこの家の子供になっていた。平屋の奥の六畳間にいる。この家のいちばん奥まった部分、床の間と仏壇のある部屋だ。その部屋の更に奥、閉じた襖の押入れの中に、聡子はいた。押入れの中は真っ暗、でもどんなに引っ張っても襖は開かない。外からつっかい棒がしてあるからだ。お父さんが、聡子をここに閉じ込めた。そして聡子は泣き叫び、ここから出してと訴えている。 「うるさい! 近所に筒抜けの声でぎゃあぎゃあ泣くな!」  お父さんが怒鳴った。  自身のお父さんがきつい言葉で怒鳴ったように感じて、聡子はショックを受けた。 「そこで文句があるなら、もっとお仕置きをしてやろうか?」  襖が外から揺さぶられた。ガタガタと激しい音が、狭い闇の中に響いた。お父さんが、外から押入れを開けようとしている。悲鳴を上げて、聡子はさっきと逆に襖を開かないように押さえた。お仕置きをされるくらいなら、押入れの中にずっといた方が百倍マシだ。  必死で押さえたけれど、大人の力にはかなわない。襖は軋みながら開いていった。隙間から、覗き込むお父さんの顔が見えた。血走った目、笑うように大きく開いた口、げっそりと頬がこけた青白い顔。これはもうお父さんじゃない、何か別の怪物だ。 「出てきなさいお仕置きだ!」  と怪物は吠えた。  聡子は押入れの奥へと逃げ込んだ。だが襖は開かれて、怪物がクモのように這いながら押入れの中に入ってくる。怪物は耳まで避けた口を開いて、ゲラゲラ笑っている。異様な声が閉ざされた空間に響く。聡子は身を縮め、押入れの奥の壁に背中を押し付けるが、もう逃げる場所がない。怪物の手が、聡子の胸ぐらを掴んで引き寄せる……。  汗をびっしょりとかいて、聡子は飛び起きた。  目覚めてしばらくは、自分が誰か、ここがどこかわかっていなかった。二十年前の空き家にいて、二十年前の空き家の子供になっている感覚が、まだ残っていた。やがて眠りが去っていくと共に、夢の中の感触も少しずつ消えて、じきに掴み難いあやふやな記憶に変わっていった。  いつもよりずいぶん早くに目が覚めた。時計を見ると午前六時。夏の朝はもう十分に明るいが、窓の外の陽射しはまだ柔らかく、セミの声も聞こえなかった。しばらくベッドの上でじっとして、聡子は嫌な夢の残り滓が消えてしまうのを待った。  まだいくらかの胸の動悸を感じたまま、聡子はベッドを降り自分の部屋を出て、階段を降りた。降り切ったところで、奥から玄関に向かうおばあちゃんと出くわした。 「おや、おはようさん。今日は寝坊しないのかい?」 「おはよう。なんだか起きちゃったの、嫌な夢を見て」 「そうかい。早起きできるんならたまには嫌な夢もいいね」  聡子は苦笑いした。今のところはまだ夢の印象が強烈で、たまにはいいとは思えなかった。 「おばあちゃんと一緒にラジオ体操行くかい?」 「遠慮しとく。お父さんは? まだいる?」 「まだいらっしゃるよ。たまには一緒に朝ごはん食べなさい」  おばあちゃんは公園のラジオ体操へ、朝の散歩へ向かった。聡子はおばあちゃんに手を振って、居間へ向かった。  聡子のお父さんは朝が早い。通勤時間がかかる会社に勤めているので、平日はいつも六時前に起きて出かけてしまう。だから、夏休みでなくても、朝は聡子はめったにお父さんに会えない。会社が遠いということは帰りも遅くなるので、夜も会えないことが多い。同じ家に住んでいながら、まったく会えない日が続くこともよくあった。  もっと便利な場所に引っ越そうという話も何度か出たが、その度に問題になるのがおばあちゃんのことだった。おばあちゃんは今さらこの家を出て、別のところで暮らすなんて嫌だと言った。おばあちゃん自身は一人暮らしで平気だと言い、むしろ気楽なくらいだと言うのだが、やはりそういう訳にはいくまい……というのが毎度の結論だった。  居間を覗くと、お父さんがテーブルについていた。コーヒーを飲みながら、新聞を広げている。テレビがついていて、朝のニュースを流している。向こうを向いているお父さんを見て、聡子は緊張した。夢の名残りが不意に蘇ったのだ。怪物と化して四つ足で追いかけてくるお父さん、血走った目と耳まで避けた口、そして笑い声……それは聡子のお父さんではなくて、夢の中の空き家の子供のお父さんだと、頭ではわかっていたけれど。  聡子がそっと居間へ入ると、お父さんは振り向いた。 「おう、おはよう。珍しく早いじゃないか」 「おはよう」  いつものお父さんだったので、聡子はほっとした。お父さんの隣の椅子に座り、夢の名残りを振り払った。 「パン食べるか? 焼いてやろうか?」 「いい。後で自分でやるから。お母さんは?」 「洗濯。お母さんに用事?」 「ううん、別に。あのさあ、お父さん」 「なに?」 「空き家に住んでた人のこと、お父さんは知ってる? 梶井さんって人」 「梶井?」  コーヒーカップを片手に、お父さんは天井を眺めた。 「ほら、近所に、大きな木がある空き家があるでしょ?」 「ああ。あの家か。あそこに住んでたのは、梶井なんて名前だったかな」 「おばあちゃんがそう言ってたよ。梶井って一家で、女の子がいたって」 「そうだったかな。まあ、おばあちゃんがそう言うんならそうなんだろ。それがどうかしたかい?」 「その女の子、殺されたんだって。それも、その子のお父さんに。それでも事故で死んだってことになって、お父さんとお母さんは引っ越していって、それで空き家になったんだって。お父さん、知ってた?」 「おばあちゃんがそんな話を聞かせたのかい? ひえっ、参ったな」  お父さんはコーヒーカップを置き、新聞も置いて、聡子の方に向き直った。 「そんな話をおばあちゃんから聞いたって、お母さんには言わない方がいいぞ」 「わかってるよ。だから、今話してるんじゃない」  お父さんは笑った。 「そうか、聡子は賢いな」 「ねえ、この話本当の話なの?」  お父さんは真面目な表情になった。 「それは、本当かどうかわからない。当時、そういう噂があったことは事実だ。でも、それはあくまでも噂だ。噂だけで人を悪く言うことを、陰口っていう。陰口は言うもんじゃないよ。たとえ、その当人が引っ越していなくなっているとしてもね」 「でもさ。もし本当に女の子が殺されてて、その犯人が逮捕もされずに済んでるんだとしたら、それは間違ってるよね。そんなひどい人のことを悪く言うのは、陰口とは言えないんじゃないかなあ」 「まあね。でも、事実だと言い切れない以上、悪く言って当然だとは言えない。どっちにしても、もうずっと昔の話だ。どうしてそんなことが気になるんだい?」  慌てて、聡子は言い訳を探した。 「あの空き家に、幽霊が出るって噂があるの。本当かと思ってさ」 「幽霊? 女の子の幽霊?」 「そう。女の子の幽霊。お父さん、その子のこと知ってる? おばあちゃんよりは歳も近いでしょ?」  お父さんは笑った。 「近いったって、そんなには近くない……と思うよ。あそこが引っ越したのが、ええと、十年以上前かな?」 「二十年前だって、おばあちゃんは言ってたよ」 「じゃあ、お父さんは二十歳前くらいだ。小学生の女の子と友達じゃないよ」 「そうか」  聡子はがっかりした。 「お父さんが覚えてるのは、むしろその子のお父さんの方だね。梶井さん」  夢が一瞬蘇り、聡子はひやっとした。 「子供を殺しそうな人だった?」 「子供を殺しそうな人って、どんな人だよ。そんなのはわからないけど、まあ変わった人ではあったよ」  お父さんは記憶を辿るように目を細めながら、話した。 「子供にとっては怖いおじさんって感じだったね。昼間もずっと家にいて、あの近くで大騒ぎして遊んでると、よくうるさいってすごい剣幕で怒鳴られた。追いかけ回された奴もいた。今思えば、どこの町内にも一人はいる、ちょっとおかしなおじさん……ってとこだろうけどね」 「頭がおかしかったの?」 「いやあ……それは難しいね。病気か、ちょっと変わった性格なだけか、はたから見てわかるもんでもないからね」 「でもそんな状態で、お父さんが勤まるの? 子供は大変なんじゃない?」 「そうだね。勤まらないだろうな。だからまあ、お母さんがなんとかやってたようだよ」 「お母さんはどんな人?」  その時に、お母さんが居間に入ってきたので、お父さんも聡子も黙った。お父さんは口にチャックして見せた。 「あら、あんた起きてたの。珍しい」  とお母さんは言った。 「毎朝これくらいに起きて、お手伝いでもしたら?」 「パジャマ、着替えてきまーす」  と聡子は言って、ついでのお説教になる前に部屋を逃げ出した。  聡子は素早く着替えて、会社へ出かけたお父さんの後を追いかけて家を飛び出した。 「ちょっと、どこ行くの。朝ごはんは?」 「お父さんを駅まで送ってくる」  言って、聡子は走った。  駅まで半分くらいのところで追いついた。振り向いたお父さんに、聡子は「それで、お母さんはどんな人だったの?」と尋ねた。 「おいおい、そこまでして聞きたいのか?」 「だって、今度いつ会えるかわからないもん」 「明日また早く起きれば済むことだろ。日曜日でもいいし」 「そんなに待てないし、起きる自信はない」  やれやれ、とお父さんは肩をすくめた。  陽射しが、早くもきつくなりつつあった。眩しい光に満ちた通りを、駅へ向かって聡子とお父さんは並んで歩いた。 「どんなって言ってもねえ。普通の人だったよ。どっちかというと控えめな感じで、影が薄かったから、エキセントリックな旦那の影で目立たなかったね。まあ、真面目に地道に家族を支えていたんだろうね」 「お母さんが、子供を守っていたのかなあ?」 「そうかもしれないね」 「でも、変だよね。お父さんが子供を殺したんなら、どうしてお母さんはそのことを警察に言わなかったんだろう。子供を殺した犯人と一緒に引っ越していくなんて、あり得ないんじゃない?」 「変かもしれないけど、今となってはわからない。二十年も前のことを、憶測でどうのこうの言ってもしょうがない。もうやめないか? せっかく早起きしたんだから、もっと楽しい話をしようよ」 「……うん」  家から駅へ向かう道は、空き家とは反対の方向だ。住宅街から、商店街に変わっていく。駅前の商店街だが、近頃は寂れる一方だ。シャッターの降りた店舗が目立つ。この中にも空き家や、近く空き家になる家が混じっているのかもしれない。  その全部に、幽霊がいる訳ではないだろうけど。 「絵は描いてるのか?」  とお父さんが聞いた。 「うん。描いてるよ」  と聡子は答えた。 「もしかして、空き家の絵を描いてる?」  聡子はドキッとした。 「ううん。空き家には近寄れないもの。描きたくても、見えないんじゃ描けない」 「そうか。聡子が空き家のことばかり気にするから、空き家の絵を描いてるのかと思った」  聡子は素知らぬ顔で遠くを見た。 「ほら、前に電車の絵に夢中になった時、四六時中電車のことばかり聞いていただろう?」 「そうだっけ?」 「そうだよ」  聡子とお父さんは駅に着いた。出勤する人々があちこちから集まってきては、ぞろぞろと列をなしてエスカレーターに吸い込まれていった。 「じゃあな。あんまり変なことを気にするなよ」 「私はただ……」  聡子は言った。 「家族に殺されたとしたら、あの子に味方はいたのかなって思っただけだったの。誰も味方がいなかったとしたら、寂しかっただろうなって」  お父さんは真剣な表情で、聡子をじっと見つめた。 「あんまり感情移入するなよ」  とお父さんは言った。 「おまえはいつも、思い込んだらどっぷりはまり込んでしまうところがあるからな」 「わかった。気をつけるよ」  と聡子は言った。 「行ってらっしゃい」 「行ってきます」  お父さんが他の人々と一緒に、エスカレーターに吸い込まれていくのを見送って、聡子は道を戻った。
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