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いつもの楠の下に座り、聡子は空き家の絵を描いていた。
絵に集中しながらも、心の一部では常にあの子の声が聞こえてくるのを待っている自分がいた。荒れた庭や崩れかけた建物を描き写しながら同時に、二十年前の風景を思い描いてもいた。
描きながら、聡子は心を通してあの子に話しかけていた。
どんなふうに、あなたは死んだの?
それって、どんな気持ち、だったの?
そんなことを知ろうとするのは、とても怖いことだった。だが自分の中の暗い好奇心を、聡子は止められないでいた。
頭の中で思い描く想像が、やがてこの場所の雰囲気で増幅されて、聡子自身の制御も離れて一人歩きを始める。今また、二十年前の風景が聡子の目の前に展開し始めていた。
洋館の二階の窓。カーテンが風に揺れるその窓から、少女の父親が外を見ている。
二階の父親を見上げる聡子は、いつしか少女の視点になっている。庭に立って、二階を見上げている少女の視点だ。お父さんを見て少女は怯えるけれど、お父さんは彼女を見ている訳じゃない。どこにも焦点の合わない目で、どこでもない、虚空を見つめている。彼は、自分自身の内側の何かに心を奪われているのだろう。その様子は正常には見えない。
二階にいるのはお父さんじゃない。外見はお父さんだけど、中身はまったく別の誰かだ。少女の意識で、聡子はそんなふうに感じていた。いつの間にか、お父さんの中身だけが入れ替わってしまっている。そのことを少女はお母さんに訴えたけれど、お母さんは取り合ってくれなかった。
むしろ、お母さんはそれをお父さんに報告して……
お父さんは少女を、いくつもの襖の向こうにある、奥まった部屋に呼び出して……
聡子の意識は少女の視線で、複雑に入り組んだ廊下を進んでいた。廊下の板はギシギシと不気味な音を立て、外の光が届かないのでとても暗い。襖で仕切られたいくつもの部屋が連なっているが、どの部屋もどんよりと影に沈んで、まるで何か悪いものが澱になって淀んでいるように見える。
奥の間が近づくほどに、少女の怖さは募っていく。でも、行かない訳にはいかない。お父さんに、呼ばれているからだ。
いちばん奥の暗い部屋で、お父さんの姿をしているけど、中身はお父さんじゃないものが待っている。少女にお仕置きをするために。
怖さが限界に達して、少女は廊下の途中で回れ右して、泣きながら逃げ帰っていく。パタパタと、少女の裸足の足音が廊下を移動していく。
だが、襖をガラッと開けて、少女の前に立ちはだかったのはお母さんだ。
お父さんのところにおいでなさい。
でないと、お父さんがお怒りになるよ。
暗い表情でそう言って、少女の肩を力強く掴み、くるりと回して前を向かせた。少女は泣いて抵抗するけれど、お母さんは肩を掴んだ手を離してくれない。そのまま背中を強引に押して、少女を前へと進ませていく。
お父さんがお父さんでないことを、少女は声高に訴えるけれど、お母さんは取り合ってくれない。
まったく、あなたはどうしてそんな子なの。
あなたがそんなだから、お父さんがお怒りになるのでしょう。
お母さんにぐいぐいと押されて、少女は廊下を進まされていく。廊下は曲がりくねって、進むほどに暗くなっていき、どろどろとした淀みを増していく。淀みの向こうにあるのは、仏壇と床の間のある奥の間だ。その部屋で、お父さんの姿をしてお父さんでないものが待っている。少女を虐めて、暗い喜びを得るために。
がっちりと少女の肩を掴んだまま、お母さんは奥の間の襖を開けた。
楠の下に座って、片手は絵筆を持ったまま、聡子は大きく肩で息をしていた。
また、起きたまま夢を見てしまった。荒い息を整えて下を向くと、無意識のうちに描いたのか、スケッチブックには黒い絵の具がめちゃくちゃに塗りたくられていた。
途中まで描いた空き家を塗りつぶすように、黒がでたらめに乗せられていた。絵の具の量が多すぎて、下の紙まで染みていきそうだったので、聡子はその絵を破り取って、折り畳んで地面に置いた。どっちみち、もうこの絵を仕上げるのは無理だ。
考えごとにどっぷりはまって、想像に浸ることはこれまでにもあった。けれど、ここまで意識をなくしてしまうほどになるのは、この空き家以外ではなかったことだ。
お母さんはいつも、聡子がぼうっとしていると言う。「昼間から夢を見ている」とお母さんは言う。だが、それはあくまでもただの例え。本当に夢を見ていた訳じゃない。
この場所では、聡子が一旦想像を巡らせ始めると、どんどん深みにはまっていった。想像が暴走して、歯止めが効かなくなった。そしてそのリアルな感触は、ただの想像だとは思えなかった。
これは、あの子が聡子に見せている夢だ。
夢の中で、聡子はあの子になっていた。当時あの子が感じた恐怖や不安、絶望を、そっくりそのまま自分の感情として追体験することになってしまった。それはあまりに迫真的で、聡子は怖くなった。体験そのものの恐怖だけでなく、このまま戻れなくなったらどうしよう、という恐怖があった。
このままあの子になってしまって、元の聡子に戻れなくなってしまったらどうしよう。
それほどまでに、夢の体験はリアルだった。
少女の感じた絶望が、今もまだ聡子の中に色濃く残っていた。お父さんに対して、だけじゃない。少女を守るどころか、お父さんのところへ容赦なく引っ立てていったお母さん。
あの家には、少女の味方は誰もいなかったのだ。
お父さんが別の何者かに変わってしまったのは、病気なんだろうと聡子は思った。そういう病気があると、聡子は聞いたことがあった。病気によって、性格ががらっと変わってしまうのだ。優しかった人が、恐ろしい鬼のような性格に突然変わってしまう。あまりにも理不尽だけれど、病気なんだからしょうがない。誰でも、ある日突然そうなってしまうかもしれないのだ。
お父さんが病気になったことで、お母さんもまた変わってしまった。それは、仕方のないことなのかもしれない。誰が悪い訳でも、ないのかもしれない。
だが、そんな只中で一人でいなければならなかったあの子は、それは恐ろしかったことだろう。
さっきのイメージ。お母さんに引っ立てられ、奥の間のお父さんのところへ連れていかれた少女。あの子が殺されたのは、あの直後のことだったのだろうか?
お仕置きがエスカレートして、でも誰も止めてくれる人がいなくて?
もしそうだとしたら、少女の死因をごまかして、殺人を覆い隠してしまったのも、お母さんだったのだろうか?
そんなの、あんまりだ。悔しくて悲しくて、聡子は強く唇を噛んだ。
懐中電灯を持って、聡子は洋館へと向かった。
レンガの階段を登り、戸口に立った。枯れ葉の積もった洋間に、木の葉を越した薄い光が射し込んでいる。光は入ってすぐのところまでしか届かず、あとは影がだんだん深くなる。
聡子は懐中電灯のスイッチを入れた。光は弱く、まだ暗がりの深くない場所では、ついているかどうかもよくわからない。
戸口を越えて踏み込んでいきながら、聡子は懐中電灯の光を奥へと向けた。正面の扉は、半分開いたところで止まっている。隙間から覗く暗闇は濃く、小さな懐中電灯ではまるで歯が立たない。
光を左右に向けた。花柄の壁紙が光の中に浮き立つ。ずっと日影の中にあって、ほとんど日の光を浴びていない壁紙は、意外なほどに鮮やかな色を残していた。緑の地色にピンク色の花が並んでいる。色だけ見ると往年のままのようだ。だがやはりあちこち破れ、壁から剥げて落ちかかり、黒い黴が浮いている場所もあって、年月の重みを感じさせる。
右手の壁には、二階へ上がる階段室。左手の壁には何もなく、外から入り込んだつる草が天井まで這い上がっている。
懐中電灯を強く握り、しっかりと前に向けて、聡子はゆっくりと奥の扉へ近づいていった。
セミの声が背後に退き、落ち葉を踏むガサガサという音が響く。扉の隙間から覗き込み、懐中電灯の光を奥に向けた。
「ねえ、そこにいる?」
と呼びかける。声は闇に吸い込まれて消えた。
懐中電灯の細い光は、ごく僅かな範囲だけしか照らさない。丸いスポットの中に、奥の廊下の壁紙が浮かび上がった。洋間の緑とは違う、クリーム色の壁紙だ。
廊下は扉の外で、左右に続いている。左手に光を向けると廊下はすぐに終わって、物入れと思われるスペースがあった。
反対側を見るためには、扉から中へ、一歩踏み入れなければならなかった。ゆっくり、慎重に、聡子は扉と壁の隙間に体を差し入れた。廊下に足を踏み入れ、反対の方向に懐中電灯を向けた。
右手に光を向けると廊下はもう少し長く続き、数メートル先で何もない壁に突き当たっている。その左側に、障子があった。紙はあちこち破れてはいるが比較的きれいなままに残っている。扉と同じように、少しだけ開いてその先の暗闇を見せていた。
「そこにいるの?」
と聡子はもう一度呼びかけた。
障子の僅かに開いた隙間に立って、こっちを見ているぼんやりした影があった。
非力な懐中電灯の光では、障子の影まで届かない。女の子が確かにそこにいることはわかったが、顔も、表情も、読み取れない。
表情は見えないが、少女が嬉しがっていることはわかった。聡子が来たことを、喜んでいる。
きてくれたね……
おいで……
「暗くて見えないよ」
と聡子は言った。
「明るいところへ出ておいでよ」
影は答えなかった。ただじっと、そこに佇んで見ている。
不意に、聡子は不安になった。そこにいると思っていることが錯覚で、本当は誰もいないんじゃないか。女の子の影のように見えるのは、ただの障子の影の偶然のいたずら。最初から誰もいないのに、誰かいるように思い込んで、自分の中の想像の声と話している……。
そんな聡子の思いを否定するように、障子の隙間の影が動いた。手を伸ばして、聡子を誘うように手招きしている。
おいでよ……
いっしょにあそぼう……
「そんな暗いところへは、入っていけないんだよ」
と聡子は言った。
「どうして明るいところへ出てこないの?」
しくしくと、今度は泣き声が聞こえてきた。
「どうしたの? 泣いてるの?」
わたしはここからでられない。
「どうして?」
だって、わたしはおうちから、でられないから。
おうちのそとでは、わたしはわたしでいられなくなる。
「そうなの?」
そう。だから、はいってきて。
なかにきて。
かいちゅうでんとうがあるから、へいきだよ。
聡子は手に持った懐中電灯を見た。その小さな光は、障子の向こうに待っている濃厚な闇の前では、あまりにも非力すぎる気がしてならなかった。
少女の泣き声が聞こえてくる。
さびしいよ。ひとりぼっちで、さびしいよ。
はいってきてくれないなんて、ひどいよ。
思わず、聡子は前に進んだ。扉と壁の間を離れて、廊下の中に入っていく。
扉から手を離すのは怖かった。安全な命綱を離して、頼るもののない虚空に踏み出すような気がした。
壁に手を当てて数歩進み、背後で扉が閉まったらどうしようと不安になって、それ以上進めなくなった。
「やっぱり怖いよ」
と聡子は言った。
どうしてこわいの?
「だって、暗いもの。暗くてなんにも見えないのは、怖いよ」
こわくないよ。
こわくないのに。
今度は笑い声。さっき泣いていたのに、もう軽やかな笑い声が聞こえてきた。
おいでよ。
ここはたのしいよ。
まっくらだけど、あそべるよ。
いっしょにここにきて、あそぼうよ。
ころころとトーンが変わる声に、聡子は困惑した。からかっているんだろうか?
同情とは別に、聡子は少女に奇妙に歪んだ怖さを感じた。少女には、どこかとてもいびつなところがあった。
もう一歩、聡子は前へ進んだ。
懐中電灯の光が、障子の白を浮かび上がらせる。障子の向こうにいる少女も、少しずつ姿が見えてくる。
聡子と同じような、半袖のシャツにスカートの格好をしている。肩にかかる、髪の長さもよく似ている。うつむいている顔は白い。まるで障子の紙のようだ。表情はよく見えないが、笑っていることはわかる。
おいで……おいで……
いっしょにあそぼう……
歌うように、口ずさむように言っている。その声が、もうずいぶん近くから聞こえている。
不意に、聡子は怖くなった。外の世界から隔絶されて、既に空き家の中にいて、闇の中で少女と二人きりになっている。いつの間にか人の世界を離れて、幽霊の世界に入り込んでしまったような。
くるりと振り返って、聡子は廊下を戻っていった。
いっちゃうの?
いっしょにあそばないの?
少女の声が失望に変わった。
扉に手を伸ばした時に、ギイ、と音がして扉が動いた。バタン、聡子の目の前で扉が閉まった。
外から入っていた僅かな光が失われ、扉の位置さえ見えなくなった。聡子は慌てて、懐中電灯の光で扉を照らした。
ノブに手を伸ばして握りしめ、カチャカチャと揺する。扉は開かなかった。
「開けて!」
と聡子は叫んだ。
いかないで。
もどってきて。
なかにはいって、いっしょにあそぼう。
いーれーてー……
あーそーぼー……
少女の声が、後ろから近づいてくる。
ミシリという足音が、聞こえた。
「開けてったら!」
押すべき扉を引いていたことに、聡子は気づいた。押すと、扉は難なく開いた。通り抜けた扉を、後ろ手にバタンと閉める。落ち葉の積もった洋間を前のめりに走って、聡子は空き家から外に出た。
レンガの階段を駆け下りて庭に出て、ようやく一息ついて聡子は振り返った。想像の中ではあの子が後を追いかけて来ていたが、空き家には誰もいなかった。ただ、薄暗い洋間に聡子が走り抜けた埃が立っているのが見えた。
くすくすと笑う声が聞こえた。
またきてね……
まってるよ……
と声がして、洋間の奥の扉が、ギイ……と開いた。
扉は来た時と同じ半分開いた状態になって、誘うように内側の暗闇を見せていた。
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