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9
八月も半ばにさしかかり、もうすぐお盆休みという頃。いつものように穴に近づいた聡子は、塀の向こうに声を聞いた。ドキッとしたが、女の子の声じゃない。男の子たちの話し声だった。
聡子は身を屈め、素早く穴をくぐり抜けた。音を立てずに茂みを通り抜ける技を、聡子は既に身につけていた。茂みの影から覗き見ると、空き家の前には四人の子供たちがいた。
そのうちの一人は、慶太だった。あとの三人も、クラスの男子たちだ。しげっちょ、タクヤ、はまちー……と呼ばれている男子たち。めったに男子に話しかけることのない聡子は、そんなふうに呼んだことは一度もないが。
そういえば、聡子が慶太に話しかけるきっかけになった、学校の休み時間での空き家の話。その時に、空き家の幽霊の話をしていたのがこの四人だった。
洋館のレンガの階段の前で、彼らは輪になって相談していた。手に手に懐中電灯を持っている。カメラを肩から下げている子もいた。どうやら、幽霊空き家の探検に来たようだ。作戦会議は声をひそめているつもりのようだが、時々大声になっていて聡子はひやひやした。路地まで普通に聞こえてしまいそうだ。
しばらく葉陰で迷っていたが、いつまでも隠れている訳にもいかない。それに、早く絵が描きたい。聡子はようやく決心して、茂みの影から進み出た。
気配に気づいて、男子たちが振り向いた。いかにもびっくりした様子で、よろけてこけそうになっている子もいる。幽霊屋敷を前にして、ずいぶん緊張と興奮が高まっているようだ。
「だれだ!」
叫んで、すぐに聡子であることに気づき、ふうと大げさな溜め息を吐く。
「なんだよ、びっくるさせるなよな」
びっくりなんてさせてないよ。そんなにビビるなら、わざわざ来るなよな。大声出したら、誰かに見つかるじゃないか。侵入がバレて追い出されたら、こっちまで巻き添えで絵が描けなくなってしまう。迷惑かけるなよな……なんてことを聡子は思ったけれど、何も言わなかった。
黙ったまま、聡子はいつもの楠の下へ向かった。男子たちを無視して、画材の用意を始める。
無視するつもりでも、自然と声が聞こえてしまう。彼らは、子供の呼び掛ける声について話していた。私が話したことを、慶太がみんなに話したんだ、と聡子は思った。スケッチブックを広げながら、聡子は内心腹を立てていた。一気に人が増えて、絵に集中できそうにない。せっかくの、誰にも邪魔されない自分だけの場所なのに。
楠の下でじっと前だけを睨み、聡子は男子たちを無視して、絵に集中しようとした。
空き家の建物だけを睨み、目を背けていたら、影が差した。顔を上げると、男子たちが近寄って聡子を取り囲んでいる。聡子はたじろいだ。
「な、なによ」
「幽霊が映ってる絵って奴、見せてよ」
しげっちょが言った。
「え、いやだよ」
「なんでだよ。いいだろ、見るだけなんだから」
「やだってば」
「ケータには見せたんだろ!」
「ケータにしか見せないのかよ。やらしいなあ」
聡子はスケッチブックを差し出した。男子たちがわっと群がる。破かれやしないかと、聡子は心配だった。
慶太は少し下がって聡子をちらちら伺っていた。申し訳なさそうな様子も見えたが、友達の手前それをはっきりと示すことはしなかった。
「どれだよ?」
「これじゃないの?」
「これだって」
「えーっ、これ? なんだよ、全然幽霊に見えないじゃん」
聡子は腹が立って仕方がなかったし、泣きたいような気持ちもあったが、どちらの気持ちも表に出せなくて、ただじっと黙って立っていた。傍目には、まるで動じずに構えているように見えただろう。実のところは、気持ちはぐるぐると渦巻いて気持ちが悪くなりそうだった。
「おい、おまえケータを騙したんじゃないのか?」
とタクヤが強がって詰め寄った。
聡子は黙って、スケッチブックを取り返そうとした。
タクヤはスケッチブックを高く掲げた。「答えろよ。おまえ騙したんだろう?」
「おい、やめろよ」
と慶太が言った。
「返してやれよ。平井をいじめても意味ないだろう?」
男子たちは慶太に向けて、ひゅうひゅうと囃し立てた。聡子は、意味がわからない。
タクヤが差し出したスケッチブックをひったくって、聡子は楠の下へ走った。もう帰りたいと思ったが、それもやっぱり嫌だった。この空き家を男子たちに明け渡すみたいな気がしたのだ。聡子の場所だったのに、取られるのは嫌だ。
聡子はもう一度そこに座り、絵を描く準備に取り掛かった。男子たちの方には目を向けず、自分の手元だけに集中する。それでも彼らの様子は目や耳に入ってきて、ひそひそ話したり笑ったりしているのがわかった。無視するつもりの聡子だったが、どうしても気になって横目で伺ってしまう。
大声で笑い合っては慶太が静かにしろとたしなめる。そんなやり取りを何度か繰り返した後、男子たちはもう一度洋館の方へ向かった。レンガの階段を登り、木戸の前で一列になる。先頭の慶太が大きな懐中電灯、三番目のタクヤが小さな懐中電灯を持ち、二番目のしげっちょがコンパクトカメラを構えている。しんがりのはまちーは落ち着かなげにきょろきょろしている。
洋館を見上げ、四人ともさすがに真剣な表情になった。互いに顔を見合わせて気合いを入れ直し、一人ずつ木戸の隙間をくぐり抜け、順番に中へ入っていった。
四人の姿が見えなくなると、聡子は顔を上げて洋館を見つめた。何が起こるのか、それとも何も起こらないのか。あの子は、いったいどうするだろうか。聡子は耳を澄まして、筆を持つ手を止めて待った。
私は何を期待しているんだろう、と聡子は思った。四人が幽霊に脅かされて、腰を抜かして逃げ出してくることだろうか。それとも、あの子がうまく身を隠し、無神経な侵入者なんて無視して、隠れおおせることだろうか。
聡子は、自分が慶太たちじゃなく、幽霊の方に感情移入していることに気づいた。
ギシギシと、木の軋む音が聞こえてきた。階段を上がっている音だろう。四人も一斉に上がって、階段が崩れたりしないか心配になった。
二階の窓を見つめていると、中でフラッシュが点滅するのが見えた。写真を撮ったのだろう。窓から慶太が顔を出し、聡子の方をちらっと見て、すぐに目を逸らした。
「なんだよ、何にもないじゃんか」
と声が聞こえてくる。他の子たちも窓から顔を出し、小さな窓は大混雑になった。みんなが見下ろしてくるので、聡子は慌てて顔を伏せて、絵に没頭している振りをした。
聡子が下を向いているうちに、男子たちの声は遠ざかっていった。また階段を降りる音。だがその後、いくら待っても四人が出てくる気配はなかった。更に奥の方、平屋の日本家屋の方へ向かったらしい。
聡子は緊張した。あの障子を越えて、真っ暗闇の中へ向かったのか。また手を止めて、雨戸の隙間に目を凝らした。
今度は、長いこと物音は聞こえてこなかった。何かが動く気配もない。あの平屋が、中にいる人の気配を感じないほど広い、なんてことがあるだろうか。四人は、空き家の中に吸い込まれてすっと消えてしまったように思えた。
もし本当に、このままだれも出てこなかったらどうしよう。聡子は焦りを感じ始めた。もし、四人がこれっきり消えてしまって、行方不明ということになってしまったら。何があったのかと人に聞かれたら、何と答えたらいいのだろう。
だが、やがて物音が聞こえてきた。床板の軋む音、複数の足が床を踏む押し殺した足音。
「あいたっ! 足ぶつけた!」
「しっ!」
「おーい、どこ行った? 見えないよ」
「静かにしろってば!」
四人の声も聞こえてきた。閉ざされた空間で反響するせいか、彼らが家の中のどの辺りにいるのか、聡子には掴めなかった。
闇の中でカメラのフラッシュが数回、光った。
「おい、なんか聞こえなかった?」
声が途切れた。闇の中で、耳を澄ましている気配がする。聡子も耳を澄まし、無意識に胸のお守りを握った。
セミの声がうるさくて、家の中の声はよく聞こえない。聡子はスケッチブックを置いて立ち上がり、ドキドキしながら雨戸の方へと近づいた。
「聞こえた!」
という叫びが家の中から届いた。聡子には何も聞こえなかったが。
「本当か?」
「おい、電灯……」
「どっちだ? こっちか?」
「うわあああっ!」
大声に、聡子は飛び上がった。同時に、雨戸の向こうで何かが裂けるメリメリという音が響いた。
「タクヤが落ちた!」
何事だ。聡子は雨戸の前でおろおろした。家の中からはドタバタと大騒ぎの音が響く。もはや声をひそめることなんて忘れてしまって、みんな大声で怒鳴りあっている。
「床が抜けた!」
「そっちもヤバいぞ!」
「うわあここも腐ってるって!」
大騒ぎだ。
違う方向から、声が聞こえた。空き家の外、路地の方向だ。
「おい、そこに誰かいるのか? 誰か中にいるだろう!」
誰か、大人の声だった。見つかったんだ。ヤバい。聡子は慌てて楠の根元に駆け戻り、散らばった画材をかき集めた。
空き家の中を駆け回る足音がドタバタと響いた。何かを蹴倒す派手な音が響き、その音に反応して更にボリュームアップした悲鳴が響いた。
路地の方から、複数の大人の話し声が聞こえる。人が集まりつつあるようだ。
空き家を見て、路地の方を見て、少しの間聡子は迷った。迷っているうちに、四人の男子たちがどっと洋館の入り口から飛び出してきた。木戸を蹴っ飛ばし、階段から転がり落ちそうになりながら。四人とも埃を被り、薄汚れているけれど、見たところ怪我はしていないようだ。それを見届けて、聡子は走った。
身につけた素早さで音もなく茂みを抜け、塀の穴を抜けた。アパートの裏を屈んで走り抜け、左右を伺いながら慎重に通りに出る。戻って、路地をそっと覗き込むと、ちょうど空き家の門の前あたりに人が集まっているのが見えた。
怖そうなおじさんが、木の塀の隙間から中に向けて呼びかけている。
「おい、おまえら、どっから入った!」
どうやら慶太たちが見つかったようだ。
注意を引かないようにそろそろと首を引っ込め、聡子は踵を返して、路地と反対の方向に走った。大きく遠回りをして、聡子は家に帰った。
その夜の聡子は気が気ではなかった……電話が鳴る度にびくびくし、今にもインターフォンが鳴って誰かが聡子の罪を告発に来そうで、ずっとそわそわ落ち着かなかった。
その翌日、聡子はいつもの荷物を持って、ひどく緊張しながら空き家へ向かった。路地を通る道は選ばず、昨日逃げ出す時に辿った遠回りの道、寺に沿った道を進んでいった。空き家が近づくほどに、聡子の胸の鼓動はどんどん高まっていった。
アパートの角に立って、路地の様子を伺った。今はだれもいない。空き家に面した木の塀も、崩れかけた門も、いつもと変わらないように見えた。聡子は戻って、アパートの裏に入ろうとした。
「おい」
声がかかった。慶太の声だ。見上げると、アパートの二階の渡り廊下に慶太がいて、聡子を見下ろしていた。
「よお」
と慶太は言った。
聡子は見上げたが、なんて言っていいかわからなかった。昨日のことで怒りをぶちまけたい気持ちが半分……不安な気持ちを分かち合う相手が現れてほっとした気持ちが半分。
でもやっぱりなんて言っていいかわからないから、聡子は黙って前へ進もうとした。
「入れないよ」
と慶太が言った。
「え?」
「入れないよ。穴は昨日、塞がれちゃった」
聡子が呆然としている間に、慶太は外階段を駆け下りてきた。
「あのさあ」
と慶太は言って、目を合わせずに「昨日はごめんな」と言った。
「あの後、どうなったの?」
聡子は聞いた。
「近所のおっさんたちにとっ捕まった。どこから入ったか白状させられて、穴が見つかった。あっという間に釘打って、板を打ち付けて塞いじゃった。残念だけど、もう入れないよ」
「……そうなんだ」
聡子はアパートの裏の狭い通路を眺めた。どこかの部屋から高校野球の実況が流れている。通路の奥には、空き家の板塀とその向こうにそびえる楠が見えている。でも、とても遠く見えた。
「悪かったな、本当に」
と慶太は繰り返した。
「あんなことになるなんて、思いもしなかったんだ」
「空き家の中に入って、何か見た?」
と聡子は聞いた。
慶太は首を横に振った。
「何も見なかったよ。少なくとも俺は」
「そう」
「たぶん……な。なんだかやたらと真っ暗で、ずいぶん広いような気がしたけど、見えないからそう感じただけだと思う」
「誰かが落っこちたっていうのは?」
「タクヤが床を踏み抜いたんだ。腐ってたんだと思う」
「怪我はしなかったの?」
「ズボンが破けて、擦りむいた程度だよ」
「そう。よかったね」
聡子が淡々としているので、慶太はかえって気まずい様子になった。もう一度、「ほんとごめん」と繰り返した。
「もういいよ」
と聡子は言った。
「でも、絵、途中だったろう? 続きはどうするんだ?」
「どうって。入れないんじゃどうしようもないじゃない」
慶太は言葉に詰まった。二人とも何も言うことを思いつかず、やがて聡子は「帰る」と言った。
「ああ。じゃあな」
画材を抱えて、律子は元来た道を帰っていった。慶太はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
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