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10
空き家に行けなくなって、何日かが過ぎた。
聡子は自分の部屋で描きかけの絵の続きをやってみた。机に向かい、絵の具を並べて、思い浮かべたイメージを紙の上に再現していく。
いつもなら、このやり方で問題なく、絵の続きを描くことができていた。出かけた先で簡単に写生して、帰ってから仕上げるということもよくあった。だが今回に限っては、どうしてもうまくいかないようだった。
空き家の印象は、聡子の中に強く残っている。部屋の中にいても、意識を集中すればありありと思い浮かべることができた。庭の湿っぽい暑さ、楠の影、セミの声。薄汚れ崩れかけた建物の存在感。四角形だった柱の枠が、台形や平行四辺形に歪んでしまっている有様。すべてが薄墨を被ったような褪せた色彩。しっかりとしたイメージを持って、聡子は絵の具を塗っていった。
それなのに、筆が止まる。塗った色がどうにも違う感じがする。どこが違うのかわからないのに、そのまま描き進めることができなくなってしまった。
やがて聡子は気づいた。ここには、あの子がいないんだ。
空き家では、聡子自身気づかないうちに、あの子が画面に紛れ込んでいた。ここでは、それが起こらない。そしてどうやら、あの子がいなければそれは本物の空き家とは言えないようだ。
諦めて、聡子は絵筆を放り出した。
お母さんの言う通りに、聡子は絵を描くのをやめた。かと言って何か新しいことを始める気にもなれず、目標を失って張り合いのない日々が続いた。
朝も出かける準備をしてそわそわすることがなくなったので、妙に余裕ができてしまった。聡子は台所に立って、朝ごはんの用意をするお母さんの手伝いをしさえした。
「珍しいねえ」
とお母さんは言った。
「これからもっと早く起きて、お父さんの朝ごはんの用意もしてくれたらどう?」
「うーん。無理だと思うよ」
と聡子は言った。
「無理じゃないよ。あんたはね、一度本気で変わろうとしてみるといいんじゃないかと思うよ」
「変わる?」
お母さんが急に何を言い出したのか、よくわからなくて聡子は戸惑った。
「私別に、変わりたいなんて思ってないもん」
「だからだよ。あんた、自分は今のままでいいと思ってるでしょう?」
「今のままじゃ駄目だって言いたいの?」
「そういうこと言ってるんじゃなくてね。自分は本当に今のままでいいのか、本当はどんな自分になりたいのか、真剣に考えてみてもいいんじゃないの、ってこと」
お母さんが珍しく人生訓みたいなことを言うので、聡子はびっくりした。
「私は……別に今のままでいいよ。変わりたくなんかないよ」
「そう。それならそれで、別にいいけどね」
お母さんはあっさりそう言って、自分の作業に戻った。聡子はペースを崩されて、ぼんやりしてしまった。
「目玉焼き、焦げてるよ」
言われて、慌てて火を消した。
お母さんはそれきりその話には触れず、聡子の宿題の話や、絵の話ばかりして、いつものように忙しそうにパートに出かけていった。
朝ごはんが終わり、お母さんが出かけてしまうと、聡子は居間の隣の和室に移動して、座卓の上に宿題を広げた。おばあちゃんが寝室に使っている、仏壇のある部屋だ。おばあちゃんは何かと忙しく立ち働いていて、部屋にいないことが多かった。
宿題にも、集中できなかった。何分か経つと、じきに聡子の気は散って、ぼんやりと宙を眺めたり、考え事に沈んだりしてしまうのだった。
座卓の天板にぺたんと頬をつけ、聡子は部屋を眺めた。おじいちゃんの写真が見下ろしている。まっすぐ聡子を見ているようだ。聡子の知らないおじいちゃん。聡子が生まれる前に、死んでしまったという話だ。押入れの襖を見ていると、いつか見た夢が思い出された。空き家の子供になっている夢。空き家の押入れに逃げ込む夢だ。
音のない部屋でぼうっとしていると、やがて記憶の中から呼ぶ声が聞こえてきた。例の声。何度か聞いた、あの声だ。
いーれーてー……
あーそーぼー……
「ごめんね。遊べなくなっちゃったよ」と聡子は呟いた。
どうして?
「だって、遊びに行けなくなっちゃったんだもん。入り口が閉められちゃったの」
きてよ。おいで。
「だから、行けないんだよ」
聡子は座卓に伏していた上体を起こした。きょろきょろと周りを見回す。当たり前に誰もいない部屋。隣の居間にも、その向こうの台所にも誰もいない。
聡子はランドセルから図書室で借りた本を出し、柱にもたれて読み始めた。魔法学校の五年生の少女についての物語。一学期から夢中になっているシリーズの一冊だ。
好きな本を読んでいれば、他のことを忘れることができる。物語の舞台と登場人物がすべてになって、現実の心配事やなんかは心から締め出してしまう。いつもなら、そうだ。だけども今は、それでもやっぱり駄目だった。
物語の筋を追っていたはずが、気がつくと空き家と、二十年前のその暮らしについて、考えてしまっているのだった。路地に面した門の格子戸をくぐって、少女が学校へ出かけていくところを思い描く。帰ってくるときは、憂鬱だったろうなあと思いが繋がる。お父さんが、怖かったからだ。
あの子が小さい頃は、お父さんも怖くはなかっただろう……と聡子は思った。お父さんもお母さんも優しく、家は緑の木漏れ日に包まれていた。それが、いつの間にか変わってしまった。楠の木が枝を伸ばして肥大化していくように、手入れのされなくなった庭が荒れていくように、変化は長い時間をかけて着実に進み、そして気づいた頃にはもう元には戻れなくなっている。
そして戻れなくなった時、あの子の周りには誰もいなかった。お父さんはお話に出てくる鬼になってしまい、お母さんはお父さんの味方だった。家は奥まった路地にあり、楠の木に蓋をされて、だれの目にも触れなかった。
いや、多くの人が気づいてはいたんだ。噂という形で。でも証拠がないから、証拠がない非難は陰口だから、誰も何もしてくれなかった。
そんな暗い影の中で、あの子は一人きり。誰もあの子を助けてくれなかった。
不意に聡子は、自分が見て見ぬ振りの一員になっていることに気づいた。あの子の境遇に気づいている。呼びかける声も聞いている。でも助けには行こうとしない。面倒だし、所詮は他人ごとだから。
違う違う、と聡子は自分に突っ込んだ。助けに行かない訳じゃない。助けることができないんだ。だってあの子は、もう生きてはいない。幽霊なんだから。
でも……と聡子はまた考える。幽霊であっても、してあげられることは、何かあるんじゃないだろうか。
考えてみれば、死んでから後の方がずっとひどいんだ。死んだ後、二十年もの間、あの子は真っ暗な空き家に閉じ込められてきた。天国にも行けず、生まれ変われもせず。朽ちてじめじめした、黴と枯れ葉の匂いが立ち込めた闇の中で。
歳もとらず、大きくもならず。死んだ歳で時間が止まったまま、永遠に大人にもなれないで。
空き家が壊されたら、むしろ解放されて、天国に行けるかもしれない。だが二十年放置された家だ。この先も、ずっとあのままにされる可能性は高いだろう。そうなったら、まだこれから何十年も、あの子は闇に閉じ込められて、いれて、あそぼ、って言い続けることになる。だれにも遊びに入れて貰えず、遊んで貰えないままで。
あの子の呼びかけに答えてやるべきなんじゃないか。ただ前のように会いに行くだけでも、あの子のためになるんじゃないか。そう考えると、今すぐ空き家に出かけていきたくなったけれど、でももう中に入ることはできないのだ。
どうにもならない。堂々巡りだ。そして、その間に本のページはまるで進んでいなかった。
それからまた何日か経ったけれど、聡子の状況は似たようなものだった。何をしていても、気がつくと空き家のことを考えていた。ぼんやりしていると、呼びかける声が聞こえてきた。はっとして耳を澄ますと聞こえなくなる。そんなことが繰り返された。
夜には夢を見た。夢の中で聡子は空き家の子供になっていたり、あるいは空き家の庭で絵を描いていたりした。怖い夢ばかりではなく、心安らぐ穏やかな夢もあった。普通の友達同士になって、空き家の庭で遊んだりもした。
夢から目覚めて、朝のベッドの上で夢の余韻にぼんやり浸っていると、窓の外から声が聞こえてきた。
さーとーこーちゃーん……
あーそーぼー……
ぎょっとして、聡子は窓を見た。夜の間も窓は開けたまま、網戸だけが閉めてある。微かな風が通り抜けて、カーテンを僅かに揺らしていた。
聡子はベッドから起き上がり、窓へと歩いていって下を見た。聡子の部屋はちょうど玄関の真上に当たっていて、玄関前の道が見下ろせる。あの子が聡子を呼びに来た……訳もなく、道には誰の姿もなかった。
お盆休みになった。お父さんは何日か家にいたけれど、疲れてごろごろしていたので特にどこにも行かなかった。お母さんのパートはいつも通りだったので、聡子の毎日も特に何も変わらなかった。
お盆休みが終わったら、夏休みも終わりに近づいていく。このまま、空き家に行けないまま、夏休みが終わってしまうと思うと聡子はいても立ってもいられなくなった。画材もスケッチブックも持たずに、聡子は空き家へ出かけて行った。
いつものように倉庫の方から路地に入り、ゆっくりと板塀に沿って歩きながら、聡子はどこかにもぐりこめる隙間がないか探した。小柄な聡子の体なら、無理をすれば通れる隙間があるんじゃないかと思った。小さな穴はたくさんあった……中の草ぼうぼうの様子を覗き見られる穴は。猫が抜けられそうな穴もあった。だが、聡子が通り抜けられそうな穴は一つも見つからなかった。
崩れかけた門の前に立ち、聡子は格子戸に手をかけてみた。強く押し引きしてみたが格子戸は動かず、ただガシャガシャという音を立てるだけだった。首をすくめて周りを見回し、聡子は先へ進んだ。
その先も注意深く見ながら進んだが、 何も見つけられないままにアパートに出てしまった。聡子は溜め息を吐いた。
アパートの空き家と接する面には、大きな灰色の貯水槽があった。直角に折れ、アパートに面して奥へ向かう空き家の塀は、ずっと奥の方であの抜け穴があったところに繋がっているはずだ。だが、貯水槽を囲む金網が通路を塞いでいて、ここからは穴のところまでは行けない。
聡子はアパートの敷地に入っていって、貯水槽までの間の塀も調べてみたが、やはり出入りできそうな隙間は見つけられなかった。
また大きな溜め息を吐いて、聡子はうらめしそうに塀の向こうの大楠を見上げた。
どうやら、まだ見つかっていない抜け穴はもうないようだ。まあそうだろうな……と聡子は独りごちた。そんなものがそう簡単にあったら、抜け穴を塞いだ大人たちがとっくに見つけて塞いでいるはずだ。
諦めて振り返った聡子は、アパートの二階の廊下にいた慶太と目が合った。慶太は二階の手すりにもたれて立って、じっと聡子を見つめていた。
聡子は恥ずかしくなった。まだ空き家への執着心を捨てられず、いじいじとうろつき回っているところを見られた。
顔を背けて、聡子は足早にアパートの前を通り過ぎた。聡子が立ち去るまでの間、慶太はじっと黙って見ているだけで、何の言葉もかけなかった。
何もないままお盆休みが終わり、長い夏休みも終わりが見えてきた、八月後半のある日。いつものように聡子はおばあちゃんと家にいて、いまいち頭に入らない本を読んでいた。チャイムが鳴って、おばあちゃんが「はーい」と玄関へ向かった。
しばらくすると、おばあちゃんが戻ってきた。
「聡子、お友達」
とおばあちゃんは言った。
「友達?」
「男の子よ」
「男の子?」
聡子は、家に訪ねてくるような男子に心当たりはなかった。なかったが、来るとしたら一人しか考えられないが。
玄関に行ってみると、案の定、慶太だった。
慶太は開いた格子戸の外側に立って、所在無げにきょろきょろしていた。
「なに?」
「お前、まだ空き家に入りたいか?」
と慶太が聞いた。
「え?」
「空き家に行きたいかって聞いてるんだよ。答えろよ」
「行けるの?」
聡子は顔を輝かせた。
しーっ、と慶太は指を口に当てて、
「方法があるんだよ。もし行きたいんだったら、さっさと用意してこいよ」
「待ってて!」
画材とスケッチブックを取りに、聡子は二階へ駆け上がって行った。
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