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11
慶太はむすっとした顔をして、聡子の前を歩いた。話しかけようとはしなかったから、聡子も黙ってその後ろをついていった。
今日の空はどんよりと曇っていて、黒い雲が低く垂れ込めていた。いつもの夏の明るさは消えて、住宅街は夕方みたいな薄暗がりの中にあった。そんな中を、黙ったまま歩いて行くのはなんだか妙な感じだった。陰鬱なムードで、どこかに心ならずも連行されていくような雰囲気があった。
やがて、倉庫が見えてきた。そびえ立つ楠の木も。この暗さの中では楠はほとんど影になって、まるで家々の向こうに立ち上がった不気味な巨人のように見えた。
路地の前に、慶太は立った。
慶太がなかなか喋らないので、聡子はうずうずしていた。本当に空き家に入れるのか、早く知りたい。
「入れる道が見つかったの?」
と聡子は聞いた。
「しっ!」
振り返って、慶太は怖い顔で睨んだ。
「しゃべるな。この辺の奴らが見張ってるから」
ひそひそ声で囁いて、路地に裏側を向ける家の方を示した。この前、慶太たちを見つけて叱りつけた大人たちがそこに住んでいるということなんだろう。
聡子はそっとそちらを見上げた。路地に背を向けて並ぶ家。いかにも空き家を嫌うように、揃ってそっぽを向いている。ここの家々が背を向けて、路地にブロック塀を向けていることで、路地の暗さがいや増すことになっていた。
ふと、聡子は昔のことを思った。空き家に人が住んでいて、その主人が「変人」だった頃のこと。この辺に昔から住んでいる人が、空き家を嫌うのも無理はないのかもしれないと思った。
聡子に合図して、そっと身を屈め、足音を消して慶太は進んだ。かえって怪しまれるんじゃないかと聡子は思った。こんなにいかにも身を潜めて、どろぼうみたいな態度で歩いているところを見られたら。でも、喋るなと言われたので黙って同じようにして後に続いた。
門の前を通り過ぎ、アパートの前にさしかかった。前と同じように路地の終わりに行くのかと思えば、慶太はそこで立ち止まった。電柱があって、その奥にアパートと空き家を隔てる狭い空間があって、灰色の貯水槽がでんと道を塞いでいる。慶太はその貯水槽の方へ向かって行った。
このあたりの塀は、聡子もこの間調べた。通り抜けられる穴はなかったはずだが、もしかしたら見落としていたのだろうか。
と思っていたら、慶太は貯水槽を囲む金網にとりついて、よじ登っていった。足を金網の隙間にねじ込んで、器用にするすると、あっという間に慶太はてっぺんまで登った。てっぺんまで登ると、空き家の塀と同じ高さだった。そこからどうするのかと思っていたら、空き家の塀からはみ出した木の枝に向けてにじり寄って行く。楠ほどではないが、かなり大きなナラかカシの木、ドングリの木だ。塀を乗り越えて張り出した枝を慶太は掴み、素早く枝に乗り移って、サルのようにスムーズに、塀の向こうへ降りて行った。
聡子はびっくりしてその様子を見ていた。これを登れって?
「おい。こっち」
慶太の囁き声。見ると、塀に空いた小さな隙間から、慶太の顔が覗いている。聡子は近づいた。
「登れるか?」
と慶太は囁いた。
「えっ……どうかな。わからない」
「やってみろよ。ただし、素早くな。ぐずぐずしてると、見つかるからな」
「素早くって言ったって……」
「荷物はここからよこせ」
言って、慶太の顔は後ろに退き、かわりに手がぬっと出た。聡子はスケッチブックを渡し、それから画材のバッグを肩から下ろして手渡した。スケッチブックは簡単に通ったが、画材のバッグは塀の隙間より大きく、つっかえてしまってどうしても通らない。
「……駄目だ」
慶太はバッグを返してよこした。隙間の向こうに引っ込んだかと思うと、木を登って塀の上に現れた。塀を乗り越え、金網を伝って素早いスピードで下りてくる。
「それ、貸せ」
金網から下り切らないまま、慶太は言った。
「え?」
「いいから、早く」
聡子がバッグを渡すと慶太はそれを肩にかけ、またするすると登っていった。何度も上り下りするほどに、速くなっていくようだ。
塀の向こうに着地して、ふうと息を吐く音が聞こえる。
「見ただろ? 今みたいにして登るんだ」
聡子は金網を見上げた。ところどころ錆びた、青い色が日に焼けて白に近くなった金網。空き家の板塀と共に、2メートル以上の高さがある。聡子は塀の方に戻って囁いた。
「ねえ。行ったはいいけど、戻って来れるんでしょうねえ?」
「大丈夫。木を登ればいいんだから。登れるだろう?」
どうだろう、と聡子は思った。登れるかどうかは、行ってみなければわからない。行ってから、もし登れないとわかったら、どうしたらいいんだろう。
「早くしろよ。見つかったら、このルートも駄目になる」
聡子は金網の前に戻った。見上げて、気合いを入れる。金網にしがみつき、聡子は登り出した。
最初のうちは、コツがわからずなかなかうまく登れなかった。やがて、うまい体重のかけ方や手足の置き方がわかり、聡子はすいすいと金網を登っていった。
てっぺんについて、周囲を見回す。アパートの二階の廊下と、路地の向こうの家の二階の窓が目の高さに見えた。ここでぐずぐずしているのが、いちばん危なそうだ。
聡子は金網のてっぺんにまたがって、塀の向こうから伸びている枝を掴んだ。何度か手で引っ張ってみて、乗っても折れないだろうことを確かめ、思い切って聡子は乗り移った。
女の子だが、小さい頃はよく木登りをした。緑地公園に家族で行って、お父さんとお母さんがお弁当を食べている間、丘の上に立っていた大きなエノキの木に登ったものだ。いざ木に取りついてしまうと、聡子はその頃のことを思い出した。枝から枝へ素早く動き、聡子はするすると木を降りてきた。ふう、と大きな息を吐く。
「うまいじゃないか」
と慶太が言った。ちょっと見直したような目つきで見ている。
手についた汚れと錆をぱんぱんと払って、聡子は周りを見た。草木に包まれた、空き家の庭だ。またここに戻ってこれた。懐かしい家に帰ってきたような感覚を、聡子は覚えていた。
乗り越えたのは、穴のあるのと同じ面の塀の、ずっと路地に近い側だった。周りを取り囲む茂みは、こっちの方がずっと濃い。ただ、降りてきた木の周りだけが、かろうじて雑草の少ない空間になっていた。木はやっぱりドングリの木で、地面には大量のドングリが層を成すほどに散らばっていた。何年にも渡ってこの場所に落ちたドングリは多くが発芽して、腰の高さほどの木の赤ちゃんがあちこちで育っていた。
薮の密度が濃く、更に曇っている天気のせいもあって、庭のそのあたりはとても暗かった。夜鳴くような虫たち、コオロギやツユムシのような虫たちが、茂みの中でリーリー鳴いていた。慶太は合図して、聡子に移動を促した。
「こっちだ」
歩くと足下でドングリが割れ、パキッ、パキッと大きな音がした。笹の薮が深く、高く茂っていて、その隙間を抜けて行くのは穴からの時よりも大変だった。トゲのある枝や、ふわふわした大きな綿毛のようなものが、聡子の服や髪に絡み付いた。ひっつき虫も大量にくっついてきた。木々の枝と枝の間には大抵クモの巣がかかっていて、見えない糸が顔に絡んで、気味の悪い思いをした。
どうにか薮を抜けて、少し開けた場所に出た。そこが見覚えのある場所で、聡子はほっとした。空き家の洋館と平屋が見えていた。大楠の幹と、地を這うたくさんの根っこも見えた。
聡子は髪に絡み付いた綿毛とクモの巣を払い落し、洋館の前に立って二階の窓を見上げた。あの子が見下ろして……はいなかったが、どことなく気配を感じる気がした。
おかえり……
と言われたような気がした。
根っこの上にバッグを置いてその上に腰掛け、聡子は絵を描き始めた。
慶太は少し離れたところで、背中を向けて立っていた。退屈そうに体を揺らして、洋館を見上げたり、平屋を眺めたり、している。もう帰るのかなと聡子は思っていたが、まだ帰る様子はなかった。
「慶太くん」
と聡子は呼びかけた。
ドキッとしたように飛び上がって、慶太はゆっくりと振り返った。
「ありがとうね。わざわざもう一度、ここに連れてきてくれて」
「いや……」
慶太はすっと目を逸らした。
「元はと言えば、平井が閉め出されたのは俺たちのせいだからな。別にありがとうってことじゃねえよ」
慶太はつっけんどんにそう言ったが、聡子は割と幸せな気分だった。
「まだ帰らないの?」
「帰るよ。でも、お前、帰りちゃんと木に登れるかわかんないだろう?」
「あっ、それで待ってくれてるの。ごめん」
聡子は立ち上がろうとした。
「先に、登れるかどうかやってみようか?」
「まだ描いてるだろう? 後で、帰る時でいいよ」
「待っててくれるの? 悪いよ」
「いいよ、別に。どうせ今日はやることないんだ」
聡子はもう一度腰を下ろした。慶太は少し離れた根っこの上に座り、足下の砂をいじり始めた。聡子はそんな様子を見届けて、それからまた絵に戻った。
「家、一人なの?」
と聡子は聞いた。
「今日は母ちゃんがいるよ。でも、母ちゃんがいる方が面倒なんだ。いろいろうるさいから。ここにいる方がいいんだ」
「宿題は終わったの?」
「なんだよ、母ちゃんかよ。余計なお世話だよ」
聡子は笑った。慶太と話している分には、絵の邪魔には感じないことに気づいた。
「なあ、お前、ここにいて怖くないの?」
と慶太が聞いた。絵の具を塗りながら、聡子は少し考えた。
「うーん……怖いよ。怖いけど、ここにいられないほどじゃない、っていうか」
「どうして? 幽霊なんていないから?」
「ううん、いるよ、幽霊。何度も声を聞いたし、姿も見たもの」
「マジかよ」
慶太は目を白黒させた。
「それなのに、怖くないの?」
「怖いって。怖いんだけど……でも怖いだけじゃなくて、かわいそうっていう気持ちも大きい」
「かわいそう?」
「うん。だって、あの子は殺されたんだよ。しかも、自分のお父さんに。それで、それからずっとこんな空き家の真っ暗な中に、誰にも助けて貰えずに閉じ込められてるの。かわいそうだと思わない?」
慶太は目を白黒させた。
「そりゃまあ……そうなのかな」
聡子は筆を走らせた。家で描いていた時とはまるで違う。すいすいと、迷いなく筆が進んだ。
「お前、大丈夫か?」
慶太が言った。聡子は顔を上げて慶太を見た。慶太は立ち上がって、聡子の方に近づいてきていた。
「え?」
「お前さ。もしかして、幽霊に取り憑かれちゃってるんじゃないか?」
ふっと、呼び声や夢のことを聡子は思い出した。
「なによ、取り憑かれてるって」
「だってさ。父ちゃんに殺された幽霊だろ? きっと、ものすごい恨みの念を持ってるんじゃないのか? その恨みの念でお前に祟るとか、呪いをかけるとかってこと、ないのか?」
「まさか。そんなことないよ」
「そうか? それなら、いいんだけど」
もうその話はしたくないと言うように、聡子が顔を背けて絵に集中したので、慶太は所在をなくして、また元の位置に戻った。
黙って筆を走らせながら、聡子は思いを巡らせた。
取り憑かれている? そうかもしれない。夜ごとの夢、呼びかける声。空き家に入れなくなってからは、ずっと頭から離れなかった。正に、あの子に呼ばれているように。
でも、だからといって、祟りとか呪いなんてことは言えないはずだ。淋しければ、来てほしいと思って呼びかけるのは当たり前のことだろう。あの子はきっと、淋しいだけだ。
あの子がそんな、「ものすごい恨みの念」を持ってるなんてことがあるだろうか?
ぽつりと、雨がスケッチブックに落ちた。塗ったばかりの絵の具が濡れて、滲んでいく。
はっとして顔を上げると、大粒の雨がぽつぽつと落ちてきていた。
「雨だ」
慶太が立ち上がった。聡子は慌ててスケッチブックを閉じ、濡れないように木のくぼみに置いた。水を木の根の間に流し、絵の具を出したままのパレットを畳んで、画材をバッグに片付けていく。そうしている間にも雨は勢いを増していった。
慶太が走ってきた。
「早く!」
「木、登れるかな?」
「無理だ。雨宿りしよう」
慶太は洋館の方を指差した。聡子はドキッとした。
どうぞ……と言うあの子の声が聞こえた気がしたが、それはさすがに気のせいに違いない。
だが、今はもう考えている暇はなかった。雨は本格的になってきて、このままではせっかく描いた絵がずぶ濡れになってしまう。遠くで、雷のごろごろという音も聞こえた。
「さあ!」
慶太が聡子の手を取って引っ張った。スケッチブックを脇の下にはさみ、バッグをぶら下げて聡子は走った。レンガの階段を駆け上がり、洋館の木戸をすり抜けて中に入る。
洋間の暗がりの中に立って振り返ると、もう雨は豪雨と呼べるほどになっていた。激しい雨が庭を洗い、あらゆるものがぼんやりと煙って見えていた。
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