パート2 夏の空き家

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12  雨を逃れて、洋館の一階の洋間へと聡子は入って行った。他の人と一緒に、空き家に入るのは初めてだ。二人の足下で、床の落ち葉がガサガサと大きな音を立てた。聡子はバッグとスケッチブックを落ち葉の積もる床に置いた。  振り返ると、雨はあっという間に激しさを増していた。庭の草木が、勢いよく降る雨に一気に洗われていく。緑の葉はツヤを増して光り、地面にはいくつもの川の流れができ始めている。  ザーッという雨の音が、家全体を包んでいた。  画材バッグからタオルを出して、聡子は濡れた髪を拭いた。顔を上げて慶太を見る。慶太は濡れた頭や体を手で払っていた。 「使う?」  と聡子は声をかけ、手に持ったタオルを投げるように掲げた。慶太は「いいよ」と言って、受け取ろうとはしなかった。  ごろごろと雷の鳴る音がした。少しずつ近づいてくる。 「雷が鳴ってるうちは、帰れないな」  と慶太が言った。 「雷は木に落ちるんだって。木登りして帰る訳にはいかないだろ」 「この家に落ちることはないのかな?」  と聡子は言った。 「落ちないだろ。雷が鳴ったら、建物に入れって言うくらいなんだから」 「どうして? 木も建物も、高いのは同じでしょ。木に雷が落ちるんなら、建物にだって落ちるんじゃないの?」 「それじゃあ、どこにも逃げるところがなくなっちゃうじゃん」 「そうだけど。でも不思議じゃない?」 「知らねえよ、そんなこと」  稲妻が光った。まるで強烈なカメラのフラッシュのように、庭の景色全体が瞬間的に真っ白になった。入り口の木戸の枠が、部屋の中に長い影を落とした。それから少しの時間を置いて、さっきより激しい雷鳴が聞こえた。 「近づいてくるね」  聡子は不安そうに言った。 「家の中にいれば大丈夫だって」  そう言いながら、慶太も不安を隠せない様子だ。  降り込む雨と雷から逃れて、二人は少しずつ奥の方へと移動していった。奥の壁で、前と同じように半分開いているドア。その向こうに覗く真っ暗な闇。聡子はちらちらと目を向けて、覗く闇を気にした。 「懐中電灯持ってるか?」  と慶太が聞いた。  聡子はポケットから懐中電灯を出し、スイッチを入れて慶太に渡した。慶太は懐中電灯をあちこちに向けた。僅かな光が暗がりを照らす。大雨の中では、空き家の奥の方はいつもにも増して暗く沈んでいた。  また稲光。今度はほとんど間髪おかずに、激しい雷鳴が響き渡った。瞬間的に大きな力が加わり、何かが裂けて爆発するような音。衝撃を受けて、空き家の建物がビリビリと震えた。空気が電気を帯びているようで、体中の毛がぞわっと逆立っていた。  二人は更に奥へと移動した。自然と、聡子と慶太は寄り添って立ち、手を繋いだ。普段だったら男子と手を繋ぐなんてあり得ないが、慶太の方も絶対に嫌がったろうが、今は二人とも何も言わずに自然に繋いだ。 「奥へ行こう」  と慶太が言った。 「えっ?」  聡子はドキッとした。慶太が聡子の手を引いて、扉の方へと引っ張って行く。 「奥の方が安全だよ。懐中電灯があるから大丈夫だ。奥へ避難しよう」  慶太は言った。聡子は迷った。ドアの奥の闇の中。あの子が確実に、あの中で待っている。だが、ここにいると開いた戸口から、雷が飛び込んでくるような気がすることも事実だった。それに、慶太が一緒なら。  繋いでいない方の手で、聡子は胸のお守りをぎゅっと握りしめた。  また雷鳴が轟いた。それに背中を押されるように、聡子はドアを通り抜けて奥の廊下へ入った。  慶太が懐中電灯をかざして持って、奥へ向けた。もう一方の手で聡子の手を握り、引っ張って進む。左の方向を照らして行き止まりの物入れを確認し、慶太は右手の方へと進んで行った。あの、障子がある方だ。  慶太が照らす光は歩く度にゆらゆら揺れて、同じ位置を照らしてはくれなかった。闇の中に、ごく僅かな部分だけが照らされて浮かび上がってはまた消えた。聡子は目を凝らして、前方の闇を見た。あちこち破れた障子が、ちらちらと光の中に浮かぶ。前に見た時と同じように、僅かだけ開いていた。隙間から覗く闇に、今はあの子の影は見えない。  あの子はどこにいるんだろう、と聡子は思った。聡子と慶太が入ってきていることに気づいて、どこかでそっと見ているんだろうか。  歩いていくと、足下の廊下はギシギシと軋んだ音を立てた。時々雷の音が壁越しに響いて、障子が震えてカタカタと音を立てた。  やがて、障子の前に着いた。あちこちがぼろぼろに破れた障子。 「おかしいな」  と慶太が言った。 「どうしたの?」 「ほら、前に俺たちここに入っただろ。あの時、この障子は全部開けたと思ったんだよ。それなのに、ほら。途中まで閉まってる」 「あの時のだれかが閉めたんじゃないの?」 「あんなパニックになって、逃げ出していく時に?」  聡子は黙った。障子を閉めたのはあの子だろうけれど、今ここで怖い話を慶太に聞かせるべきじゃない。  慶太は懐中電灯を持ったままの手で、障子を引き開けた。障子はガタガタと引っかかりながら、それでも何とか開いた。懐中電灯の光があさっての方向を向いて、天井や壁にちらちらと光が踊った。障子の向こうはまったくの闇で、真っ黒に塗り込めたように何も見えなかった。  慶太に手を引かれて、聡子は障子の向こうに進んだ。畳を踏む、柔らかな感触を足に感じた。  懐中電灯が、足下を照らした。畳が見える。畳は妙に白っぽく、ぶよぶよしていて、光が当たらない闇に暮らす生き物の肌を聡子は連想した。  慶太が懐中電灯をあちこちに向けたが、光は周辺の僅かな範囲にしか届かなかった。部屋を仕切る襖や、木の柱、別の廊下に通じる戸口などが見えたけれど、全体としてここがどういう場所なのかは、よくわからなかった。 「前の時は、ここからあっちの方へ進んだんだ」  と慶太が言って、別の廊下の方に光を向けた。 「それでいくつかの部屋に入ったと思うんだけど、どこかの時点で、方向が全然わからなくなっちゃった。どっちが出口かわからなくなって、みんな慌て出して。最初は四人で固まってたんだけど、バラバラに行動し出したら、タクヤが襖を蹴倒してさ。それでパニックになったんだ」 「よく出て来られたね」 「そうだな。まあ、暗いから不安になっただけで、本当はそんなに広い建物でもないだろうし、適当に進んでも出て来られたんだろうけどな」  閉ざされた空間で反響するのか、慶太の声も聡子の声もなんだか奇妙な具合に聞こえた。  懐中電灯の光の中には、無数の埃が舞っていた。鼻のむずむずする埃っぽさがあった。積もり積もった埃の匂いか、あるいは黴か、なんとなく嫌な匂いが漂っていた。ただ、古くなった空気の匂いかもしれない。それが雨の匂いと混じり合って、あまり嗅いだことのない異様な臭気になっていた。  手をしっかりと繋いだまま、二人はゆっくりと奥へ進んだ。慶太が懐中電灯で上の方を照らすと、奇妙な木目で覆い尽くされた天井が見えた。襖の上の部分には、凝った図柄の欄間があった。松の木と、鷺のような鳥の図だ。頭上からは屋根を叩く雨の音が、ずっと絶えずに聞こえていた。雨の音が家全体をすっぽりと包み、当たり前の世界から切り離してしまったような、そんな気がした。  その部屋を半ば進んだところで、突然大きな音が響き渡り、聡子と慶太は飛び上がった。まるで、どこか見えない近くで大きな風船が破裂したような音だ。聡子と慶太は自然に身を寄せ合い、幼い兄妹のようにぴったりと体をくっつけ合った。 「……なに、今の?」  聡子はおずおずと言った。 「雷だろう?」  と言う慶太も、息を張りつめていたような声だ。 「でも、何かが家の中で破裂したみたいな音だったよ」 「近くに落ちたのかもしれないな。反響して、家の中みたいに聞こえたんだよ」 「猫かもしれないよ」 「猫?」 「前に家から出てきたのを見たんだ」 「猫があんなでかい音出すか?」 「わからないけど」  やがて二人とも我に返ってきて、恥ずかしさを思い出して少し離れた。それでも、まだ手は繋いだまま離す気にはなれなかった。  聡子は、家の中のどこかで誰かが笑っている声を聞いた。あの子だ。  あの子が、聡子と慶太がびっくりする様子を見て、笑っている。  慶太を見たが、彼は笑い声に気づいてはいないようだった。更に先へと進もうとして、聡子の手を引いていく。  空いている方の手で、聡子は胸のお守りを探り、ぎゅっと握りしめた。 「どこまで奥に行くの? もうこの辺まででいいんじゃない?」  と聡子は言った。 「もう少し進むと、ここよりもうちょっと明るくなるんだ」  と慶太が言った。 「たぶん、雨戸に開いてた隙間からの光だと思うけど。そこまで行こう。その方が安心するよ」  開いている戸口を通り抜けて、二人は廊下に入った。まっすぐ続く廊下の左右に、閉じた襖が続いている。ここも、歩いていくとギシギシと激しく木の軋む音がした。腐っている箇所を踏んでしまわないように、注意してゆっくりと歩いた。 「わっ!」  と慶太が言って、繋いでいた手が離れた。懐中電灯も向こうを向いてしまい、聡子は闇の中に放り出された。思わず、上ずった大声を出してしまう。 「どうしたの? どこにいるの?」  慶太が懐中電灯を聡子に向けて、ようやく聡子は落ち着いた。 「ごめん」  と慶太は言った。 「ここに水溜まりがあるんだ。いきなり踏み込んじゃって、びっくりした。気をつけて」  慶太が足下を照らすと、確かに廊下の一部に大きな水溜まりができていた。懐中電灯を少しずつ上げていくと、襖を垂れて流れる水が、天井から染み出しているのがわかった。 「雨漏りだね」 「まあ、これだけボロいんだからな。雨漏りもあるだろうな」  また二人は自然に手を繋いだ。水溜まりをまたいで廊下を進んでいくと、やがて分岐点に出た。左右に別れる廊下と、まっすぐに向かうやや狭い廊下は一段上がって続いている。  慶太は段を上がって、狭い廊下に入った。 「本当にこっちで合ってるの?」  と聡子は不安になって聞いた。 「大丈夫だよ」  と慶太はすぐに言ったが、あまり自信に溢れた声ではなかった。  狭い廊下はすぐに左に折れて、襖で仕切られたいくつかの異なる部屋に通じていた。  そのうちの一つ、真ん中の部屋に慶太は入った。 「ねえ、もしかして迷ってない?」  と聡子は囁いた。 「迷ってないってば。大丈夫だよ」  部屋の半ばに立ち、慶太は懐中電灯でぐるりを照らしていった。光は押入れや床の間を浮かび上がらせた。  押入れを見た聡子は、いつかの夢を思い出した。 「全然明るくなってこないよ」 「わかってるよ。ちょっと待てって。どっちだったか、思い出すから」 「ってことはやっぱり、迷ってるんじゃないの?」  慶太は答えなかった。聡子の手を離し、その部屋のいくつかの出口を順に見て回っていった。 「ねえ、もう戻ろうよ」  と聡子は言った。 「そうだな、戻ろうか……」  その時に、声が聞こえた。かなり近く。襖を隔てた、隣の部屋くらいの距離で。  いーれーてー……  あーそーぼー……  慶太がピタッと動きを止めたので、今度は慶太にも聞こえたことがわかった。 「今、何か言ったのお前か?」 「そんな訳ないでしょ、早くこっちに戻ってきてよ」 「あ、そうだな……」  慶太が懐中電灯をぐるりに向けた。開いている襖の向こうを光が通ったその一瞬、そこに少女が立っているのが見えた。  手をだらんと両脇に垂らし、闇の中に無言で立つ少女。白い顔が、こっちを見ていた。  聡子は慶太にしがみつき、その勢いに慶太は「うわっ」と声をあげた。よろけた慶太は懐中電灯を放り投げてしまって、光がぐるぐる回りながら向こうの方へとすっ飛んでいく。畳の上に落ちた懐中電灯は床だけを照らし、聡子の周りは闇に包まれた。 「なんだよ?」 「今の、見た?」 「今の何だって? それより懐中電灯が……」  闇の中から、慶太の声だけが聞こえている。 「何にも見えないよ! 早く明かりを!」  聡子は両手を伸ばして、周囲の様子を探った。完全な闇の中、手がかりになるのは落ちた懐中電灯が照らす畳の一部だけだ。両手を前に出して、手探りしながらゆっくりと近づく。  何かが、聡子の前を横切った。それが通り抜ける風の動きを聡子は感じた。そして、楽しそうな笑い声。 「今の、お前だよな……」  慶太の声が震えている。 「いいから、早く懐中電灯を!」  何かが手を伸ばして、懐中電灯を拾い上げた。一瞬、聡子は怖気を感じた……あの子に懐中電灯を取られたら、もうここから出られない。  光がこちらに向けられた。懐中電灯を手にした慶太の姿が再び闇に浮かんで、聡子はほっとした。慶太が差し伸べた手を、聡子は掴んだ。  慶太は光を、さっきの襖の向こうに向けた。少女の姿は今はもうない。ただ、同じような畳の部屋がそっちにも続いているだけだ。 「さっき、何かいたのか?」  慶太が聞いて、聡子は頷いた。 「ここはあの子の場所だから」 「あの子? 幽霊のことか?」 「そうよ。この家で殺された女の子の幽霊。ねえ、もう戻ろう。早くここから出よう」 「そうだな。戻ろう」  慶太と聡子はまた手を繋いで、やって来た廊下へと戻っていった。やって来た廊下? 本当に? そこが本当に来た道なのか、聡子にはまるで確信が持てなかった。もう、方向感覚は完全に失われていた。慶太は何も言わずに進んでいくが、彼にしても確信が持てているとは、聡子には思えなかった。  ゆっくりと、足下に気をつけながら進んでいく二人の周りを、声が近寄ったり離れたりした。  いーれーてー……  あーそーぼー…… 「すぐに出てくから。私たちに構わないで」  闇に向かって、聡子は言った。闇からは、くすくす笑う声が返ってきた。  いーれーて。あーそーぼ。  おにごっこしよう。  わたしがおにね。 「遊ばないったら。私たちはただ、ここから出たいだけ」 「おい、幽霊と話すなよ」  と慶太が言った。  長い廊下を、二人は歩いた。同じような襖の部屋が、廊下の左右に連なっていた。 「ねえ、この道、違うんじゃない?」  と聡子は言った。 「水溜まりにも出ないし。違う廊下じゃない?」 「そうだな。間違えたかな。きっとさっきの分かれ道だ。引き返そう」  振り返って、また同じ廊下を戻っていく。走り出したい気持ちをなんとか抑えて、足下を確かめながらゆっくりと歩く。分岐点に来るといくつかの道を順に光で照らしてみるが、どの方向も同じようにしか見えなかった。 「おかしいって!」  と慶太が言った。 「この家、こんなに広い訳がない。こんなに長いこと歩いても出られないなんて変だよ」 「同じところを、ぐるぐる回っちゃってるのかもしれないね」  あの子が邪魔をしてるのかも、と聡子は思った。なにしろ、ここはあの子の場所なんだから。  廊下を通り、戸口を抜けて、襖に囲まれたいくつかの部屋を通り抜けた。家具がないので、部屋はどれも同じに見えて、区別がつかなかった。全体を照らすことができたなら、それでも場所や方向を見極めることができただろう。一度にほんの僅かな範囲しか照らさない光では、一度通った場所かどうかもよくわからない。結局、当てずっぽうに歩いていくしかなかった。  やがて、二人は行き止まりの部屋に出た。入った戸口以外に出口のない、どん詰まりの部屋だ。和室だが畳が取り除かれて、ささくれた床板がむき出しになっている。踏むと、板がたわんでギイと不吉な音を立てた。  懐中電灯を向けると押入れと床の間が浮かび上がった。押入れと床の間の間に、縦長に四角く、すっぽりと空いた空間があった。なんだろうとしばらく考えた聡子は、やがてそこが仏壇の置き場だと思い当たった。今は既に取り除かれているが、かつてはここに仏壇が置かれていたのだ。  仏壇と押入れ。聡子は、夢を思い出した。お母さんに背中を押され、少女が連れていかれた奥の間を。  その時に、慶太の持った懐中電灯の光が弱くなった。 「お、おい……冗談だろ?」  慶太は慌てて、手の中の電灯を叩いたり揺すったりした。オレンジ色のか弱い光は、そのまますうっと消えてしまった。  闇が降りた。完全な闇。  聡子は悲鳴を上げた。目の前にいた慶太の姿が、完全に闇に消えた。目を瞬いても、擦っても、何も見えない完全な闇。目の前に手を持ってきても見えない。自分自身の体でさえ、どこにあるのかわからない。  慶太がカチカチと懐中電灯のスイッチを切ったり入れたりする音が響いた。 「駄目だ、つかないよ」  慶太の声は乾いてしわがれてしまっていた。 「どうしよう」  どうしようもなかった。一歩も動けない。  聡子と慶太は身を寄せ合って、闇の中で立ちすくんだ。  二人の周りを、少女の楽しそうな笑い声がぐるぐると回っていた。
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