パート2 夏の空き家

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13  いーれーて……  あーそーぼ……  くすくすくすくす。まるで楽しい遊びがようやく始まったとでもいうように、闇の中の少女は嬉しそうに笑い続けていた。笑いながら、時々遊びに誘う呼び声を上げながら、聡子と慶太の周りを走り回った。 「幽霊なんか怖くないぞ!」  と慶太が怒鳴った。 「なんだよ、もうとっくに死んでる幽霊のくせしやがって……」  ドン、と何かが勢いよくぶつかって、聡子と慶太は突き飛ばされた。繋いでいた手を離してしまい、思わず床に手をつく。見えない床は冷たくて、むき出しの木の感触はザラザラとしていた。 「慶太くん、やめて!」  と聡子は叫んだ。 「あの子を怒らせないで」  ちくしょう、と慶太の小さな声が聞こえた。闇の中、慶太の動く気配を感じるけれど、姿はまったく見えない。 「平井、どこだ?」  と慶太が言った。 「こっち!」  と聡子は言った。床に尻もちをついた状態で手探りすると、何かが手に触れた。掴んだのは、懐中電灯だ。倒れた時に慶太が落したらしい。聡子はスイッチを何度も入れ直してみたが、やはり明かりはつかない。そう言えば、つけっぱなしにして絵を描いたりしていたな……と思い出す。今そんなことを思い出してもどうにもならない。  片手に懐中電灯を持って、聡子はなんとか起き上がった。両手を伸ばして手探りする。でたらめに振り回した手がやがて慶太の腕に当たって、二人は必死で手を取り合った。よろけて、互いに背中を柱にぶつける。柱に取りすがった状態で、もうどこにも動けそうにない。 「助けて!」  と聡子は喚いた。  くすくすくすくす。笑い声が周りを行ったり来たりしている。 「お願い、助けて! なんでも言うこと聞くから、お願い!」  ほんとうに?  ほんとうに、なんでも、いうこときくの? 「本当だから。約束するから!」 「平井、駄目だ!」  と慶太が言った。 「幽霊と約束なんかしちゃ駄目だって!」  いうこときくなら、たすけてあげる。  まるで歌うような、少女の声が聞こえた。  ……をちょうだい。  このおうちをあげるから。 「何が……ほしいって?」  こうたいしよう。  ちょうだい。 「あげるから。なんでもあげるから」 「平井、駄目だって!」  慶太が、聡子の手を強く握って引っ張っている。聡子はそれに抗うように、前に進もうとしていた。  聡子の手の中で、懐中電灯が突然灯った。驚いて、思わず取り落としそうになる。なんとか握り直し、聡子は懐中電灯の光を前に向けた。  少女が立っていた。仏壇のあった壁のへこみの前に、両手をだらんと脇に垂らし、うつむき加減に立っている。うつむいているその白い顔が、笑っているのがわかった。少女は言った。  いーれーて。  あーそーぼ。 「遊ぶから。入れてあげるから」  ほんとう?  笑い声。嬉しくて嬉しくて、堪えきれない笑い声。  ほんとうに、いれてくれる?  いーれーて。いーれーて。いーれーて。いーれーて。  いれていれていれていれていれていれていれていれて 「いいよ! いいよ!」  と聡子は叫んだ。  懐中電灯の光の中で、少女が顔を上げた。真っ白な顔、死人の顔がそこにあった。まるで古くなった畳のように、その肌は白くてぶよぶよしていた。暗い色の痣のようなものが、いくつも皮膚に浮き上がっていた。死斑だ。  目は瞳孔が開いて、灰色に濁っていた。ぱっくりと大きな赤い口が開く。笑っているのだ。大声を上げて、笑っている。  嬉しくて嬉しくて、笑いが止まらなくなっている。そして、聡子に向かって飛びかかってきた。  力いっぱい突き飛ばされたような衝撃を、聡子は感じた。柱を背にしていたので、倒れはしなかった。思わず目を閉じて、目を開けると、飛びかかってきたはずの少女はいなかった。少女は消えていた。いや、消えたんじゃない。  はいった。はいった。はいった。はいった。  声は、聡子の体の中から聞こえてきた。少女は聡子の体の中にいた。  胸にかけていたはずのお守りが、一瞬で燃え尽きたようにぼろぼろになって、紐から取れてなくなっているのに聡子は気づいた。  からだを、ちょうだい。  おうちを、あげるから。 「嫌だ!」  聡子は叫んだ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだ  いやだ。いやだ。いやだ。 「はいった。はいった。はいった。はいった」 「平井、何を言ってるんだ?」  慶太の声が、聞こえた。 「おい、何をやってるんだ! おいってば!」  聡子は痙攣していた。手足をめちゃくちゃに振り回し、手に持った懐中電灯の光があっちこっちへまき散らされた。部屋のいろんなところが、壁が、天井が、床が、ぽかんと見ている慶太が、光の中に浮かんでは消えた。やがて、振り回された勢いで懐中電灯は飛んで、床に落ちた。  慶太が慌てて駆け寄って、拾い上げる。懐中電灯を聡子に向けた。  聡子は、自分自身の体をひっかくようになで回していた。顔が、変な方向に歪んでいる。目が異常な方向に向いている。口からよだれが一筋垂れた。足が痙攣して、壁を蹴った。 「平井!」  聡子の中で、空き家の子供は居場所を探し、まるでサイズの合わない服を無理やりに着るように、袖を通し、足を通して、聡子の記憶もするりと着込んで、 「はいれた!」  と私は言った。  慶太の方を見て、私は微笑んだ。聡子の顔を使って。でも上手くいかなかったようだ。慶太は怖がっていた。  聡子の体の中で、もう一度肉体を持った人間になり、空き家の子供は私になった。  慶太が懐中電灯をこちらに向けて、目をいっぱいに見開いていた。。 「お前、いったい誰だよ?」  と慶太は言った。 「わ、た、し、は」と私は言った。上手に喋れない。でも、みるみる体が馴染んでいくのがわかった。 「わたしは、さとこ」と私は言った。「あなたは、けいた。けいた? けいた。けいた」 「やめろよ!」  慶太の声が震えている。懐中電灯を持つ手もブルブルと震えていた。  あはははは!と私は笑った。感情と表現が上手く結びついていなかったが、笑うべきだろうと私は思った。  なにしろ二十年振りに、生身の肉体を手に入れることができたのだから。 「やめる? やめない。わたしはさとこ。けいた、けいた」  私は言った。喋る練習をしながら、少しずつ聡子の体に慣れながら。 「けいた。さあ、かえろう。でぐちは、こっちだよ」 「おい、ちょっと待て!」  慶太が私の手を掴んだ。 「お前誰だよ! 平井はどこに行ったんだ!」  私はその手を振りほどき、突き飛ばした。慶太はバランスを崩して、床の間へと倒れ込んだ。その様子を見て、私はまた笑った。 「さとこ、には、このおうちを、あげたから」  私は言った。  床の間に座り込んだ姿勢で、慶太は目を丸くして私を見ている。その姿がもう、面白い。私の笑いは止まらなかった。 「平井を返せ!」  慶太が、バネのように起き上がって飛びかかってきた。懐中電灯がどこかに飛んで、もみ合いになる。押し返してやろうと思うが、入ったばかりの聡子の体はまだうまく動かせない。私は床に押し倒された。  慶太の指が、私の首にかかった。首が絞まる。息が止まる。  肉体を得たから、息ができなきゃ死んでしまうんだ、と私は思った。その発見がまた面白く、殺されそうになっているというのに、首を絞められながら私は笑った。  やがて、慶太は力を緩めた。私はその手を払い除けて、激しく笑いながら咳き込みながら、体を起こした。 「わたしは、ここをでるよ」  と私は言った。 「ここにいるなら、ごじゆうに。さとこも、さびしくないだろうよ」  床に落ちていた懐中電灯を、その光を頼りに拾い上げた。空き家が体であった頃は、闇の中でも気にせず動き回ることができたけれど、今は光がなければ何も見えない。  光を向けると、慶太は床にへたり込んで、放心状態の顔をしていた。その顔を見てまた笑って、私は振り返って出口へ向かって歩き出した。  懐中電灯を掲げて、廊下から廊下へ、いくつかの部屋を通り抜け、私は足早に歩いていった。この家の構造は、すっかり頭に入っている。なにしろ、生きて十年、死んで二十年、あわせて三十年もこの家で暮らしてきたのだから。なおかつ、後の方の二十年はここから一歩も外に出ずに。  ちらっと振り返ると、後ろを慶太が追いかけてきているのがわかった。  洋館との境の障子が見えてきた。ガラリと障子を無造作に開け、扉も通り抜けて、私は洋間に入った。落ち葉を蹴り上げながら進む。置いてあった画材のバッグとスケッチブックを蹴飛ばしたが、別にどうでもいいと思った。そして、いよいよ、外の光。  雨はやんでいた。雷雲は遠くへ去った。雨上がりの庭は、大雨を浴びて一面びっしょりと濡れていた。埃や塵が一通り洗い流され、楠の梢を超えてくる木漏れ日も浴びて、庭はいつもよりずっときれいにキラキラと輝いて見えていた。  木戸をくぐり、私は空き家の外に出た。レンガの階段の上に立って、雨上がりの庭の景色を眺めた。その美しさに、私は心を奪われた。  背後でガサガサと音がして、慶太が出てきた。私は振り返り、その薄汚れコソコソとした様子を見て、むしろ微笑ましい気分になった。こんなちっぽけな子供に、私が邪魔をされることなんてないだろう。慶太の顔は涙と煤埃で真っ黒になっていた。 「おや、出てきたんだね」  と私は言った。 「聡子と、いっしょにいるのかと思ったのに」  慶太は唇を噛んで私を睨みつけた。 「お前のことをみんなに言ってやるからな。お前が平井じゃないって、お前の中身は空き家の幽霊だって、みんなに言ってやる」 「どうぞどうぞ。でも、誰も信じる人はいないと思うよ。たぶんだけど」  あはははは!と、私はまた大きな声で笑った。笑ってから、どうもこの笑い方は不自然だろうかと思い、何度か別の笑い方を試してみた。  まあいい。練習していれば、いずれ慣れるだろう。 「私は家に帰るよ。慶太くんはどうする? どうとでも、ご自由に」  私はニッコリ笑って慶太に別れを告げ、今日聡子が乗り越えて入ってきたドングリの木の方へと向かっていった。草薮には無数の水玉が光り、クモの巣にもまるでネックレスのように水滴が連なって光っていた。草むらをかき分けると水がかかってスカートが濡れたが、それさえも楽しい気分だった。  途中、私は振り返った。最後にもう一度、家を見る。私が生まれ、成長し、そして死んだ家を。あの狂った父と、それ以上に狂った母に殺された家を。それを最後に、もう二度と見るつもりはなかった。  洋館を見上げると、二階の窓から、聡子が外を覗いているのが見えた。悲しそうな、寂しそうな無表情で、無言のままじっと外を眺めている。  さようなら聡子、と私は思った。これからは、私がきちんと聡子をやってあげるからね。  もう二度と会うことはないだろうと思いながら、私は草むらをかき分けていった。  雨上がりの街を、私は駆けていった。雷雨の間、なりをひそめていたセミたちがまた一斉に鳴き始め、強い日射しが濡れた路面をさっそく乾かしていく。聡子の記憶を通して見る風景は別に目新しいものではなかったが、私にとっては新鮮な喜びに満ちていた。  家に近づくと、玄関の前で祖母が鉢植えの世話をしていた。植木ばさみを持って、いらない枝を切り落としている。 「ただいま!」  と私は祖母に声をかけた。  祖母は振り返り、私を見て、おかえりと言おうとして……口をつぐんだ。眉間に疑問符のようにしわが寄った。 「どうしたの?」  と私は何喰わぬ顔で祖母に問いかけた。 「あんた……聡子だよね?」 「当たり前じゃん。私が聡子じゃなくて誰だって言うの?」  祖母は立ち上がって、しげしげと私を眺めた。 「……なんだか、違う人みたいな感じがする」 「ちょっと、やめてよ。変なこと言わないで」 「そうだね、ごめんよ。おかえり」  私は祖母の横を通り抜けて、家に入った。祖母に対しては、気が抜けないと思いながら。  結局、私に対して違和感を口にしたのは祖母だけだった。父と母は、何かを感じたかもしれないが、口に出すことはなかった。  私のような年頃の少女は、ある日を境にがらっと変わってしまうことがある。母はそんなふうに受け止めて、むしろ私の変化を喜んでいたくらいだ。  しばらくの間、祖母は私に対して疑惑を感じているようだった。しかし、もちろん本当に告発することなどできる訳がない。  もう少し後になって、祖母は私を呼び止めて尋ねた。 「もう絵を描くのはやめちゃったの?」 「ああ」  絵のことなんて、私はすっかり忘れていた。 「やめたの。それがどうかした?」  祖母は首を傾げたが、それ以上は何も聞かなかった。  それ以降、私はほとんど祖母と親しく話すようなことはなくなったし、そうなると祖母の方も特に私に妙な目を向けることはなくなった。  ずっと後になって、祖母の意識が普通ではなくなり、思ったことをそのまま口に出すようになるまでは。それまでの間はとりあえず、家族で私を疑う者は誰もいなくなった。  慶太は、自分で言ったように私のことを大人に言いつけることはなかった。そんなことをしても誰も信じないと、自分で察したのだろう。まあ、懸命な判断だ。  だがもちろん、それ以来慶太は私に露骨な敵意の視線を向けるようになった。  二学期になり学校が始まって、私は皆に溶け込む努力をした。それまでの聡子が引っ込み思案な性格だったから、私の変化はむしろいい方に受け取られたし、それまでよりも人気者になれたくらいだった。女子だけでなく男子とも、あのしげっちょ、タクヤ、はまちーとか言う男子たちとも仲良くなった。でも、その中でも慶太だけは、私に憎々しげな視線を向け、決して私に近寄ろうとはしなかった。 「慶太、どうしたんだよ?」  と男子たちは聞いた。 「そんなに平井を嫌うことないだろう? 何かあったのか?」 「別に」  と慶太は言った。そして、私に遠くから射るような視線を向け続けた。  小学校の間、私への敵意は続いたが、それでも慶太にも何ができる訳でもなかった。私はそのうちに、慶太のことを気にすることもなくなっていった。中学に入ってクラスが別れると、私は慶太のことを思い出すこともなくなった。  実家にいる間、私は時々あの路地へ出かけていって、空き家の様子を見に行くことがあった。  空き家がきちんとそこにあること。聡子をその中に閉じ込めて、決して出て来られなくしていることを確かめるためだった。  路地に行って、塀の隙間からジャングルのような庭を覗き見る。緑に阻まれて空き家の建物は見えなかったけれど、それが変わらずにそこにあることを確かめると、安心することができた。  時々庭の奥の方から、声が聞こえてきた。  いーれーてー……  あーそーぼー…… 「入れないよ。バカじゃないの?」  と私は言った。 「入れるもんですか。あんたはそのでっかい空き家に入ってなさい。この体は、私のものだから」  私が空き家に入っていかない限り、あの闇の中に戻ったりしない限り、あの子は私に何もできないと私は知っていた。そしてもちろん、私は二度と空き家の敷地に足を踏み入れるつもりはなかった。  そんなふうにして、十五年が過ぎた。
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