パート1 空き家の子供

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6  祖母の遺体は通夜の会場である葬儀社の会舘へ運ばれていった。母に続いて父も帰宅し、私たちは父の運転する車で会舘へと移動した。運転席に父、後部座席に母と私。助手席にはお通夜と葬儀のための着替えを入れた大きな鞄が積まれていた。  年末に向かう時期、道路はひどく渋滞していた。父はイライラと体を揺すりながら、何度も大きなあくびをした。 「大丈夫?」  と母が聞いた。 「着いたらしばらく昼寝する?」 「大丈夫。今日明日はきばるさ」  父は答えた。が、また大きなあくびが出た。 「夕べに限らず、あんまり眠れてないんじゃないの?」  と母が言った。 「まあな。どうも最近、変な夢を見て……」  私はドキッとした。おずおずと、私は聞いた。 「どんな夢?」 「うーん、あんまり覚えてないんだけどな。なんだか、誰かに呼ばれるような。誰だろうな……」  まさか。私は首を振って、余計なことは考えないようにした。そうでなくても、心配事が多過ぎるのだ。  年末の渋滞の上に、ぽつぽつと雨も降ってきた。空き家の跡を見に行ったあの日を思い出すような、細かい、静かな雨だ。気温は下がっているようで、窓は白く曇ってきた。  父はエアコンを操作して、フロントガラスの水滴を払った。 「聡子も、あまり眠れていないんじゃないのか?」  またドキッとする。 「顔色が悪いし、目の周りに隈ができてるぞ。ずいぶんやつれた感じがする」 「それは…」  私は言い訳の言葉を探した。 「それはだって、仕方がないでしょ。おばあちゃんが死んじゃったんだから」 「聡子はおばあちゃん子だったからね」  と母が言った。 「確かにな。小さい頃は、何かとおばあちゃんにかばって貰ってた印象があるな」  父が言った。 「大きくなってからは、そうでもないような気もするが」 「まあ、そんなに悲しまないで。おばあちゃんも、苦しんだり、長く辛い思いをしなくて済んで、むしろ良かったのよ」  母が私を慰めたが、私にとっては見当違いだった。別に、祖母を悼んでやつれた訳じゃない。  ずっとあの子につきまとわれて、疲れ切っているだけだった。  私は頭を押さえて、目を閉じてこめかみの辺りを指で揉んだ。不眠と長い緊張感のせいで、頭がずっしりと重かった。時々響くような頭痛もやってきた。  いつまでこれが続くんだろう、と私は思った。  いつになったら、あの子は存在を終えて、この世から消えてくれるんだろう。  お通夜は、国道沿いの葬祭会舘で行われた。エレベーターを昇って、二階の会場。次々に訪れる人々に、私は両親と一緒に頭を下げて迎え続けた。  祖母の友人らしきお年寄りたちは、私を見て一様に驚いた。 「まあ、聡子ちゃん? 大きくなって」  私の側はそれが誰かほとんどわからなかったので、ただ曖昧な表情を浮かべているしかなかった。  目の下の隈が、いいように働いてくれた。皆は私のやつれた顔を見て、そんなに悲しむなんてと同情してくれた。泣き出す人も少なからずあった。  お通夜が始まる。僧侶が読経をして、皆が焼香に並ぶと私たち親族は挨拶に立った。機械的に頭を下げていると、大塚がやってきているのに気づいた。 「気を落さずに。疲れすぎないようにな」  と大塚は言った。 「どなた?」  と隣りで母が聞いた。 「会社の人」  と私は簡潔に答えた。  お通夜が終わり、別室で食事ということになった。同じ会舘の別の階へ、ぞろぞろと移動する。お寿司の桶が並び、瓶ビールが振る舞われた。母に促され、私も瓶を持って動き回らなければならなかった。  自分自身、ぶり返す頭痛に耐えながらも、私は横目で父の様子をうかがっていた。父も具合が悪そうだった。いかにも疲れたふうで、笑顔にも力が入っていない。あの子が、父にまでちょっかいを出しているのだろうか……と私は思い、底知れない不安を覚えた。 「聡子、どなたか見えてるわよ」  と母が言った。 「あんたの友だちじゃない?」  遅くに弔問に訪れる客に気づくことができるよう、食事の会場にはモニターがあって、別のフロアにある通夜会場を映していた。見上げると、黒いスーツのがっしりした男が一人、誰もいない会場にやってきている。  しばらく考えて、慶太だ、と私は思い当たった。  少し気の重い気分を感じながら、私はエレベーターに乗って会場へ向かった。  エレベーターが着いて、椅子だけがずらりと並ぶ無人の会場に出る。焼香をしていた慶太が振り返った。 「ああ……どうも」  と慶太。私も「どうも」と言った。  よそよそしく、お互いに頭を下げて挨拶をする。この度はまことに……。ありがとうございます……。 「来てくれるとは、思わなかった」  私は言った。 「まあな。近所のことだからな」  慶太は言った。 「顔見知りだっけ? うちの祖母と」 「……いや。少しお前と話しておきたいことも、あってな」 「そうなの?」  慶太は常に私から目を逸らし気味にしていたが、あらためて私の顔を見ると、言った。 「ずいぶんやつれたな」 「今日はみんなに言われてる。おばあちゃんが死んで落ち込んでるからだって、みんな納得してくれるけど」 「本当はそうじゃないんだろう?」 「うん。あれからずっと、あの子につきまとわれてる。昼間もずっと近くにいるし、夜も眠れない。まあ、慶太くんは私の自業自得だって言うんだろうけどね」  慶太は目を逸らした。  祭壇の方へ歩いて行って、祖母の写真を見上げた。しばらくそれを見ていたが、違うことを考えているようだ。やがて振り向いて、言った。 「あれから、ずっと思ってたんだ。お前を責めるのは、お門違いなのかもしれないって」 「……どういうこと?」 「あの日……五年生のあの日、大雨で雷が鳴って、空き家の中に逃げ込んだあの日以来、俺はずっと考えていたんだ。あの時、あの真っ暗な場所で、平井に本当は何が起こったのか」 「そう。それはどうも。それで?」  慶太は私をまっすぐに見た。強い視線で、今度は私の方が目を逸らしてしまった。 「本当は、幽霊なんかいなかったんじゃないか? あの日、お前の身には、実はなんにも起こっていなかったんじゃないか?」  私はびっくりした。それから、思わず笑いがこみ上げた。 「今さら何を言ってるの? あの日、私と一緒にあの場所にいたじゃない。それに、幽霊がいないなら今の私に起こっていることはなに?」 「あの日の記憶があるから、俺たちは空き家の幽霊に結びつけてしまう。でも、世間一般の奴なら、そんなふうには考えないだろうよ。精神科へ行けって、言うだろうな」 「私が狂ってるって言いたいの?」 「そうだな。ある意味、俺も狂ってたんだろうな。あの日、あの空き家での出来事以来」  私は溜め息を吐いた。疲れて、空いている椅子に座り込む。 「私の知り合いのある人も、同じことを言ったわ。私の気のせいだって。怖がらず、無視すれば、あの子は私になんにもできないだろうって」 「ほらな。普通は、そんなふうに考えるんだよ。幽霊がいること前提で考えてしまう方が、異常なんだ」 「じゃあ、あの日の記憶はどうなるの? ぜんぶ偽の記憶だとでも言いたいの?」 「偽っていうかな。なんていうか、俺たちは暗示にかかってしまったんだ。だってほら、舞台装置は完璧に整っていた。大雨が降って、雷まで鳴って。凄い迫力の中で、俺たちは空き家のいちばん暗いところへ入っていった。道に迷って出口もわからず、懐中電灯まで消えてしまって。異常な体験をしても、無理のない精神状態だったと思わないか?」  私は何も言わなかった。ただ、黙って熱弁を奮う慶太を見ていた。 「強い暗示が、お前を捉えた。たぶん、あの日だけのことじゃなかったんだろうな。あの夏、あそこで絵を描くことを通して、少しずつ平井は暗示にかかっていったんだと思う。それで……あんなことになったと、思い込んでしまったんだ」 「なるほどね」  私は反論しなかった。慶太がそう思うなら、それでいいのだろうと思った。そう思うことで、彼は私を責めないと言ってくれているのだから、わざわざ否定することはないのだ。  私自身は、まったく彼の話を信じてはいなかったけれど。  なぜなら、私は知っているから。自分自身の体験として、どうしても否定できない自分自身の記憶として。 「じゃあ、帰るわ」  と、いきなり慶太が言った。 「あ、そう?」 「うん。とりあえずそれだけ言っておこうと思ったんだ。この間も、ひどい態度をとったからな。疲れてる時に、悪かったな」 「ううん。ありがとう」  慶太は軽く手を振って、歩いていった。慶太がエレベーターを待つ間、私はふと思いついたことを尋ねた。 「ねえ、どうしてあのアパートから離れなかったの? もしかして、ずっと空き家を見張っていたんじゃない?」  慶太は振り向いて、小さな溜め息を吐いた。 「まあな。俺もすっかり、暗示にかかってしまっていたからな。あの家をずっと見張っていたら……平井に会えるかもしれないと思っていたんだ」  ポーン、と音が鳴って、エレベーターの扉が開いた。 「じゃあな」 「うん。またね」  私の前で扉は閉まり、慶太は帰っていった。あのアパートの部屋へ、帰るのだろう。  その夜、親戚たちも皆帰ってしまって、私たち家族三人だけが会館に泊まった。  会場の奥にある畳敷きの宿泊室に布団を敷いて、久々に親子三人並んで横になった。私は今夜も眠れそうにないと思っていたし、もし夢を見て悲鳴を上げるようなことになったらどうしようと、密かに心配していた。  明かりを消してずいぶん経ち、誰かの寝息が聞こえ始めた頃に、  ポーン  エレベーターの音がした。  父がもぞもぞと起き上がった。その暗い影が闇の中に見える。 「私が見てこようか?」  と私は言った。 「起きてたのか。早く寝なさい。ちょっと行って、見てくるよ」  父は言って、宿泊室を出て行った。その間、私は不吉な予感を感じながら父が戻るのを待っていた。母の寝息が、すうすうと聞こえ続けていた。  やがて、父が帰ってきた。 「どうだった?」 「いや、誰もいなかったよ。会館の人じゃないかな。寝よう寝よう、明日も忙しいんだから」  言って、父は布団にもぐり込んだ。  私はもう、完全に目が冴えてしまっていた。あの子が来たんだ、と私は思い込んでいた。  またしばらく経った頃に、  ポーン  エレベーターの音が鳴った。父はがばっと跳ね起きた。やはり父もまだ眠れず、音が鳴るのを待っていたようだ。父はまた布団から起き上がった。 「また行くの? もう放っておいたら?」 「会館の人が出入りしてるのかもしれないな。そうだったら、うるさいから止めろって言ってくるよ」  今度は、父はさっきより長く戻ってこなかった。会館の事務所まで行っているのだろうと私は思った。だが、どうせ誰もエレベーターを使っていないと言われるのだろうと、私は思っていた。  やがて、父が戻ってきた。そのせわしない動きから、イライラしているのがわかる。 「どう?」 「誰もエレベーターは使っていないってさ。絶対嘘だろう。誰も使ってなくて、音が鳴る訳ないんだから」  また布団にもぐり込み、父は頭から布団を被った。それから、私はじっと耳を澄まして次に音が鳴るのをまった。  ポーン  父が反応するより先に、私が起き上がった。父が何か言おうとするのを制して、 「私が見てくるよ。寝てて」  私は言って、宿泊室を出た。  スリッパを履いて、会場へと歩いていった。誰もいない会場。線香の匂いだけが漂っている。エレベーターを見ると、扉が開き、誰も乗っていない明るい箱の中が見えていた。私が見守るうちに、エレベーターの扉は自動的に閉まった。 「いやがらせは、やめて」  私は言った。父に聞こえないよう、小さな声で。 「ここに何の用? もう来ないで。どこかへ行って」  通路の真ん中に立ち、無人の椅子の列を見つめながら、私は待った。やがて、あの子の声が聞こえてきた。  おばあちゃんを、ちょうだい。  寒気が、私の背中を這い上がった。 「嫌。あげない」  私は言った。誰もいない無人の椅子の列に向かって。ふと、振り返る。祭壇の上の祖母の写真が、私を見下ろしていた。祭壇の前に置かれた棺桶に目をやって、そこにちゃんとあるのを確かめる。そんなことをしながら私は、これじゃ本当に狂ってるみたいだと思った。  また声がした。  おばあちゃんを、ちょうだい。 「ダメだったら!」  思わず大きな声が出た。父に聞こえたかもしれない。私は耳を澄まして、向こうの宿泊室の様子を伺った。  やがて長いこと待って、気配がもう感じられないことを確かめてから、私は宿泊室へ戻った。  父は起きて待っていた。私の声については何も聞かなかったが、 「何かあったかい?」  と尋ねた。私は何もなかったと答えた。  結局、それから朝までに、エレベーターのポーンという音は何度か繰り返された。私は寝付きかけたかと思うと起こされ、父も似たような状態にあるようだった。  翌日、告別式の日。私は一日中ぼんやりしていた。父も、ずいぶん辛そうだったが、そこは喪主だから表向き眠そうな様子は見せなかった。  父の挨拶も滞り無く済んだ。出棺、車とバスに分かれて斎場への移動。火葬場でのお別れと、その後の会食。それからお骨上げ……。  一通りが終わって、私はほっとした。これでもう、「おばあちゃんがとられる」ことはないだろう。  父の運転する車で、私たちはまた斎場から葬儀会場へと向かっていた。後部座席に、遺影を持った私。助手席に、お骨を持った母。  昨日に続いて、細かく静かな雨が降り続いていた。道はやはり混んでいて、渋滞とやや流れる区間とを小刻みに繰り返していた。そのリズムは父を苛つかせるようで、ずっとイライラと指でハンドルをせわしなく叩いていた。  私は雨に濡れた窓の外を眺め、人通りの多い冬の街を眺めていた。人ごみの中にあの子の姿が見えたようで、何度もはっとすることを繰り返した。私はぼんやりと、昨夜慶太が言ったことについて考えていた。  もし、幽霊がいなかったら。  暗示。小学五年生から十五年間、私を支配し続けた暗示。そして今もまだ続いて、私と、父までも眠らせないでいる暗示。  そんなこと、あるだろうか?  だがもしそうだったら、それはもっとたちが悪いんじゃないだろうか……と私は思った。もし幽霊がいないなら、消え去ることもないだろうからだ。  幽霊なら、いずれは消える。空き家がないからだ。  空き家の子供は、空き家に捕われていることで、なんとか存在を保っていた。だから闇から出られなかったし、闇の中では消えずに居続けることができたのだ。だが、今はもう空き家はない。あの子が力を貰う元になる闇は、消えてしまった。  だから、あの子の力は失われる一方であるはずだ。  もう少し、もうしばらく持ちこたえれば、あの子は力を失って、今度こそ本当にこの世から消えてしまうだろう。  私はただ、それまで持ちこたえればいいだけだ。  そんなふうに考えると、私はいくらか楽になった。頭痛も収まってくれていて、私は少し眠れそうだと思った。  後部座席にもたれて、私は目を閉じた。その時、声が聞こえた。  おとうさんを、ちょうだい。  おかあさんを、ちょうだい。  私は目を開けた。  私は息を呑んだ。父が、運転席でこくり、こくりと頭を垂れているのが見えたからだ。父は眠っていた。  隣りを見ると母も眠っている。  私は声を上げようとした。その時に、父の向こう側、本当は誰もいられるはずのないハンドルとの間の空間から、あの子がぬうっと顔を出すのが見えた。父の肩から顔だけ突き出し、私の顔を間近に覗き込み、そしていかにも嬉しそうに笑った。  私は大声を出しながら、運転席に身を乗り出そうとしたが、その時私たちの車は大きく右に曲がって行き、センターラインを超えて対向車線に入って行った。向こうから走ってきた大型トラックが、まっすぐ突っ込んでくるのが見えた。  そのトラックの、フロントガラスで動くワイパー。私たちの車に気づいて、驚愕の表情を浮かべるドライバー。そういったものがありありと見えた。まるでスローモーションのようだったが、それはすべて一瞬の出来事だったのだ。  悲鳴を上げる暇はなかったし、父と母が目を覚ます暇もなかった。  すさまじい衝撃が私たちを襲い、私たちの車は激しく壊れながら弾き飛ばされていった。
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