パート2 夏の空き家

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パート2 夏の空き家

1  夏休みに入った最初の日、聡子は朝からうずうずしていた。朝ごはんを食べる間も、お母さんがパートに出かける準備をしている間も、ずっと落ち着かず時計ばかり見ていた。  お母さんはそんな聡子を訝しげに見つめた。 「あんた、何か悪だくみしてるでしょ」 「何のこと?」  聡子はとぼけた。 「悪だくみなんてしてないよ」  お母さんは全然信用していない様子だったが、どのみちもう出勤しなくちゃいけない時間だった。 「何するつもりかしらないけど、宿題は必ずやっときなさいよ」 「はあい」  お母さんが出かけていくと、聡子はさっそく階段を駆け上がって、自分の部屋で出かける準備に取り掛かった。画材のバッグを肩にかけ、スケッチブックを片手に持って、階段をドタドタと駆けおりる。 「おやまあ、いったい何の騒ぎだい?」  おばあちゃんが顔を出した。 「ごめんおばあちゃん」  聡子は手を合わせて拝んだ。 「留守番お願い」 「出かけるの?」 「うん」 「絵を描きに行くのかい?」 「そう」 「それならいいよ。行っといで。どんな絵が描けたか、後で見せてね」 「ありがとうおばあちゃん」  駆け抜けるように靴を履いて、聡子は玄関から外へ飛び出した。  夏休みの第一日。雲ひとつなく真っ青な空が広がる、よく晴れた日だった。陽射しは朝から強烈で、薄暗い家の中から急に飛び出すとまぶしさに目が眩み、聡子は目をパチパチと瞬いた。  玄関の前には、たくさんの鉢植えやプランターが並べられていた。みんな、おばあちゃんが世話をしている草花だ。マリーゴールドや朝顔が密集して花をつけ、古びた家を華やかに見せていた。  スケッチブックを脇に挟み、画材バッグの紐を肩にかけ直して、聡子は人通りのない住宅街の道を駆けていった。  通りに出ているのは所在のない老人ばかりだ。近所のお年寄りの何人かが、聡子に気づいておはようと声をかけた。早足に通り過ぎながら、聡子もおはようございますと答えた。  古い住宅街。聡子の家と同じような、木造の小さな家が続いている。道に張り出した庭木の梢の、小さな影があちこちにある。強い陽射しを避けて、影から影へ飛び移るようにして、聡子は夏の道を進んでいった。  角を曲がる。しばらく行って、もう一度曲がる。その先に、空き家へ向かう路地の入り口があった。  空き家の敷地になんとかして入って、空き家の絵を描くこと。それこそが聡子のこの夏休みの目標だった。  小さい頃から、聡子は絵を描くことが好きだった。  幼稚園の先生が、聡子の描いたクジラの絵をしきりに上手だと褒めてくれた。その先生はやけにその絵を気に入って、勝手にコンクールに出品してしまったほどだった。コンクールでは特に何の入賞もしなかったが、聡子はそれ以来絵を描くことが大好きになった。  暇さえあれば、ノートの隅やらチラシの裏やらに何かしら絵を描いていた。放課後も友達と遊ぶより、家で絵を描いている方が好きだった。  両親は最初、聡子が絵を描くのを嬉しそうに見ていたが、やがてだんだんいい顔をしなくなった。友達を作るより一人でいる方を好む様子に、心配になってきたようだ。 「そろそろ絵を描くのはやめにして、友達と遊びにでも行ったらどう?」  とお母さんは言った。  聡子には、よくわからなかった。何が「そろそろ」なのかもわからなかったし、絵を描くことと友達と遊ぶことはそもそも全然別の話だと思えた。  いちばん理解があったのはおばあちゃんだ。四年生の誕生日に、本格的な水彩絵の具のセットを買ってくれた。コンパクトにしまえて、持ち運びできるバッグと一体になっている。バッグは頑丈で、立てて置けば椅子にもなる優れものだった。聡子はそれが気に入って、あちこちに持ち出して外でスケッチをするようになった。  画材バッグをぶら下げ、スケッチブックを持って、聡子はいろんなところに出かけて行って絵を描いた。緑地公園の噴水。川の護岸の桜並木。団地の児童公園の、ヘンテコな石の動物たち。  いろんな場所でいろんなものを描いたが、やがて聡子は自分が好むモチーフの傾向に気づいていった。聡子は、人や動物よりも風景を描くことが好きだった。それも、ただきれいなだけの景色ではなく、古びたもの、色褪せたもの、崩れつつあるものに心惹かれるのだとわかってきた。  団地の公園の、砂が干上がって雑草が生えた砂場。ペンキが剥げて剥げチョロになった滑り台。学校裏の町工場の、全体が茶色く錆びたようなトタン屋根の建物。  そんな聡子の絵を見て、お父さんはうーんと唸った。お母さんは「どうせならもっときれいなものを描けばいいのに」と言った。おばあちゃんは「面白いね」と言った。 「だれでも描くようなきれいな景色を描いても、面白くないもんね。一見きれいじゃないものの、実はとてもきれいなところを絵にできたら、とても甲斐があるんじゃないかねえ」  なるほど、と聡子は思った。確かに、おばあちゃんの言うとおりだ。古いもの、汚れたものには、何か隠れた美しさがあった。それは表面的なものではないから、なかなか上手く取り出せない。だが聡子の絵が上達したら、きっと取り出せるはずなのだ。  そして、古いものにきれいなものが隠れていることに、多くの人は気づいていない。気づかないから、簡単に捨ててしまったり、壊してしまったりする。それは本当はとてももったいないことなのに、だれもそのもったいなさに気づかないのだ。  絵を通して、それに気づかせてあげること。それこそが私のやるべきことだ、と聡子は思った。私は気づいてしまったんだから、それを人に知らせる役目があるんだ。そんな義務感のようなものさえ、聡子は感じ始めていた。  そんな嗜好の行き着くところとして、五年生になって聡子の心を捉えたのが、空き家だ。ずっと以前から近所にあった空き家だが、ある時突然それを絵に描いてみたくてたまらなくなってしまった。路地へ出かけていって、壊れた板塀の隙間から覗き込んでみたが、生い茂る雑草の深い藪に邪魔されて、空き家の姿はほとんど見えなかった。どこか隙間から中に入れないかと探したが、板塀に開いた穴はどれも通り抜けるには狭すぎた。  見えもしない建物を描きたくて仕方がないのは我ながら不思議だったが、見えないからこそだったかもしれない。身近な場所にありながら、誰も近づかない、誰にも見られないでそこにあり続ける空き家のイメージは、聡子にとってどこか神秘的なものになっていた。  ずっと空き家に心を奪われながら、近づけないでいる一学期、休み時間にふと聡子の耳に、男子の会話が飛び込んできた。彼らは空き家の話をしていた。実は心霊スポットなんだとか、なんとか。その敷地の中に入る方法があるんだという話になって、聡子はたまらず男子たちの会話に割って入った。  いつもは滅多に男子に話しかけたりしない聡子だから、彼らはびっくりした。最初は警戒気味だったが、聡子が空き家の絵を描きたいんだということが伝わると、別に協力してやってもいいか、という空気になった。  空き家に入る方法を知っているのは、空き家に隣接して建つアパートに住んでいる慶太だった。アパートの周りを探検していて、偶然空き家に入る抜け道を見つけたのだと言う。 「別にいいけどさあ」  慶太は言った。 「あんなとこの絵が描きたいなんて、変わってんなあ」 「でも、描きたいの」  と聡子はきっぱり言った。  狭い路地へ折れる角に、まず赤錆びたシャッターの倉庫が見えた。その向こうに、空き家の庭からそびえる大きな楠の木がモクモクと緑の葉を広げ、セミの声の大合唱がそこから響いていた。  舗装のない土が剥き出しになった路地に立つと、頭上を天井のように覆う楠の梢から、セミの声がまるでシャワーのように降り注いできた。狭い路地を挟む左側は倉庫の灰色の壁と、その先に続くのは空き家を囲む黒い板塀。右側は立ち並ぶいくつかの家の裏壁に当たっていて、高いブロック塀になっている。勝手口の扉や窓もなく、ただ灰色のブロック塀が続くだけ。まるで、そこに住む人々が、露骨に路地を嫌って背を向けているような、そんな光景だった。  敷地からはみ出して茂る楠の影が、路地全体を覆っていた。晴れた真夏の朝だというのにそこだけは薄暗く、どこか冷んやりとするようにさえ感じられた。  影の中を進んでいくと、やがて瓦屋根を載せた門と格子戸が現れた。門の四角い枠は全体が歪んでいた。格子戸のガラスは割れ、瓦は落ちかかり、ちょっと力を入れて揺さぶるとたちまち門ごと崩壊してしまいそうだ。歪んだ隙間からは、ジャングルのように生い茂った草木が見えるばかりだった。  門柱には、色褪せた黄色い牛乳箱が備え付けてあった。表札は見当たらなかった。金属の新聞受けが木の柱にはめ込まれていて、まだ真新しい色合いのビラが数枚、差し込まれていた。こんなどう見ても廃墟の家に、ビラを入れていくのはどんな人だろう。  もう片方の門柱には、「犬」と書かれたシールが貼られていた。かつては犬を飼っていたのか。「犬」の字の下には、「47」という数字があった。昭和四十七年?  この家はいったいいつからここにあって、いったいいつから空き家なんだろう、と聡子は思った。そして、なぜ空き家なんだろう。誰もここで暮らさず、それでいて取り壊されることもなく、荒れ果てたままで放置されているのはなぜなんだろう。おばあちゃんに聞いたらわかるだろうか?  思いを巡らせながら、聡子は先へ進んだ。じきに板塀が奥の方へと折れ曲がっていって、空き家の敷地が終わった。ここで舗装されていない路地も終わる。路地の道幅が広くなって舗装も戻り、路地の残りは二階建てのアパートに面している。このアパートも決して新しい建物ではないが、間口は広く、まともな生活感があり、さっきまでのような黴臭い古びた空気は感じない。何よりも、頭上を覆っていた大木の影を脱けたので、夏の朝の明るい陽射しが戻っていた。  アパートの周りには植え込みがあり、つやつやとした緑の葉が茂っていた。植え込みの奥に自転車置き場があり、その向こうに二階建ての建物がそびえている。二棟の建物を渡り廊下で繋いだ独特のデザインで、二階は外廊下がぐるりに巡らされ、自転車置き場の脇から外階段が二階と一階を繋いでいた。  アパートを前にして、聡子は少し緊張した。ふう、と息を吐いて気持ちを整え、外階段を登って二階の廊下を進み、あらかじめ教えて貰っていた部屋のインターホンを押した。  インターホン越しの返答ではなく、すぐにドアがガチャリと開いて慶太が顔を出した。 「本当に来たんだ」  慶太はびっくりしたような顔で言った。 「だって、絵が描きたいんだもの」  と聡子はきっぱりと言った。  慶太は驚きと、それから感心したような表情を顔に浮かべた。 「いいよ。ついて来いよ」  ドアに鍵をかけて、慶太は階段を駆け下りていき、聡子も後に続いた。階段を下り切ったところで、かかとを踏んでいた靴をきちんと履き直し、慶太は「こっち」と言って空き家とは反対の方向に向かった。聡子は戸惑った。 「空き家に行かないの?」 「こっちから行くんだよ。黙ってついて来いよ」  アパートに沿って慶太は走り、路地の反対側の端まで行った。アパートの角のところには小振りなポプラの立木があって、ここにもセミがしっかりとまってうるさく鳴き声を上げていた。  路地は外の通りに突き当たり、T字路になっている。そこは一方通行の道で、お寺に面しており、塀の向こうには高い木々が茂って、やはりセミの大合唱が聞こえていた。いたるところセミだらけだ。  アパートに沿って道を進んでいくと、アパートの裏側に、隣り合う建物との間の極めて狭い隙間があった。 「ここから行くの?」  聡子は聞いた。 「そう。声を出したり、大きな音を立てるなよ。見つかるからな」  隙間に面する壁には、一階の部屋の窓がずらりと一列に並んでいた。慶太は頭を下げて、窓の下をすばしこく駆け抜けていく。聡子も同じようにして、窓から見られないように注意して後に続いた。いくつかの窓の下を抜ける時、テレビの音や洗濯機の動く音が聞こえてきた。  アパートに沿って最後まで走り抜けると、突き当たりには古めかしい黒い板塀があった。空き家の敷地を囲む塀の、側面奥に当たる部分だ。  慶太は塀の前にしゃがみ込んだ。聡子も近づいて、その手元を覗き込む。 「そこから入れるの?」 「しっ」  塀の足元に立てかけてあった同じ色の板を除けると、這いつくばって通れるくらいの穴が現れた。  慶太はさっと四つん這いになって、頭から穴を通り抜けていった。見る間に、慶太の運動靴がするすると塀の向こうへ消えていった。 「何やってんだよ。早く来いよ」  板塀の向こうから、慶太の囁き声が聞こえた。意を決して、聡子は両手を地面についた。持っていた画材のバッグとスケッチブックを、先に穴から押し込む。慶太の手がすっと伸びて、バッグとスケッチブックを受け取った。  猫みたいに四つん這いになって、聡子は地面の上を進んだ。乾いた砂が舞い上がって、顔にかかった。塀の穴の縁はささくれ立ってギザギザで、当たらないように更に顔を下げて、地面に近づけなくてはならなかった。濃厚な土の匂いにむせ返りながら、聡子はどうにか穴を通り抜けた。  立ち上がって、砂埃まみれのズボンを払う。聡子は空き地の敷地に入った。
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