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セミの声が、あちこちに反響しながら降り注いでいた。周囲をびっしりと植物に取り囲まれ、聡子は濃厚な草木の匂いを嗅いだ。庭というより、まるで温室の中に入ったみたいだった。
振り返ると黒い板塀があり、今抜けてきた穴がある。塀の向こうには、アパートの壁が見えている。だが前を向くと、見たことのない別世界があった。様々な草や木が、視界を埋め尽くしている。丈の高い雑草に邪魔されて見通しが効かず、奥にある建物も、庭を囲んで続いているはずの板塀もよく見えなかった。ただ、頭上に広がる楠の木の、放射状に枝を広げる枝ぶりはよく見えた。
放置されて成長し過ぎるのか、葉が異様に大きくなった草木があった。背よりも高い草が茂って、大きな穂をつけていた。まるで小さくなってコロボックルの国に入ったみたいだ、と聡子は思った。
「おい、平井」
と慶太が呼びかけた。
「え?」
「え、じゃねえよ。空き家の絵を描くんだろ?」
慶太が差し出した画材のバッグとスケッチブックを、聡子は受け取った。荷物を渡すと、慶太は草木の合間を抜けて先へと進んでいった。聡子は後を追った。
いろんな種類の植物が、ここにはあった。元からあった庭木と、後からはびこった雑草が、入り交じってジャングルと化していた。地面はシダに覆われていた。大きなソテツの木が数本あって、まるで恐竜時代の絵のようだ。アジサイの花が咲いていたが、盛りを過ぎて萎れかかっていた。ツバキやバラと思われる茂みもあった。
雑草に覆い尽くされていたが、茂みの下にはどうやら花壇が隠れているようだった。あちこち欠けて、角が丸くなったレンガの枠が、雑草の下に見え隠れしていた。だが草木はそんな枠など乗り越えて繁殖し、花壇と、そうでない地面との差はもはやなくなっていた。
トマトやキュウリと思われる、野菜の花も咲いていた。元は、家庭菜園があったのかもしれない。畑の枠も飛び越えて、好き勝手に繁殖している。藪の下を見ると、くねくねうねったつるの上に、ごろごろと大きなスイカが実っているのが見えた。聡子は驚いたが、野生化してはびこったスイカはところどころ黒く痛んでいて、美味しそうには見えなかった。
聡子が知っている植物もあれば、名前のわからない植物もあった。ラッパのような形の大きな赤い花が、つるからぶら下がって咲いていた。つる性植物の多くは、別の草や木に絡みついて、どこからどこまでがどの植物なのか、境目をわかりにくくしていた。朝顔のつるがいたるところにはびこっていて、いろんな木に絡まって伸びていた。庭の様々な場所で、丸い紫の花がぽつぽつと、星を撒いたようにして咲いていた。
枝のとげが腕にチクチク刺さる藪を抜けると、草木がいくらか疎らになった。そこは、大楠の根元の部分だった。樹齢何百年もありそうな、太い幹が壁のように立ちはだかり、足元にはその根っこがごつごつと盛り上がって広がっていた。ちょっと見ただけでも何十匹ものセミが枝にとまり、大ボリュームで鳴き続けていた。
その楠の向こうに、空き家の建物があった。
慶太が木の傍に立って見ていたが、聡子はもう気にしていなかった。木の隙間に現れた家に、彼女は心を奪われた。
それは木造の古い廃屋だった。だが、この辺りに普通にある家とは異なった、独特の佇まいがあった。
手前には洋風の二階建ての建物があった。壁は板張りで、元々は白く塗られていたのではと思われたが、すっかりペンキが剥げて埃を被り、灰色のまだらになっていた。
一階の正面は大きく開いていて、壊れかけた木戸を通して中の様子が素通しになっていた。木戸には大きなガラスがはまっていたものと思われたが、ガラスはほとんど失われ、ひしゃげた木の枠だけになっていた。中は、元は庭に面した明るい洋間だったのだろう。今は家具もなく、荒れ果てて、落ち葉やつる草が部屋の中にまで入り込んでいた。
二階には小さな窓があった。窓ガラスは割れずに残っていたが、すっかり汚れて黒く曇っているようだった。洋館の屋根は元は赤い色だったのではと思われたが、びっしりと楠からの落ち葉に覆われ、苔も生えているようで、元の色はほぼわからなくなっていた。
洋館の後ろに接する形で、平屋の日本家屋が繋がっていた。作りの違う家が合わさった、和洋折衷の構造だ。大きな瓦屋根に押しつぶされそうな平屋部分はどこかひしゃげているようで、すべての雨戸が閉ざされていた。屋根はやっぱり落ち葉に覆われ、瓦の隙間から背の高い草がひょろひょろと立ち上がっていた。
雨戸が並んでいるだけで、玄関は見当たらなかった。アパートの裏の抜け穴から入ってきたので、ここは空き家の裏庭に当たるようだ。洋館を回り込んだ向こう側が門のある路地に面した部分で、本来はそこが正面に当たるのだろう。だが、そちらへ行けば行くほど、藪は深さを増しているようだった。
見ているうちに、聡子には描きたい絵が次々と浮かんできた。いろんなアングルから、たくさんの絵が描きたい。でもとりあえずはどこから描こうか。聡子は行ったり来たりして、素敵なアングルを探り始めた。
慶太はポケットに手を突っ込んで、そんな様子を眺めていた。
「なんかここ、くせーなあ」
と慶太は言った。
「そう?」
「どっかに、死体でもあるんじゃないか?」
「やめてよ」
ぞっとして、聡子は振り返った。
「これは草の匂いよ。それに、たぶん木の実の匂い。ここでは、熟しても収穫する人がいないからね。スイカを見たでしょ?」
「ああ……そうかなあ」
そう言ったものの、どこかに野良猫の死骸くらいあるかもしれない、と聡子は思った。不用意に藪の中に踏み込まないようにしなければ。
「でもさあ、幽霊はいるはずだぜ」
そういえば、抜け穴の話を聞いた時、慶太たちはここが心霊スポットだという話をしていたのだった。
「聞きたくないよ。やめて」
「友達の山崎って奴の話だけど……」
「知らないよ。やめてってば」
聡子が嫌がれば嫌がるほど、慶太は面白がって話を始めた。
聡子は溜め息を吐いた。まったく男子ってものは、いつもこうだ。
慶太の友達の、中学生の兄貴の話だ。
庭で飼っている雑種犬ムックの首輪にリードをつけて、糞を持ち帰るための小袋を片手に持ち、午後八時過ぎ、山崎の兄の方、隆史は勝手口から外に出た。ムックは嬉しがって激しく彼を引っ張った。
犬の散歩は兄の役目、というのが彼らの家の絶対的ルールだったが、隆史はいつも面倒臭くて仕方がなかった。その夜もこっそり弟に押し付けようとして、バレて父親にどやされる……といういつものパターンを経た後だった。
雨が降ろうが雪が降ろうが、明日試験でも宿題がまだでも、朝晩の散歩は隆史の役目と決まっていた。小さい頃、犬を飼って欲しいとねだったのは隆史で、絶対に散歩に行くからという約束で飼ったのだから、それを破ることは許さない。というのが父親の言い分だった。弟が約束をしなかったのはその頃まだ赤ん坊だったからで、それだけの理由で散歩を免除されるなんて不公平だ……と隆史は主張したが、取り合ってもらえなかった。
子犬の頃はころころしてかわいかったムックは、近頃はすっかり大きくなって、まるで隆史の言うことを聞かない。はあはあ舌を出しながら、嬉しそうに走っていくが、隆史の行きたい方向にはまるで向いてくれなくて、マイペースに行きたい方向に向かっていく。ぐいぐいリードを引っ張るムックに抵抗するのも面倒で、隆史はうんざりしながら犬の後ろについていった。
気がつけば、隆史とムックは空き家のある路地に来ていた。シャッターの降りた倉庫と、その向こうに盛り上がった大木の影。月の昇った夜空をバックに、黒い雲のようにそびえていた。
倉庫の前には常夜灯があって、数匹の蛾が光に群がり、電灯にバタバタとぶつかっていた。その先の路地には明かりもなく、木の陰に覆われて月の光さえ届かない。ずっと機嫌よく走ってきたムックは、路地に入って少し進むと、あまりの暗さにたじろいだのか、歩みを止めた。
「なんだよ。おい、行くぞ!」
空き家の門の少し手前、崩れそうな板塀の前。後ろの常夜灯の光も、前方のアパートの灯りも届かない、ちょうどいちばん闇が濃いあたり。そこでムックは立ち止まってしまった。何か見えているように空き家の塀の方をじっと見つめ、引っ張っても前へ進もうとしなかった。
「なんだよ、なんで止まっちゃうんだよ?」
隆史は力いっぱいリードを引いたが、ムックは踏ん張って動かない。
「早く帰ってテレビ見たいんだよ。さ、行くぞ!」
それでもムックが動かないので、隆史はうんざりした。引っ張るのを止めて、ムックが見つめている塀の隙間に目を向けた。
古い家ばかりのこのあたりだが、中でも空き家は特に古い。板塀は黒く煤けてささくれ立ち、長年の雨水を吸って、木目と違う奇妙な黒い染みの模様が、板の表面に現れていた。
隙間の向こうには生い茂った雑草の草むらが見えた。庭の暗がりからは、コオロギなどの鳴く虫の声がひっきりなしに聞こえていた。なんとなく、隆史は耳を澄ましていた。そうしたら、聞こえた。
いーれーてー……
あーそーぼー……
子供の声だ。女の子の声……。
声自体は、変なものじゃない。普通に、女の子が友達に呼びかける声だ。だが、この夜のひと気のない路地、住む人もない空き家の前では、これはあまりにも不自然だった。
それとも、幻聴だろうか。音を立てないようにじっとして、隆史はもう一度耳を澄ました。
いーれーてー……
あーそーぼー……
また聞こえた。今度ははっきり、塀の隙間の向こうからだ。つまり、空き家の敷地の中のどこかから。
隆史はぞっとした。そんなこと、あり得ない。だれか子供が空き家に忍び込んで、遊んでる? そんな馬鹿な。塀の隙間から見える、空き家の敷地は真っ暗だ。こんな暗闇の中で平気で遊ぶ子供なんている訳ないし、いるとしたらそれは。
いーれーてー……
声が少しずつ近づいている、今や塀の向こう側すぐのところまでやって来ている、ということに気づいて、隆史はムックのリードを思い切り引いて走り出した。幸いにも、今度はムックもついてきてくれた。土の道を抜け、アパートの前も抜けて、後ろも一切見ずに隆史はムックを引っ張って走って逃げた。
ムックのウンコもそこそこに、隆史は家までの道を走り通しに走った。
慶太は得意げに話を終えたが、聡子があんまり聞いていないのに気づくと「ちぇっ」と舌打ちして離れていった。聡子は絵を描く場所を決め、バッグを開けて色鉛筆を取り出し、木の根の上に並べていた。
「おい、幽霊が出るかもしれないぞ!」
と慶太は言った。
「いいよ、別に」
「なんだよ、怖くないのか?」
「別に」
聡子は上の空だった。バッグを閉じて地面に立てて置き、自分はその上に腰掛ける。スケッチブックを開いて膝の上の置いた。
「おい」
聡子が答えないので、慶太はもう一度、
「おい、平井ってば」
と言った。
「なに?」
「俺はもう行くよ。もういいんだろ?」
「うん、いいよ。抜け道を教えてくれてありがとうね」
ちらっとだけ振り向いてすぐまた向き直り、聡子は空き家をじっと見つめた。
慶太はまだポケットに手を突っ込んで、眺めていた。
「あのさあ」と慶太は言った。
「なに?」
「誰かに見つからないように気をつけろよ。見つかったら、俺が怒られるんだからな」
「うん、気をつける」
「路地の方にはあんまり近づくなよ。それと、そっちの明るいところはアパートの二階から見えるから行くな」
「わかった」
「帰る時は、板を立てかけて穴を隠すんだぞ。見つかったら、塞がれちゃうかもしれないからな」
「うん」
聡子は鉛筆を走らせていった。もう慶太の方が見もしない。
「お前、本当に変わってんな」
聡子は答えなかった。集中しているその横顔をしばらく眺め、やがて慶太は戻っていった。
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