パート2 夏の空き家

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3  聡子は時間を忘れていた。鉛筆と色鉛筆で、木々に囲まれた空き家の風景をほぼスケッチし終わっていた。次は絵の具を使って描いてみたい……と思ったところで、絵の具を溶くための水がないことに気づいた。我に返り、スケッチブックを膝から下ろして地面に置いて、うーんと伸びをした。ずっと同じ姿勢でいたので、体が固くなっていた。  立ち上がって、こわばった腕を伸ばす。同時に、プーンと音を立ててまとわりつく蚊を叩いた。これだけ藪が多くては当たり前だが、この場所は蚊が多かった。顔も腕も足も、既にあちこち刺されてしまった。蚊に刺されることも厭わずに、絵に没頭していたのだ。  聡子は腕をボリボリと掻いた。次に来る時は、スプレーか蚊取り線香が必須だろう。  きょろきょろと辺りを見回して、聡子は水を汲める場所がないか探した。空き家の方に近づいて、家の周りを探してみる。  じきに、地面から突き出した水道の散水柱を見つけた。喜んで蛇口を捻ってみたが、一滴の水も出ない。それはそうだ、未だに水道が出る状態である訳はない。  どうしよう。慶太のところで借りようか。ペットボトルを持って来ればよかった。聡子は思いを巡らせ、それにしても今は何時だろうと思った。  スケッチに没頭して、すっかり時間を忘れていた。時計は持っていないし、ここには当然時間がわかるものなんてない。陽はほぼ真上にあるが、既にお昼はかなり過ぎているようだ。  太陽を見上げると、聡子はふらついた。よろけて、倒れそうになったがなんとか踏み止まる。考えてみれば、夏の日中に水も飲まず、休憩もせず絵に集中していた。楠の木陰のおかげで直射日光は浴びていないが、それでも熱射病かもしれない。  聡子が恐れたのは、病気になったり倒れたりして、ここに来たことがバレてしまうことだった。まだまだ描きたい絵はたくさんあるのだ。ここに来れなくなったら大変だ。続きはまた明日……大丈夫、夏休みはまだまだ長いのだから。  絵は切り上げることに決めた聡子だが、なんとなく立ち去り難く、建物の近くにぶらぶらと寄っていった。  干上がった散水柱の向こうに、平屋の部分が横に長く続いていた。庭に沿った一面は縁側になるのだと思われたが、今はすべて雨戸が閉められている。  家全体が屋根の重みに耐えられずひしゃげていたので、雨戸と雨戸の間には隙間が空いていた。入っていけるほどの隙間ではない。隙間を覗き込んでみてもただ暗闇があるだけで、家の中の様子はまるで見えなかった。  雨戸の横には勝手口と思われる扉があった。台所に通じているのかもしれない。あまり頑丈そうでない木の扉で、表面の板が剥がれて反り返っていた。掛け金には大きな南京錠がかかっていた。  勝手口より先の壁際には、古い板や木箱、空き瓶の入ったケースなどが乱雑に積まれていた。ずいぶん古そうなビール瓶やジュースの瓶がある。割れたガラスも草の中に散らばっていて、危なっかしくて近寄れなかった。壁には格子の入った窓があり、中を覗いてみたかったが、そばまで寄ることができなかった。  セミは鳴き続けていた。草むらを歩くと、たくさんのバッタが驚いて飛び跳ねて逃げていった。小さな生命の気配は無数にあったが、空き家が発しているのは、それを上回る大きな不在の感覚だった。  あるべきものが、ないという感覚。家なら人が住んでいるはずなのに、誰もいない。誰もいないまま何年も、時間だけが積み重なっている。  聡子はふと、自分がこの空き家に惹かれる理由がわかった気がした。ここでなら、あるはずのものがない「不在」であるとか、ただ無言で積み重なった「時間」のような、形のないものが絵に描けるかもしれない。難しくて、とても人には説明できそうになかったけれど。  ゴミが散らばったあたりから先、藪は更に深さを増して、ジャングルの様相になっていた。完全につる草に覆われた立体物が庭にあり、いったいそれがなんなのか、聡子はしばらく首をひねった。やがて、おそらく物干し台らしいと思い当たった。元となる台や竿は完全に緑に覆われてしまって、正体不明のオブジェみたいになっていた。  平屋の建物はそこで直角に折れて、奥へと続いていた。裏側には、家に沿って木材を組んだ庇が取り付けられ、トタンの波板が屋根として渡してあった。この囲いのおかげで、このあたりでは家も緑の侵食を免れているようだ。その代わりに、庇にはつる草がしっかりと絡みついていた。這い上がる緑が視界を遮り、トタン屋根の下はひどく暗く沈んでいた。  家と庇、それに草木が作る暗いトンネルを、聡子は覗き込んだ。暗くて、目がチカチカするみたい。暗がりをじっと見ていると、家の中から、声が聞こえた。  微かな声。聞こえるか聞こえないかの、ギリギリの声。ほとんど気のせいかと思ってしまいそうな。だが、確かに聞こえた気がした。  それはたぶん、子供の声だった。子供が、遊んで欲しくて呼びかける声。  いーれーてー……  あーそーぼー……  まさか。  聡子は首を傾げた。慶太の話なんて怖くないと言っていたけど、実はめいっぱい影響されていたのだろうか。話に出てきたのと、同じ声を聞いてしまうなんて。  それとも、どこか遠くから聞こえた本当の声だろうか。通りで遊んでいる子供の声が、風向きの加減か何かで、空き家からのように聞こえたんだろうか。  そこにじっとして、聡子は耳を澄ました。しばらく待っていたが、セミの声以外には何も聞こえない。  急にそこにいるのが怖くなってきて、聡子はあたふたとその場を離れた。  物干し台の横を通り、元の場所に戻っていく。楠の木の根元に置かれた、画材のバッグやスケッチブックを目にすると、聡子はなんとなく安心した。現実と接点のある場所に、戻ってこれた気がした。そうしてみるとまだ帰るのはもったいないと思えて、聡子は今度は洋館の方へ向かっていった。  洋館の正面の入り口に向けて、レンガを組んで作った数段の階段があった。聡子はそこを登って、ボロボロの木戸の残骸越しに、中を覗き込んだ。  暗がりが、ぽっかりと口を開けていた。部屋の中には、家具や調度の類いは何も残ってはいない。落ち葉が大量に床に入り込み、外の地面と変わらないような様相になっていた。ただ、いくらか残った壁紙の模様だけが、そこが快適な洋間であった頃を忍ばせた。壁紙は花の模様だった。外から侵入してきた本物のつる草がその上を這って、人工と自然が拮抗しているようだった。聡子の見る限り、自然の勝ちは揺るぎないものに見えた。  木戸の側に立って、聡子は更に奥の暗がりに目を凝らした。木の影の隙間から届く光は奥まで照らさず、部屋の半ばより深いところは暗闇に近い。奥の壁に、重厚そうな木の扉があるのが辛うじて見えた。完全には閉ざされず、僅かな隙間が開いている。隙間の向こうは、それこそまったくの暗闇だ。あそこから更に奥へ、雨戸に閉ざされた日本家屋の部分にも入っていけるのだろう。洋風と和風の繋ぎ目の部分は、どんなふうになっているのだろう。行って、ちょっと覗くだけでもやってみようか……聡子がそう思って体を浮かしかけた時、  ズシン、と奥から音が響いた。  聡子はドキドキしながら、そっと耳をそばだてた。息を殺して、耳に意識を集中したが、音はそれ以上は聞こえてこなかった。  何の音だろう。何か、重いものが落ちたような音だった。どこか空き家の奥の方で、積まれたガラクタか何かが落ちたのだろう。ただ単に、自然に。それだけのことだろう。  だが聡子は、閉ざされた暗闇の中で蠢いている何者かのことを、想像せずにはいられなかった。  自然と、また聡子はさっきの慶太の話を思い出した。さっき聞いた時は馬鹿馬鹿しく思えて、話半分にしか聞いていなかったけれど、今この暗がりの中に立ってみると、ずいぶんリアルな話だった気がするのだった。  さっき聞こえたように思えた子供の声と、関係があるのだろうか?  ドアの向こうの闇を、聡子は見つめた。  闇の奥から、また声が聞こえてきた。  いーれーてー……  あーそーぼー……  女の子の声だ。間違いじゃない。  気のせいじゃない。確かに、聞こえた。  このドアの向こう、暗闇の奥から聞こえたのだ。  聡子はいくつかの可能性を思った。一つは、誰かのいたずらである可能性。誰か……と言うなら慶太ということになるのだろうが。だが、こんないたずらが可能だろうか? 誰か女の子に協力させて、こんな真っ暗な廃屋の中に潜んでおいて、タイミングを見計らって声を出す。いやいや、あり得ないだろう。だいたい、聡子は小一時間、この家をずっと見張って絵を描いていたのだ。仕込みをするならその前からということになるし、いくらなんでもそんな悠長ないたずらに付き合う人はいないだろう。  あるいは、気のせいである可能性。客観的には、これがいちばんありそうだと、誰もが思いそうだが。聡子の主観は、違うと言っていた。聞こえた声は、実感を伴って耳に残っていた。それも、どこか別の遠くから聞こえてきた訳じゃない。空き家の中から聞こえてきたのだ。洋間の暗がりの奥、閉ざされた木の扉の向こうの、ずっとずっと暗いに違いない暗闇の中から。  もうずっと日の光を浴びたこともない閉ざされた闇の中に、子供がいる。生身の子供であるはずがない。  つまり、幽霊だということだ。  自分自身の連想に、聡子はぞっとした。  闇に目を凝らす。何も見えないが、何か風が動いた気がする。闇のずっと奥の方で、何かが動く気配。  今度は、ミシリ、と音がした。たぶん床板が軋む音だ。続いてまたミシリ。明らかに空き家の奥から聞こえる。何かが歩いている。  近づいてくる。  くるりと後ろを向いて、聡子は逃げ出した。  楠の根元まで走って逃げて、慌てて画材を拾い集める。ちらちらと洋館の入り口に目をやった。今にも、聡子を追って何かが闇から出てくるような。早く、早く。掴んだ色鉛筆が汗で滑り、木の根の間にはまり込んだ。焦って指を突っ込むが、なかなか上手く掴めない……。  その時に、何かが格子戸の隙間を抜けて飛び出してきた。何か小さなすばしこいもの、白と黒のしなやかな毛玉。  猫だった。聡子は、全身の力が抜けるのを感じた。  猫はレンガの階段を悠々と降りてきて、聡子に気づくとじっと睨んで、にゃーおと小さな声で鳴いた。 「なーんだ」  と聡子は声に出して言った。 「脅かさないでよね」  猫はまた風のように走り去った。草薮に飛び込み、ガサガサとあちこちの草を揺らす音を立てながら、やがてどこかに見えなくなった。  考えてみれば、空き家に入り込んで音を立てるのは猫に決まってる。得体の知れない怖いものを思い浮かべる前に、当然猫だと思い当たるべきだったのだ。だが、ついさっきに感じた恐怖は強烈で、嫌な汗をいっぱいかいていたし、まだ心臓が激しく跳ねていた。  それに、あの声。あの声も、猫の鳴き声を聞き違えたなんてことがあるだろうか? まさか。  どうにか落ち着きを取り戻し、聡子はスケッチブックを取り上げた。今日の成果のスケッチを眺める。張り出した葉陰の向こうに佇む、崩れかかった空き家の姿が、なかなかいい感じに描き留められていた。  聡子は満足した。これから毎日ここへ来てたくさん描けば、もっともっといい絵が描けるだろうと思えた。  今はまだ、古く汚い廃屋の絵でしかない。でも、もう少し上手に描ければ、薄汚れた外見の影に隠れたきれいさを、聡子が感じているこの感じを、絵にすることができるだろう……。  絵の細かい部分をチェックしていて、聡子はふと目を留めた。訝しげな表情になる。洋館の二階の窓のところ。聡子は、窓の向こうに影を描き込んでいた。現実の、目の前の洋館と見比べる。二階の窓に目を凝らしたが、絵に描いた影に当たるものは見当たらなかった。  これはなんだろう。私は何を描いたんだろう。  光線の具合か何かで、ちょうどこの部分を描いた時にだけ、こんな影ができていたんだろうか。  だが……影は人影に見えた。二階の窓から、聡子の方を見下ろす人の姿に見えた。  それも、子供の人影だ。  いーれーてー……あーそーぼー……さっきの声が、耳の中で再生された。  聡子はバッグを掴み、スケッチブックを閉じて、塀の穴に向けて駆け出した。
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