寒夜の足跡

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――これは昨日のプリントの分。こっちは火曜日の赤青えんぴつの分――。 ペタリペタリとひとつひとつの拳に満身の力を込めて、私の意思じゃないみたいに右手が壁を机を黒板を這う。誰にも気づかれないように、けれども確かな思いを込めて。 ユーヤくんはピンクが嫌いだって言っていたから……。 『ももいろ』と書かれた小さなチューブを、夜の闇と同化した黒色のリュックから、音を立てないように取り出し、可哀想になるくらいにぎゅうっと絞って、ボロボロにされたうわばきの裏にたっぷり付けてやる。 産み落とされたばかりの水彩ピンクは墨に染まった5年1組の教室に似つかわしくない光の空気を放っていた。 準備は完了。ラクガキも何もないつるつるのカラメルみたいな色をした机の天板に、日頃の恨みを込めて私の、私だけの武器を叩きつける。 間髪をいれずに二発目、三発目……。 あっという間に桃の花がぱあっと咲いて、眩しい三月の香りが寒さで真っ赤に染まった小さな鼻をくすぐった。 さあ、あともう少し。床に天井にロッカーに少し早い春を告げたら完成だ。絵の具のストックはまだ十分にある。何度も何度もナナミちゃん達が汚らしい泥棒猫みたいに盗むから、その度にママに気づかれないようにしてこっそり買い足した。 私がいじめられていると気がついたら、パパが出ていってしまった時以上にママは悲しむだろう。私に不自由させないよう、夜遅くまで一生懸命働いていた。いらない、と断ってもお小遣いを毎月欠かさずくれた。そこまでしてもらっても、みんなの輪の中に入れない私を見たらママは裏切られたような顔をすると思う。 タチの悪いことにあいつらは、箱で盗むんじゃなくてチューブ単位で持っていくから、先生も「無くしただけじゃない? よく探した? 」なんて言って真面目に取り合ってくれない。 先生はナナミちゃんのことが大好きだ。簡単な問題でも、ナナミちゃんが元気よく答えれば、大袈裟に褒めるし、いつも機嫌を損ねないように気を使っている。昔の恋人に似ているから優しくしてるんだ、なんて噂もあるけれど、多分違う。ナナミちゃんのお母さんはちょっといろいろ面倒くさい人だって保護者の間では有名だ。まあ、先生にも先生なりの苦労がある、事にしておきたい、そうであって欲しい。 私は自分のことを大人だとは思っていないが、大人の気持ちを想像して理解することは出来る。でも、目の前の小さな女の子が大量の絵の具のチューブを前にして泣くのを、見殺しにすることの出来る先生の精神状態はよく分からなかった。 今日のお昼休み、ナナミちゃんはいままでに盗んだチューブを盛大に私の前にばらまいた。信じられないほど意地の悪い笑みを浮かべながら。クラスのみんなの目が三日月型に歪んでこちらを向いていた。 降り掛かってくる色とりどりの雨を見て、よくもまあここまで貯めてきたなあとか、几帳面だなあなんて感じたのは一瞬で、直ぐにママへの申し訳なさでいっぱいになった。 お腹の底がすうっと冷えて、雪のかたまりがのどのあたりに引っかかっているような気がした。 どうしてあなたはこんな目にあっているの? 聞かれたってわからない。やり返したら変わるだろうか? いや、きっと変わらない。もっと手ひどい復讐が待っているだけ。 それだったらせめてでも足跡を残してやることを私は選んだ。 威嚇するみたいな『きいろ』を颯爽と黒板に打ち付けて、私の戦いはひとまず終わった。黒板の淀んだ緑色に抗うかのように、堂々と唄い続けるカナリヤが、確かにそこにいた。 古びた時計の針は午後11時32分を指している。 忘れていた冬の寒さと緊張がいっぺんに戻ってきて、これまた薄汚れた木のタイルが一斉に重力へ反乱してぐらぐらと暴れているかのような錯覚を引き起こさせた。 窓の外には夜の海の向こうに街灯の明かりのさんざめく日常が広がっている。 怪物の皮を脱ぎ捨て、ちっぽけな少女に戻った私は猫のような足取りで、誰もいない空っぽの家を目指して、深い眠りの底を渡ってゆく。 確かな足跡を残しながら。
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